私だけの一着
いつものように書斎での歓談を共にしていると、レオンハルトがふいに手元の書類から顔を上げた。
「それで、ドレスの仕上がりはどうだった」
その一言に、紅茶へ口をつけていたリリエの手がぴたりと止まる。
小さく目を瞬かせると、ゆっくりとティーカップを受け皿へ戻した。
カチャリ、と澄んだ音が静かな書斎へ響く。
仕上がり――というのは、紛れもなく舞踏会用のドレスのことだろう。
あの日の出来事を思い返し、リリエはそっと瞼を伏せた。
カーター婦人は意匠の説明を終えるや否や、まだ興奮冷めやらぬ様子でドレスへのこだわりを細部まで語り尽くし、その勢いのまま「さあ、試着ですわ!」と、半ば有無を言わせぬ勢いで、リリエを試着室へと押し込んだのである。
それからは、カーター婦人自らが手袋越しに一つひとつ丁寧にドレスを整え、最後のリボンまで結び終えると満足そうに頷いた。
そして皆の待つ部屋へ姿を現した瞬間――。
侍女たちは揃って息を呑み、そのまま誰一人として言葉を発することができなかった。ただ頬をほんのりと染め、夢でも見ているかのようにリリエを見つめている。その眼差しは、美しい花へ心を奪われた少女そのものだった。
ハンナに関しては、言うまでもない。
試着を終え、再びドレスを丁寧に衣裳箱へ納め終えると、カーター婦人はようやく肩の力を抜き、心から満足したように小さく鼻を鳴らした。
そして、誰にも聞こえぬようリリエへそっと身を寄せる。
『当日まで、殿下には内緒にしてくださいましね?』
『それから――』
レオンハルトになにか返事をしようとして、リリエはそっと口を閉じる。
その様子だけで察したのだろう。静かに紅茶をひと口含むと、小さく息をついた。
「お前も、当日まで伏せておくよう言われたか」
「……殿下も、ですか?」
「ああ。楽しみは当日まで取っておくものだと。それに、互いに楽しみを残しておく方が良い、とも言っていたな」
どこか呆れたように眉を下げるレオンハルトを見て、リリエも小さく頷く。
卓上には、新たな交易国から届けられたギモーブが並んでいた。淡く雪のような白さをしたそれを一つ摘まみ、レオンハルトは静かに口へ運ぶ。ふわりとほどける甘さに、ほんの僅かだけ眉を動かすと、続けて紅茶をひと口。やがて口を開く。
「なら、その日を楽しみに待つとしよう」
「……ええ。私も、その日が待ち遠しいですわ」
二人の視線が一瞬だけ交わる。
けれど、その先を語る者はいなかった。
互いに知らぬ装いで迎える、初めての舞踏会。
その日だけは、誰よりも新鮮な驚きを分かち合えるのだから。
◇◇
舞踏会当日の早朝。
まだ朝靄の名残が宮殿を包む頃には、侍女たちは既に慌ただしく廊下を行き交っていた。
「奥様、おはようございます」
「…おはよう、ハンナ」
「さあ、本日は舞踏会当日でございます。まずはご準備がございますので、お目覚めくださいませ」
穏やかな声に促され、リリエはゆっくりと寝台を降りる。
まだ少し眠気の残る瞳を擦りながら部屋を出ると、そこにはいつもとはまるで違う宮殿の朝が広がっていた。
見慣れぬ侍女たちまでもが忙しなく廊下を行き交い、その手には銀盆に載せられた食器や磨き上げられたグラス、磨きたての銀器、花々の生けられた花瓶、色鮮やかな果実籠などが次々と運ばれていく。料理人たちは厨房へ急ぎ、楽師たちは楽器を抱えながら舞踏室へ。
普段は静かな宮殿が、まるで一つの街のように目まぐるしく動いていた。舞踏会という一夜のためだけに、これほど多くの人々が力を尽くしているのだ。
(本当に、大きな舞踏会なのね)
そう実感した途端、それまでどこか他人事だった胸の内へ、じわりと緊張が広がっていく。
思わず指先へ力が入るリリエを見て、ハンナは優しく微笑んだ。
「大丈夫でございます。皆、この日のためにおりますから」
その一言に少しだけ肩の力が抜け、リリエは静かに頷いた。
案内された浴室では、薔薇の香油を数滴落とした湯へ、白薔薇と青薔薇の花弁が惜しみなく浮かべられている。ふわりと立ち上る甘く上品な香りへ包まれながら湯浴みを終えると、次は肌を整えるための香油で丁寧に全身をほぐされ、高価な美容液を薄く重ねていく。
その間にも侍女たちの手は休まらない。
柔らかな布で長い髪の水気を拭い、熱を当てすぎぬよう丁寧に乾かし、艶やかな金糸のような髪を一本一本整えていく。
本日は一日中支度が続くため、朝食は軽めのものが用意された。
焼きたてのパンに温かなスープ、それから瑞々しい果物。喉を潤すのは、心を落ち着かせる効能を持つカモミールとレモンバームを合わせた香り高いハーブティーである。
食事を終えると、いよいよ最後の支度が始まった。
ハンナが繊細な化粧を施し、シャーロットとアイリスは幾房にも分けた髪を丁寧に編み込みながら、美しい夜会結びへと仕上げていく。
後れ毛は一筋さえ許さず、それでいてどこか柔らかな印象を残す絶妙な加減だった。
その傍らでリネットはカーター婦人が仕立てたドレスを細心の注意で整え、幾重にも重なるチュールを指先でふわりと広げながら、一つひとつ形を整えていく。
最後に、小ぶりなティアラをそっと頭上へ。
耳元ではサファイアが揺れ、首元には繊細な薔薇のチュールが静かに存在を主張する。
最後にハンナが、青薔薇と白薔薇を象った髪飾りを、結い上げられた髪へそっと添える。幾重にも重ねられた繊細なレースを土台とし、大小さまざまな薔薇が咲き誇るその髪飾りには、サファイアを思わせる蒼い宝石が散りばめられていた。花々の合間からは雫形の装飾が幾筋も垂れ下がり、僅かに身じろぐたび、陽の光を受けて静かに煌めく。まるで朝露を纏った青薔薇が、そのまま髪へ咲いたかのようだった。
やがて、ハンナが鏡越しにそっと微笑む。
「…いかがでございますか?」
その声は、どこか震えていた。
嬉しさと、胸がいっぱいになる想いを堪えるような響きだった。
リリエはゆっくりと鏡へ視線を向ける。そして、思わず息を呑んだ。鏡の中に映っていたのは、見慣れた自分ではない。
フロスティーブルーのドレスは柔らかな光を受けて淡く煌めき、幾重にも重なるレースは花弁のように優雅に広がっている。繊細に施された化粧は元々の美しさを決して損なうことなく引き立て、夜会結びにまとめられた金糸色の髪は、雪のように白い首筋をより一層美しく際立たせていた。
まるで、絵画から抜け出してきた姫君のようだった。
リネットたちは互いに顔を見合わせると、どちらからともなく笑みが零れた。
「力作よ」
「ええ、本当によく仕上がりました」
頑張りを称え合うように小さく頷き合うその姿は、どこか誇らしげだった。
鏡へ映る自分をじっと見つめるリリエの傍らへ、ハンナが静かに歩み寄る。
「奥様…本当にお美しいです。」
穏やかに微笑むその眼差しは、どこか母が我が子を見守るような優しさを宿していた。
リリエもまた、柔らかく微笑み返すと、小さく頷く。
「さあ、殿下がお待ちでございます。」
その一言に、部屋の空気が少しだけ引き締まる。
ハンナが侍女たちへ目配せすると、三人は心得たように最後の身だしなみを整えた。
ドレスの裾を広げ、首元のチュールをそっと直し、髪飾りの角度まで丁寧に確かめる。
どれほど美しくとも、最後のひと手間を惜しまない。
それがカーター婦人の作品へ向ける、侍女たちなりの敬意でもあった。
やがて、薄茶色の扉がゆっくりと開かれる。
舞踏会の開宴まで、およそ二刻。まだ時はあるようにも思えたが、宮殿では最後の確認が続いていた。晩餐の支度、会場の設え、楽団による最終調整、招待客の到着確認。宮殿中が、一夜限りの盛宴へ向け慌ただしく動いている。
もちろんレオンハルトも例外ではない。招待客の名簿に不備はないか、警備や進行に問題はないか。開宴のその瞬間まで、皇太子として果たすべき責務に追われていた。
扉の向こうには、クロードが静かに待っていた。
本日は深紅の礼装へ身を包み、銀糸の刺繍が施されたその装いは、彼の端正な容姿を一層引き立てている。落ち着いた赤は淡い茶色の髪にもよく映え、まるで物語に登場する若き貴公子のようだった。
侍女たちはその姿へ思わず感嘆の息を漏らす。
しかし、そのクロードもまた、リリエの姿を認めた途端、一瞬だけ目を見開いた。すぐに穏やかな笑みを浮かべると、一歩前へ進み出る。
「おはようございます、リリエ嬢。本日は、いつにも増してお美しい」
そう言って自然に片手を差し出すと、リリエも静かにその手へ指先を重ねた。
後ろではハンナたちが深々と頭を垂れる。
ここから先は、クロードがリリエをレオンハルトのもとまでお送りする役目を担っていた。
実のところ、舞踏会当日までクロードですらリリエの装いは知らされていなかった。レオンハルトの礼装は側近として把握していたものの、夫婦二人の装いを並べて目にするのは、この瞬間が初めてだったのである。
長い回廊を歩く二人の姿は、まるで絵画から抜け出してきた王子と姫君のようだった。
廊下では舞踏会の準備に追われる侍女や従者たちが足を止め、静かに道を譲る。深々と頭を下げたあと、小さく囁き合う声が風に乗って聞こえてきた。
「なんてお美しい…」
「本当、絵物語のようですわ」
その声にリリエは気付かぬまま、クロードの歩調に合わせ、静かに回廊を歩いていくのだった。




