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社交界の噂


翌日。

ハンナが部屋の扉を三度ノックし、静かにそれを開けた。


「失礼いたします、奥様——」


その声は、室内の光景に途中で途切れる。

リリエはすでに目を覚ましていた。それだけではない。簡易ながらも整えられた身支度を済ませ、侍女の手を借りた形跡もない。

その事実を視認した瞬間、ハンナは思わず目を見開いた。


「おはようございます」


リリエはこちらに気付くと、深々と頭を下げた。


「お辞めください奥様!」


思わず声をあげてしまい、はっとなる。

だがリリエは表情ひとつ変えずにハンナを見つめていた。

噂通りなら、叱責や平手打ちが飛んでもおかしくないはずなのに。


一体どういうことだ。昨日の今日で、ハンナは困惑の色を浮かべていた。

公爵家の出であるはずのリリエが、誰の手も借りず身支度を済ませ、あろうことか侍女に頭を下げている。

その有り得ない光景が、目の前に広がっているのだ。


「……失礼ですが奥様、おひとりで身支度を?」

「はい」

「そうでございましたか…大変申し訳ございません。明日以降は奥様のお目覚めに合わせ、参るようにいたします」

「いえ、大丈夫です。いつものことですから」


ハンナは耳を疑った。

いつものこと、と言ったのだ。

呆気にとられていると、リリエはハンナに問いかけた。


「何かやることはありますか?」








ヴァルディア皇宮は帝都の中心にそびえ立っていた。

白亜の外壁は陽光を受けて輝き、幾重にも連なる尖塔は空へと伸びる。

歴代の皇帝たちが築き上げてきたその威容は、帝国の繁栄そのものだった。

広大な庭園には色とりどりの薔薇が咲き誇り、温室も完備されている。庭園の周辺には噴水や彫像が整然と並び、帝国最高峰の宮殿に相応しい景観を作り上げていた。

大きな門の先には、ヴァルディア皇室の紋章が掲げられていた。

黄金に輝くその紋章は、この国の誇りそのものと言っても過言ではない。

ひと目見れば、それがヴァルディア皇室のものであると誰もが理解するだろう。


そんな宮殿で朝餐(ちょうさん)の場として用いられる大食堂は、数十人が同時に食事を取れるほど広かった。

天井には巨大なシャンデリアが吊るされ、壁には歴代皇帝の肖像画が飾られている。

長い食卓の最奥は皇帝、アルドリック・デル・アストレア・ラヴィリエが。

その右手には皇太子レオンハルト、左手には第二皇子ユリウスの席が設けられており、レオンハルトの傍らに寄り添うように座るものこそがまさに時期皇帝妃を約束された許嫁、ヴィオラ・エヴァレットである。


朝餐は基本、アルドリック、レオンハルト、ユリウスの三人で取るのが慣例だった。そこには、家族同然に扱われるヴィオラの姿もある。

だがリリエの姿は何日経っても見えることはない。





「兄上、本日はどちらへ?」

「西部の騎士団へ視察だが」


朝食のオムレツを口にしながら、レオンハルトは顔色ひとつ変えず淡々と返事をした。


「相変わらずご多忙ですね、兄上。…ところで、兄上が婚姻なさってからリリエ嬢のお姿が見せえませんが」

「知らん。興味もない」

「リリエ嬢、この宮殿に来てから、一歩もお部屋の外に出ていないようですね」

「……何がいいたい」


凍てつくような瞳を向けるレオンハルトに、ユリウスは軽く「あはは」と笑った。

どうやら彼は本当に、微塵も正妻(リリエ)に興味がないらしい。


「まぁ…今度のお茶会にリリエ嬢も招待して差し上げた方がいいかしら?」


(わざ)とらしく会話に割って入ったのはヴィオラ・エヴァレット。

まるでユリウスに「余計な話をするな」とでも言いたげに、チラリと目線を送る。


「必要ない」

「まぁ。殿下ったら、そんなこと仰らないで。私は殿下の奥様とは親しくさせていただきたいのですから」

「それには僕も賛成ですね」


すかさずユリウスは言った。


「リリエ嬢はいくら政略とはいえ、今は兄上の正妃です。いつまでも部屋へ留め置けば宮廷内で妙な憶測を呼びかねません。」


虚を突かれたのか、それとも図星だったのか。レオンハルトは忌々しげに舌打ちを漏らした。


「勝手にしろ」


そう吐き捨てると、再びオムレツを口に運んだ。


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