甘い毒
「……お久しゅうございます、セシリア様」
リリエはほんの僅かに目を伏せ、小さくその名を呼んだ。その一言を聞いた瞬間、セシリアは胸の奥で小さく笑う。
――久しぶり?
セレスティア公爵家から追い出されたも同然のお姉様が、よくもそんな穏やかな言葉を口にできるものだ。
「お義姉様、お元気そうね」
柔らかく微笑みながら一歩近付く。
月明かりを浴びた淡い桃色のドレスがふわりと揺れ、その裾が夜風を受けて花弁のように広がった。
「…随分とまあ、お綺麗なドレスをお召しになって」
そう言いながら頭の先からつま先までゆっくりと視線を滑らせる。近くで見るそのドレスは、大広間から眺めていた時以上に見事な仕立てだった。幾重にも重なる淡い青のチュールは夜露を纏った花びらのように繊細で、胸元から肩へ流れるレースは雪の結晶を思わせるほど精巧に編み込まれている。青薔薇を模した髪飾りもまた、白い肌によく映えていた。
それだけではない。
以前は荒れ放題だった指先はすっかり傷一つなく整い、青白かった頬にもほんのりと血色が戻っている。痩せ細っていた身体も以前より幾分ふっくらとし、健康的ですらあった。セレスティアにいた頃の、侍女以下のような惨めなお姉様は、どこにもいない。
(…おかしいわ)
てっきりラヴィリエでも冷遇されているものと思っていた。政略結婚なのだから、大切に扱われるはずがない。
そう信じて疑わなかった。
それなのに目の前に立つお姉様は、以前よりもずっと美しく、ずっと幸せそうだった。
その事実が、どうにも気に入らない。
それ以上に。
セシリアの脳裏へ焼き付いて離れないものがあった。
先ほどのワルツで、殿下がお姉様へ向けたあの眼差し。
あの方は冷徹なる鷹と称される御方。
女嫌いとして名高く、これまで幾度となく舞踏会へ足を運んできたセシリアですら、あれほど柔らかく笑う姿など見たことがない。ヴィオラ様と言葉を交わす時でさえ、僅かに口角を緩める程度だった。
なのに。
どうして?
どうして、お姉様などに。
(……有り得ないわ)
ぎり、と唇を噛み締める。
政略結婚の相手に過ぎないお姉様へ、あんな表情を向ける理由などどこにもない。
きっと気のせいよ。
そうでなければ、お姉様が勝手に勘違いしているだけ。
そう思い込まなければ、胸の奥で渦巻く黒い感情を抑えられそうになかった。
「お義姉様」
ふと声音を落とす。
優しく、けれど逃がさないように。
「随分と殿下へ心を許していらっしゃるようだけれど…ご自分のお立場を、きちんとご理解なさっていて?」
リリエはゆっくりと顔を上げる。
夜風が青い髪をさらりと揺らし、静かな瞳がセシリアを映した。
「もしかして、ご自分が正妻にでもなられたおつもり?」
くすり、と扇子で口元を隠しながら笑う。
その笑い声だけが静かなバルコニーへ小さく響いた。
「浮かれていらっしゃるところ申し訳ありませんけれど……お義姉様は政略結婚のお立場ですのよ?今は皇太子妃でいらっしゃっても、本来そのお席へ立たれるべきなのはヴィオラ様でしょう?」
リリエは静かに目を伏せた。
「…………そう、ですね」
その返事を聞いた瞬間、胸がすっと軽くなる。
ああ、その顔!
その俯いた姿こそ、お義姉様にはよくお似合いだわ。
セシリアはゆっくりと距離を詰める。
コツ、と踵が床を鳴らした。
一歩、また一歩、と。
そのたび、夜風に乗って甘い香水がふわりと漂う。
あと一歩近付けば互いの吐息すら届く距離。
「…まぁ、そんなに落ち込まないでくださいまし」
まるで本当に姉を慰めるような優しい声音で囁く。
「だって、お義姉様はあと半年もすれば、お役目を終えて宮殿を去られるのでしょう?」
その一言で、リリエの表情から色が消えた。
まるで咲き誇っていた青薔薇が、一枚ずつ花弁を落としていくようだった。
そう、それでいいわ。
(お義姉様は、そうして俯いている方がお似合いですもの!)
セシリアは満足そうに微笑む。
けれど、まだ足りない。
この程度では、またレオンハルトの一言で立ち直ってしまうかもしれない、とセシリアは思った。それだけは困る。
「ああ、そうですわ!」
踵を返しかけていたところを、思い出したように振り返ると、セシリアから薔薇の香りがふわりと流れる。
「お義姉様へ、お伝えし忘れていたことがございましたわ」
「……何でしょうか」
「先ほど、わたくしも殿下へご挨拶いたしましたのよ?」
セシリアがふ、と笑うと、リリエは静かに頷く。
少しだけ間を置いてから、セシリアは花が咲くように笑った。
「殿下、おっしゃっていましたわ……お義姉様を好きになる価値など、微塵も感じられない、と」
静寂が落ちる。
リリエの瞳が僅かに揺れたのが見えて、口角が思わず上がる。その反応だけで十分だった。
「……でもお気を落とさないでくださいませ?契約なのですもの、仕方のないことですわ」
優雅に一礼すると、再び踵を返す。
ちらりとバルコニーから会場を見ると、扉の向こうではまだレオンハルトが公爵たちと談笑している姿が見えた。クロードも、相変わらず忙しそうに立ち回っている。
誰一人として、このバルコニーで交わされた会話など知る由もない。
「うふふ」
扇子で口元を隠し、小さく肩を竦める。
「お義姉様ったら、本当に馬鹿な女」




