最初のエスコート
宮殿の大階段へと足を踏み入れると、煌びやかな景色が広がる。眼下には、今宵の舞踏会が催される大舞踏室へ続く、壮麗な大扉が静かに佇んでいた。
この先は、皇太子夫妻としての初めての入場。
階段を降りた先で待つレオンハルトと合流し、そのまま二人揃って舞踏室へ姿を現す手筈となっている。
クロードの話によれば、今宵の舞踏会は比較的小規模なものらしい。
夏の舞踏会は、公爵家を中心とした限られた貴族のみが招かれるが、冬ともなれば伯爵家や子爵家はもちろん、街の人々まで自由に参加できる祝祭へと姿を変える。それはもはや舞踏会というより、国を挙げた祭典と言っても過言ではない。
(…これで、小規模なの?)
その話を聞かされた時、リリエは思わず耳を疑った。
公爵家だけを招く催しでさえ「小規模」と呼ばれるのなら、冬の園遊舞踏会とは一体どれほどの賑わいなのだろう。まだ見ぬ光景を思い浮かべるだけで、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなる。
そんな想像を巡らせながら、リリエはドレスの裾を踏まぬよう、一段一段ゆっくりと大階段を降りていった。
やがて視線を落とすと、階段の最下段、大扉の前で静かに待つ、一人の青年が目に入った。思わず、小さく息を呑む。
レオンハルトは、黄金と深い群青を基調とした舞踏会用の礼装へ身を包んでいた。金糸で精巧な刺繍が施された軍装は威厳に満ち、肩には純白の毛皮が掛けられている。胸元には勲章や飾緒が幾重にも重なり、濃紺のマントは足元まで流れるように伸び、その姿はまさに一国を背負う皇太子そのものだった。普段は額へ流れている前髪もすっきりとかき上げられ、端正な顔立ちがより際立っている。
見慣れているはずの顔なのに。
今日だけは、まるで別人のようだった。
(……お綺麗だわ)
胸の奥が、とくりと鳴り、その鼓動を誤魔化すように小さく首を振る。
クロードはそんなリリエの様子へ僅かに首を傾げたものの、何も問うことはしなかった。代わりに静かに階段の下へ視線を向けると、こちらへ気付いたレオンハルトが、ゆっくりと顔を上げたのだ。
そして。
彼もまた、言葉を失ったように立ち尽くしていた。その視線は真っ直ぐにリリエだけを映し、微かに目を見開いている。
最後の一段を前にしたところで、レオンハルトは静かにこちらへと歩みを進める。
クロードは何も言わず一歩身を引き、自然な所作でリリエの手を離した。それはまるで、『ここからは殿下のお役目です』と語るようでもあった。
代わって差し出された大きな手に、リリエがそっと重ねると、レオンハルトはそのまま最後の一段をゆっくりとエスコートする。
そうして、自然と二人の距離が近付く。
そのまま向かい合うと、レオンハルトは何も言わず、ただ静かに、じっとリリエを見つめていた。
まるで一つひとつを確かめるような眼差しに、リリエの背へうっすらと冷や汗が滲む。
(やっぱり、似合っていないのかも)
レオンハルトは、次期皇帝であると同時に、その端麗な容姿から社交界でも名高い存在だ。
女性嫌いだとはユリウスから聞いていたものの、それでも彼へ想いを寄せる令嬢は後を絶たない。
『冷徹で冷酷なる鷹』
そう称される彼は、普段から数え切れないほどの令嬢に出会ってきたはずだ。舞踏会ともなれば、趣向を凝らした豪奢な装いも、美しく着飾った淑女の姿も、見慣れているに違いない。それに、女性嫌いであるならば、どれほど着飾った令嬢を目の前にしても、心を動かされることなどないのかもしれない。
だからこそ。
何も言わず自分を見つめ続けるその視線が、余計に落ち着かなかった。
「あの……と、とても格好良いです…」
張りつめた沈黙に耐えきれず、先に口を開いたのはリリエだった。
緊張しているのだろう。僅かに声が上擦り、自分でもそれが分かる。本来なら『お見目麗しゅうございます』だとか、『とてもお綺麗です』だとか、もっと皇太子に相応しい言葉を選ぶべきだ。それなのに、咄嗟に零れたのは、あまりにも飾り気のない一言。
──格好良いです。
その瞬間、しまった、と眉尻が下がる。
(私ったら、次期皇帝陛下へ向かってなんて不躾な…!)
機嫌を損ねてしまったかもしれない。
そもそも私からこのような言葉をお掛けすること自体、失礼だったのではないだろうか。次から次へと後悔が押し寄せ、頭の中は瞬く間に埋め尽くされる。
気が付けば、レオンハルトが何も言わないことすら気にならないほどだった。やがて我に返り、慌てて何か言葉を添えようと口を開いた、その時だった。
「今日」
リリエは思わず口を閉じる。
一言だけ告げたレオンハルトを見上げると、その続きを待つように小さく首を傾げた。
「──とても、美しいな。リリエ」
あまりにも自然に。まるで当たり前のことを口にするような声音だった。
一瞬、思考が止まる。
次いで、頬へ一気に熱が集まっていくのが分かった。
数日間、書斎で向かい合い、他愛ない話を重ねてきたせいだろうか。ほんの少しだけ縮まった距離が、そんな錯覚を抱かせてしまった。
「殿下も……とても、その…お綺麗です」
「当日までお前の装いを見ぬよう言ったカーターには、礼を言わねばならんな」
また、さらりとそんなことを言ってしまう。
なるほど。これでは女性たちが放っておかないわけだ。
端麗な容姿だけではない。こうして臆面もなく、人の心を擽る言葉を口にしてしまうのだから。
思わず頬へ手を添えたリリエを見て、クロードは口元を緩める。その微笑ましげな表情は、レオンハルトの位置からしか見えない。それに気付いたレオンハルトは、ちらりとクロードへ視線を送り、小さく眉を顰めた。
「行くぞ」
差し出された手に導かれ、リリエははっと我へ返る。
──そうだった。
これから舞踏会なのだ。先程までの余韻など一瞬で吹き飛び、今度は別の緊張が胸を満たしていく。どくん、どくん、と心臓が早鐘を打った。
大扉の前には二人の従者が静かに控えている。
どうやら、時刻となったようだ。
皇帝陛下は既に開宴の挨拶を終えられている。ユリウスもまた皇族として列席し、ヴィオラは皇帝陛下のご来賓として招かれていた。
レオンハルトとヴィオラの婚約の事情は、伏せられたまま。今この場で公にすれば、余計な憶測や混乱を招きかねないとの判断からである。
僅かに震えるリリエの手へ視線を落としたレオンハルトが、小さく問いかけた。
「大丈夫か」
「え、ええ、その、…はい」
「大丈夫には見えんが」
「も、申し訳ございません…」
情けなく眉を下げるリリエに、レオンハルトは耐えきれなくなったように肩を揺らす。
「……ふ」
小さく零れた笑みに、リリエはますます恥ずかしくなった。こちらは笑っている余裕など、これっぽっちもないというのに。
「クロードから聞いているだろう。今回の舞踏会は、冬の園遊舞踏会の三分の一ほどの規模だ」
そう言って大扉の前へ立つ。
二人の従者は静かに頷き合うと、重厚な扉へ手を掛けた。ゆっくりと、音もなく、その扉が開いていく。
「案ずることはない」
レオンハルトはリリエを一瞥すると、穏やかに口元を緩めた。
「存分に楽しめ」
その言葉と共に、眩い光が視界いっぱいへ広がる。幾千もの燭台が煌めき、水晶のシャンデリアが夜空の星のように輝いていた。軽やかな弦楽器の音色が大広間いっぱいへ響き渡り、華やかな衣装を纏った貴族たちが一斉に振り返る。
レオンハルトは背筋を伸ばえたまま、リリエの手を優しく引いた。
──舞踏会が、幕を開けた。




