ひとやすみ ハンナとパン屋
「やあ、久しぶりだね、ハンナ」
街へ買い物に出ていたハンナへ、パン屋の女店主が声を掛けた。
店先には焼き上がったばかりのパンが次々と並べられており、その中でもひときわ香ばしい匂いを漂わせているのが、艶やかな焼き色のついたクロワッサンだった。
「ほら、食べていきな」
紙に包む間も惜しいとばかりに、熱々のひとつをそのまま差し出される。
受け取ったハンナが遠慮なく口へ運べば、薄い層を重ねた表面がさくりと軽やかに崩れ、その内側からは、たっぷりと染み込んだバターの風味がじゅわりと広がった。
思わず目が輝く。
「美味しいだろ?」
「マーサおばさんたら、また腕を上げたの?」
「分かってるねぇ。ところでアンタ、最近はどうなんだい? 新しいところに移ったんだろ」
残りのクロワッサンを咀嚼しながら、ハンナはふふん、と得意げに鼻を鳴らした。
「またこき使われてるんじゃないかと思ってたけど、その様子じゃ違うみたいだね」
「ええ、もちろん」
最後のひと口まで綺麗に食べ終える。
マーサは、ハンナにとって昔からの顔馴染みだった。
二つほど前に仕えていた屋敷が贔屓にしていたパン屋で、店自体は小さいものの、その腕は確かである。夫婦二人で切り盛りしているが、朝から客足が途絶えることもなく、そろそろ人を雇った方がよいのではないかと、ハンナは会うたびに思っていた。
もっとも、マーサが心配している「こき使われていた」という話は、その屋敷ではなく、ひとつ前に仕えていた家のことである。
数年前まで勤めていたその屋敷の奥方は、酷く我儘で、強欲という言葉をそのまま人の姿にしたような人物だった。
(いびられていた、というほどではないと思うけれど)
当時のハンナは、本気でそう思っていた。
毎日のように、あれを買ってこい、これを探してこいと街中を走らされるのも、侍女ならそんなものなのだろうと受け入れていたのだ。
後になって他所の侍女から「それは普通ではない」と言われ、初めて自分が随分と無茶をさせられていたらしいと知った。
それでも買い物自体は嫌いではなかったため、しばらくは素直に従っていた。
けれどある日、癇癪を起こした奥方が、よりにもよってマーサの焼いたパンを床へ投げつけた。
ハンナがその日のうちに辞職を決めたのは言うまでもない。
「今のご主人はどんな人なんだい」
「とっても素敵な方よ。まるで……そうね、天使のようで……」
今の主人とは、もちろんリリエのことである。
現在のハンナは上級侍女として仕えているが、初めからそうだったわけではない。
侍女は経験を重ねるごとに任される仕事も増え、低級、中級、上級と立場を上げていく。若い頃は小さな家に仕えることも多く、そこから働きぶりや経験を認められ、より格の高い家へ移る者も珍しくない。
ラヴィリエ宮へ仕える直前、ハンナが勤めていたのは公爵家だった。
「悪いところじゃないようで安心したよ」
「悪いどころか、ずっとお仕えしていたいくらいよ」
「なんだい、アンタ。恋でもしてるのかい」
呆れたように言いながら、マーサは手にしていたトレーを木台の上へ置き、やれやれと眉を下げた。
余程ハンナの新しい主人が気になるのだろう。
その間にも、焼き上がったパンは夫のエドワードが一人で忙しなく棚へ並べている。
夫は妻より立場が弱い、などと冗談めかして言われる夫婦もいるが、この店に関してはまさしくその通りなのかもしれない。
妻が腰掛けて悠々と話し込んでいても、エドワードは嫌な顔ひとつせず働いている。
貴族社会では、まず見られない光景だろう。
「どこかの男爵かい? アンタの腕なら、公爵付きにだってなれるだろう」
「ご令嬢よ」
「驚いた。女性なのかい」
「ええ。けれど、奥様はそれはもう素敵な方で…」
頬を染めながら語るハンナを見て、マーサは小さく「ふぅん」と鼻を鳴らした。
「アンタ、好きになるのは自由とはいえ、さすがに既婚者は問題じゃないかい」
「もう、マーサったら。恋じゃないわよ」
マーサは昔から、そういうことに偏見のない人だった。
そもそも自由恋愛というものは、貴族よりも平民の方が遥かに身近である。
貴族社会では家柄や領地、利益を優先した婚姻が多く、同程度の家同士で縁を結ぶこともあれば、互いの利益のためだけに契約めいた婚姻を結ぶこともある。
子孫を残すこと、家を栄えさせること、交易や政治上の結びつきを強めること。
そうした目的のために結ばれた夫婦の間に、必ずしも愛があるとは限らない。
表向きは仲睦まじい夫婦を演じながら、互いに別の相手を想っている――そんな話も、珍しいものではなかった。
要は、そういう世界なのだ。
「ハンナがそこまで入れ込むなんて珍しいからね。どんな人なんだい、その奥様は」
「そうねぇ……」
いつの間にかマーサの隣へ腰掛け、ハンナは両手で頬杖をついた。
聡明な人だ。
良い意味で、貴族らしさがない。
それでいて穏やかで、美しくて、誰に対しても分け隔てなく接して――。
考え始めれば、いくらでも言葉が浮かんでくる。
「青い薔薇が、とてもお似合いになられるの」
口にした途端、自分でも少し可笑しくなった。
まるで本当に恋をしているような言い方ではないか。
とはいえ、ラヴィリエ宮へ仕え、しかも政略結婚によって迎えられたセレスティア家の令嬢付きだなどとは、口が裂けても言えない。
だからこそ、今のハンナが伝えられる精一杯が、その一言だった。
「そうかい」
マーサは、それ以上深く訊こうとはしなかった。
ただ小さく頷くと、立ち上がって店の奥へ入り、ほどなくして紙袋をひとつ抱えて戻ってくる。
「その奥様に、いつか会わせておくれよ」
それだけ言って、半ば押しつけるように紙袋をハンナへ渡した。
中身を確かめずとも、何が入っているかくらい分かる。
きっと彼女なりの気遣いなのだろう。
ハンナは嬉しそうに口元を緩め、紙袋を大切に抱え直した。
「ええ、きっとね」
「……美味しい」
パンを頬張る主人の姿を、ハンナは慈しむような眼差しで見つめていた。
「ここのパンはどれも一流ですけれど、クロワッサンが特に絶品なんですよ、奥様」
「そうね。本当に、とても美味しいもの」
目をきらきらと輝かせながら、嬉しそうに口を動かすリリエ。
そんな姿を見ていると、ふと、彼女が初めてこの宮殿へやって来た頃のことを思い出した。
あの頃のリリエは、喜ぶということすら忘れてしまったようだった。
何をしても、何を差し出しても、まず浮かべるのは申し訳なさそうな表情ばかり。
それが今では、焼きたてのパンひとつに目を輝かせている。
(ああ、本当に天使だわ)
ハンナは胸の内で、しみじみと思う。
いつかきっと、必ずリリエとマーサを会わせよう。
マーサなら、きっとこの人を気に入ってくれる。
そして、この人ならきっとマーサの焼いたパンを、今日と同じように美味しそうに食べてくれるだろう。
そんな未来を思い浮かべながら、ハンナはひとり満足げに微笑んだ。
ハンナの勘は、よく当たるのだ。




