薔薇のチュール
「……綺麗」
ぽつり、と思わず零れ落ちたその一言に、部屋はしばし静寂に包まれた。
ハンナをはじめ、三人の侍女たちもまた、自然と意匠帳へ視線を奪われている。
誰一人として言葉を発さず、ただ、その美しさに見入っていた。
描かれていたのは、淡いフロスティーブルーを基調とした一着の舞踏会用ドレス。
決して華美ではない。それでいて、一目見た瞬間に目を奪われる不思議な存在感があった。
幾重にも重ねられた柔らかなチュールは、水面へ風が吹き抜けたように優雅な曲線を描き、歩くたびに静かな波紋を生み出すことだろう。
裾へ視線を落とせば、大輪の青薔薇が幾つも咲き誇っていた。
それは刺繍ではない。幾枚ものチュールを一枚一枚丁寧に重ね、そのすべてを手仕事で花へと仕立て上げているのである。
それはまるで、青薔薇がドレスそのものへ溶け込んでいるかのようだった。
首元には、同じ色の繊細なチュールがふわりと花開く。
その柔らかな意匠は首筋を優しく包み込み、雪のように白い肌をより一層際立たせていた。
「今回は、あえて装飾を控えましたの」
意匠帳を愛おしそうに見つめながら、カーター婦人は穏やかに微笑む。
「このドレスで主役となるのは、お洋服ではございません」
そっとリリエへ視線を向ける。
「奥方様ご自身ですわ」
部屋へ、静かな沈黙が落ちた。
「奥方様のお肌は雪のように白く、蒼玉を思わせる瞳をお持ちでしょう?ですから純白でも鮮やかな青でもなく、そのどちらも少しずつ溶かし合わせた、フロスティーブルーを選びましたの」
目を細めるカーター婦人の声は、どこか誇らしげだった。
「この色は決して目立つためのものではございませんわ。奥方様という一輪の花を、より美しく咲かせるための彩り――そのような想いを込めて仕立てましたの」
リリエは声を失っていた。
意匠だけで、これほど胸を打たれるとは思ってもみなかった。
カーター婦人のデッサンでこうなのだから、実物は、一体どれほど美しいのだろう。
胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
こんなにも想いを込めて、自分だけのために一着のドレスを仕立ててくれる人がいる。その事実だけで胸がいっぱいになり、感謝の言葉さえ軽く思えてしまうほどだった。
「…このドレスは、世界でただお一人」
「奥方様のためだけに生み出された一着ですわ」
カーター婦人は優しく微笑み、意匠帳へそっと手を添える。
窓辺から吹き込んだ穏やかな風が、頁をかすかに揺らした。誰もその静寂を破ろうとはしない。
ただ、その一着へ込められた想いを、それぞれが静かに噛みしめていた。
カーター婦人の説明がひと段落すると、それまで静かに耳を傾けていた侍女たちが、堪えきれなくなったように次々と声を上げた。
「…本当に素敵ですわ」
「まさに、奥様のためだけに仕立てられた一着でございますわね」
「早く実物を拝見したくて、待ちきれません」
誰もが頬をほんのりと紅潮させ、意匠帳へ熱い視線を送っている。
アイリスとシャーロットは顔を見合わせるたび小さく笑みを零し、胸の前でそっと手を組んでは、まるで宝飾店の硝子越しに憧れの首飾りを眺める娘のように目を輝かせていた。
リネットやハンナも二人より幾分落ち着いてはいるものの、まだまだ若い盛り。美しい衣装や髪飾りに心惹かれる気持ちは、年若い侍女たちと何ら変わらなかった。
ましてや、目の前にいるのは皇室御用達の仕立て屋。
社交界でも名を知らぬ者はいないカーター婦人の作品を、これほど間近で目にする機会など滅多に訪れない。
だからこそ、リリエのために誂えられる一着一着は、侍女たちにとっても特別だった。淡いレース、繊細な刺繍、ふわりと重なる幾重もの布地。
カーター婦人が衣裳箱を開くたび、この部屋だけは季節を忘れ、一面に花々が咲き誇る庭園へ姿を変える。
そんな錯覚さえ覚えてしまうほど、彼女の作品は美しかった。
侍女たちのうっとりとした様子を眺め、カーター婦人は満足そうに口元を綻ばせた。
それから残っていた紅茶へゆっくりと口をつけ、檸檬の焼き菓子を一口。
「こちらも、とっても美味しゅうございましたわ」
思わず手を合わせるその姿に、アイリスたちは顔を見合わせて小さく笑みを零す。
甘い香りに包まれた穏やかなひとときは、やがて紅茶の最後のひと啜りとともに幕を閉じた。
カップを静かに受け皿へ戻したカーター婦人は、ふう、と満ち足りた吐息を漏らす。
そして、大切そうに意匠帳を閉じると、椅子からゆっくり立ち上がった。
「では奥様、こちらへ」
その声は、先ほどまでより幾分も弾んでいる。
リリエへ手を差し伸べる姿は、まるで自らが贈り物を受け取る側、あるいは、丹精込めて育て上げた我が子の晴れ姿を待ちわびる親のようでもあった。
それほどまでに、この一着へ注いだ想いは深い。
今日という日を迎えるため、カーター婦人は幾夜となく針を握り続けた。夜更けまで灯火を絶やさぬ日も、決して少なくはない。
もともと舞踏会へ出席するヴィオラやユリウスの装いは早い段階から仕立てに取り掛かっていた。皇帝陛下には専属の御仕立て師が控えているため、カーター婦人が手掛けることはない。
残るはレオンハルト殿下の礼装のみ、のはずだった。
しかし、リリエが舞踏会へ出席すると決まった日、カーター婦人は迷うことなく意匠を一から描き直したのである。
夫婦として初めて並び立つ、晴れの舞踏会。
凛として空を翔ける若き鷹と、静かに咲き誇る青薔薇。
その二人が並んだとき、互いの美しさを最も引き立て合う一着を。ただその想いだけを胸に、一本一本の糸へ願いを込めながら、このドレスを仕立て上げたのだった。
ようやくカーター婦人は、後ろへ控えていた従者へ静かに目を向ける。
「お持ちなさい」
その一言に、従者は恭しく一礼すると、大切そうに抱えていた大きな衣裳箱をゆっくりと運び出した。
磨き上げられた木肌には細やかな彫刻が施され、真鍮の金具が柔らかな光を受けて静かに輝いている。
卓上へ置くその手つきは慎重そのものだった。
まるで壊れ物ではなく、かけがえのない宝を扱うように。
カーター婦人はクラッチバッグから真新しい白手袋を取り出すと、指先を整えながら丁寧に嵌めていく。
その所作には一切の無駄がなく、これから触れる一着への敬意が窺えた。
やがて白い手袋越しに金具へそっと手を添え、
かちゃり、と小気味よい音を立てて蓋が開く。
その瞬間、侍女たちは思わずごくりと喉を鳴らした。
しかし、中から姿を現したのはドレスではない。幾重にも重ねられた柔らかな薄紙だけだった。まだ、その美しい一着は姿を隠している。
焦れったそうに箱を覗き込むアイリスとシャーロットは、気付けばリリエよりほんの少しだけ身を乗り出していた。
その様子にリネットは思わず苦笑し、ハンナも「もう…」と小さく肩を竦める。
本来であれば、主人より先へ出るなど侍女としてあるまじき振る舞いである。
けれど、リリエはそのような細かな礼節に人一倍気を遣う人だった。侍女たちが遠慮して一歩引けば、かえって申し訳なさそうに眉を下げてしまう。
そのことをハンナが折に触れてクロードへ伝えたところ、後日、レオンハルトからは実に簡潔な返答があったという。
『本人が望むのであれば、無理に改める必要はない』
その一言以来、礼を失わぬ範囲であれば、以前よりも少しだけ肩の力を抜いてリリエへ接することが許されるようになった。
もっとも、カーター婦人の作品を前に胸を躍らせるこの姿だけは、その”礼を失わぬ範囲”に収まっているのかどうか、誰にも分からなかったのだが。
カーター婦人はそんな侍女たちの様子を眺め、くすり、と楽しげに微笑んだ。
「皆様方。そう焦らずとも、逃げはいたしませんわ」
その言葉に部屋の空気が少しだけ和らぐ。
カーター婦人は衣裳箱の中へ両手を差し入れると、大切そうに一着を抱き上げた。幾重にも薄紙で丁寧に包まれたそれは、まだ全貌を隠したまま。
一枚、また一枚と。傷一つ付けぬよう、慈しむような手付きで薄紙が外されていく。そのたびに、淡いフロスティーブルーが少しずつ姿を覗かせた。
幾重にも重なったレースが光を受け、まるで朝露を纏った花びらのように淡く煌めく。
「……わぁ」
「あら…」
「まあ……」
誰からともなく、小さな吐息が零れた。
現れたのは、意匠帳で目にした美しさを、遥かに凌ぐ一着。
柔らかなチュールは風さえ纏えそうなほど軽やかで、裾を彩る青薔薇は、一輪一輪が今にも咲き誇りそうな立体感を宿している。胸元を包む繊細なレースもまた、雪のように白い肌を思わせる優しさを湛え、その一着だけで一つの芸術品だった。
先ほどまで身を乗り出していた侍女たちも、今はただ見惚れるばかりで、誰も言葉を紡げない。その静けさこそが、このドレスの美しさを何より物語っていた。
「……まるで、お花が咲いたよう」
ぽつりと、静寂をそっとほどいたのは、リリエだった。憂いを帯びた蒼玉の瞳が、その一着を映し出す。
その言葉に、ハンナたちも思わず何度も頷いた。まさしく、その通りだった。
一輪の花の美しさではなく、幾重もの花々が寄り添い、静かに咲き誇っているかのような美しさだったのである。
カーター婦人はその一言を耳にすると、満足そうに口元をきゅっと結ぶ。まるで、その感想を今か今かと待ちわびていたかのように。
「嬉しゅうございますわ…」
穏やかに微笑むと、従者へ小さく頷いた。
従者は恭しく一礼し、ドレスを傷めぬよう細心の注意を払いながら衣裳台へと掛けていく。やがて裾がふわりと広がったその瞬間、一着のドレスは初めて本来の姿を現した。
あと少しだけドレス回にお付き合い下さい




