望まぬ婚姻
政略結婚が決まったのは今からふた月ほど前のことだった。
その日はいつものように明朝から庭園の手入れをし、義妹のセシリアが起きる時間と同時にハーブティーを用意して部屋へ運ぶ。
『目覚めたばかりの私に熱い茶など飲ませるなんて、お義姉様は頭がおかしいのではなくて?』
そう責め立てられて以来、リリエはセシリアのために敢えて温度を落としたハーブティーを用意していた。
けれど、その日のセシリアは酷く機嫌を損ねていたので、ハーブティーは無惨にもリリエへ向かって全てぶちまけられた。
「お義姉様ったら、ハーブティーのひとつもまともに入れられないの!?」
「……申し訳ございません、すぐに新しいものを」
「いらないわ!早くここから出ていって頂戴!」
リリエは深く頭を下げるとカップを持って部屋を後にする。
このような扱いなど、すっかり慣れてしまった。
先程のお茶が熱くなかっただけまだ可愛いほうである。
地味なドレスに着替えたリリエが書斎を清掃していると、侍女が声を掛けた。
実父であるベルナール・セレスティアからの呼び出しだと添えて。
「ありがとうございます」
侍女にも関わらず、リリエは深々と頭を下げた。
セレスティア家ではもう見慣れた光景である。
リリエは実父から酷く忌み嫌われていた。元々、跡を継げない性別だとかそういう理由で小言を言われることは多かったが、ベルナールは愛する正妻の前では猫をかぶるようにリリエを可愛がっていた。
やがて愛する妻が流行病でこの世を去ると、妻を失った失望感からかリリエに酷く当たるようになった。
笑いかければ笑うなと平手打ちが飛び、泣けば煩わしいと地下労に閉じ込められる。
公爵家ともあるまじきその扱いは、実父が再婚した後も続いた。
継母のオフィーリア・セレスティアは前妻との子どもに興味すら抱かない。
加えてベルナールの実子への扱いに、次第にオフィーリアまでリリエを煩わしいと感じるようになっていった。
リリエはそんなオフィーリアの態度に察していたのか、お義母さまとは呼ばず、オフィーリア様と呼ぶようになり、その態度がますます二人を苛立たせた。
やがてベルナールとオフィーリアの間に娘ができると、いよいよリリエの居場所は無くなった。
体裁のため、辛うじて家から追い出される事はなかったが、侍女のように扱き使われるようになる。
いつしかリリエは全ての感情を失ったように、にこりとも笑わなくなった。
リリエが実父呼び出される理由など、叱責か雑用くらいのものだった。
執務室まで歩いている途中で、オフィーリアとセシリアの笑い声が耳に入る。
「ようやくこの家の恥がいなくなるのね」
「お父様も無慈悲ね。いくら目障りとはいえ、こんな方法で厄介払いをなさるなんて」
リリエが部屋の前を通りかかるのを見計らったかのように、セシリアの高い笑い声が響いた。
「お前を皇太子殿下へ嫁がせることが決まった。
お前のような家の恥でも構わんと、そう仰っておられる。」
執務室の椅子に深く腰掛けたベルナールは、リリエの方など見向きもしない。
「これはあくまで政略結婚だ。双方の利益のためのものに過ぎない。
皇太子殿下には既に許嫁がいる。だが、伯爵家の身分で次期皇帝との婚姻は認められにくい。お前はそのための駒にすぎん。
期限は許嫁が世継ぎを成すまでだ。それ以降は好きに生きるがいい。
――二度とこの宮に戻るな。」
リリエは母の形見のネックレスだけを胸に下げてヴァルディア宮の門をくぐった。
リリエにつけられた侍女は驚きに目を見張る。
公爵家の嫡女ともあろう者が、荷物ひとつ持たずに嫁いでくるなど前例が無かったからだ。
リリエに用意された部屋は、宮殿の中でも明らかに格の低い一室だった。
北向きに位置し、陽は射さず、視界も開けていない。
まるで彼女の存在を覆い隠すために設えられたかのように。
(セレスティアにいた頃より豪華なお部屋)
部屋は明るく、ソファもベッドも新しいものを用意されている。
おまけに寝具は柔らかく整えられ、使い古した様子もない。
部屋の中には簡易の浴室があり、この部屋での生活はもはや快適とすら呼べるものだった。
部屋を一通り見渡したのち、リリエは侍女を下がらせた。
「セレスティアのお嬢様は噂通りの悪女だった?」
屋敷が寝静まった頃、侍女室では三人の侍女たちが新しいお嬢様の噂話で盛り上がっていた。
「それが全く…
部屋を見てもうんともすんとも言わないの。お嬢様のお部屋は、私たちの部屋より少し豪華なくらいなのに」
「呆れて声も出なかったんじゃないの?」
「体裁とはいえ婚姻してしまえば毎晩男を連れ込むことなんてできないものね」
「そういう風にはとても見えなかったけれど…」
「ハンナも気の毒ね。よりにもよって、セレスティアのお嬢様付きの侍女を任されるなんて」
「大丈夫よ。いくらセレスティアとはいえヴァルディア邸で悪事を働くほど知性がないわけではあるまいし」
「……だといいけれど…」




