美しい青薔薇
重厚な扉がゆっくりと開かれる。
その瞬間、それまで穏やかに談笑していた招待客たちの視線が、一斉に入口へと注がれた。
(…やっぱり、小規模という感覚はおかしいわよ)
先ほどクロードから聞かされた「比較的小規模な舞踏会」という言葉が、頭の中でよみがえる。
公爵家のみを招いた催しだとは聞いていた。それでも、大広間を埋め尽くすほどの人々を前にすれば、その言葉を素直に信じることなど到底できない。うら若き令嬢から、リリエでさえ名を知る名門公爵家の当主まで。
階段の上から見下ろすその光景は、まるで一枚の壮麗な絵画のようであり、その華やかさに思わず息を呑んだ。これほど多くの人々の視線を、一身に受けたことなど今まで一度もない。胸の鼓動は早鐘のように鳴り響き、今にも喉元から飛び出してしまいそうだった。
対するレオンハルトは、いつもと変わらぬ落ち着いた面持ちでリリエの手を取り、ゆっくりと階段を下り始める。
天井いっぱいに吊るされた水晶のシャンデリアが幾千もの光を零し、その輝きは二人の歩みに合わせるように、礼装やドレスのチュールを淡く照らしていた。
磨き上げられた大理石の階段へ、靴音だけが静かに響く。その音さえも、この大広間では美しい旋律の一部であるかのようだった。
がちがちに強張るリリエの身体へ気付いたのは、おそらくレオンハルトだけだっただろう。
大広間のあちらこちらでは、令嬢たちが口元へ扇子を添え、小さく何事かを囁き合っている。
(……私の、悪い噂)
そう思った瞬間、胸の奥がすうっと冷えていく。
ここ数日、書斎で穏やかな時間を重ねるうちに、いつの間にか忘れかけていた。自分は『青薔薇の毒姫』と呼ばれる女なのだ。
夜ごと男を連れ込み、金遣いは荒く、気に入らぬ侍女は容赦なく追い出す。
そのような悪名ばかりが独り歩きし、社交界では最悪の令嬢として語られている。
そんな女が、よりにもよって皇太子殿下の隣へ立っている。そう思うだけで、足先から力が抜けていくようだった。
「どうした」
不意に、レオンハルトが歩みを止める。
「何か気掛かりでもあるのか」
「……い、いえ」
笑おうとしても、上手く笑えない。
段々と青ざめていくリリエを見つめると、レオンハルトは静かに楽団へ視線を送った。
ほんの僅かな目配せ。
それだけで十分だった。
次の瞬間、それまで穏やかだった演奏が、華やかで晴れやかな旋律へと変わる。優雅な弦の音色が高らかに響き渡ると、招待客たちの視線は自然と楽団へ引き寄せられた。
思わずリリエは目を見開く。
誰一人として不快な思いをさせることなく、それでいて自分へ向けられていた視線だけを、さりげなく逸らしてしまった。その鮮やかな采配に、思わず胸の奥がじんわりと温かくなる。
(……殿下)
これが、この国を背負う人なのだ。
誰かを守るために、大げさな言葉も、目立つ振る舞いも必要としない。ただ、ごく自然に周囲の流れを変えてしまう。
楽団の音色へ耳を傾けるうちに、強張っていた肩から少しずつ力が抜けていく。最下段へ辿り着く頃には、リリエの表情も幾分和らいでいた。
ほどなくして、壇上へ腰掛けていた皇帝アルドリックが静かに立ち上がる。
それに合わせるように楽団の演奏が止み、大広間は水を打ったような静けさに包まれた。招待客たちの視線もまた、一斉に皇帝へと向けられる。
「皆、本日はよく参られた」
威厳を湛えながらも穏やかな声音が、大広間いっぱいへと響き渡る。
「今宵は、ラヴィリエ皇室主催による夏季舞踏会である。どうか、このひとときを心ゆくまで楽しみたまえ」
アルドリックはゆるりと会場を見渡したのち、レオンハルトとリリエへ静かに視線を送る。その口元へ、僅かな笑みが浮かんだ。
「――それでは、開宴としよう」
その宣言と同時に、楽団長が静かに指揮棒を掲げる。ひと振りすると、優雅なワルツが大広間いっぱいへ流れ始めた。
招待客たちは惜しみない拍手で皇太子夫妻を迎える。
レオンハルトとリリエは並んで一礼すると、ゆっくりと身体を起こした。そしてレオンハルトは静かにリリエへ向き直る。白い手袋に包まれた右手を、ゆるやかに差し出した。
「私と踊っていただけますか」
その声音は、先ほどまでよりもどこか柔らかい。リリエは一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく微笑んでその手へ自らの手を重ねた。
「……喜んで、お受けいたします」




