意匠帳
リリエの体調もすっかり元へ戻った頃――
その知らせを待っていたかのように、舞踏会用のドレスを完成させたカーター婦人が、それはもう上機嫌でラヴィリエ宮殿へと姿を現した。
淡い陽光を浴びながら、紋章を掲げた瀟洒な馬車が正門をくぐる。御者が手綱を引いて静かに馬車を止めると、扉が開かれ、カーター婦人は優雅な足取りで石畳へ降り立った。続いて数名の従者たちが馬車の荷台から、丁寧に磨き上げられた大きな衣裳箱を慎重に運び出していく。
中に納められているのが、この日のためだけに仕立てられた一着であることを知っているからだろう。誰一人として足音ひとつ荒くすることはなかった。
『カーター様、お待ちしておりました』
玄関先で控えていた侍女たちが、一斉に深々と頭を垂れる。まるで花道を作るように左右へ整列した侍女たちの先には、ハンナを筆頭に、アイリス、シャーロット、リネットの三人が静かに控えていた。
「ご機嫌麗しゅう、皆さま方!」
弾むような声に、ハンナも柔らかく一礼する。
「ご機嫌麗しゅうございます、カーター様。遠路よりお越しいただき、誠にありがとうございます」
「いいえ!今日という日を誰より楽しみにしておりましたもの。お礼を申し上げたいのは、むしろ私の方ですわ」
そう言って胸元へ手を添えたカーター婦人は、嬉しさを隠しきれない様子で微笑んだ。
本日の装いは、涼やかなオパールグリーンのスーツドレス。身体へ美しく沿う細身の仕立てながら窮屈さはなく、首元から胸元へかけて繊細なレースが幾重にも重ねられている。腰にはくるみ釦が端正に並び、上から羽織ったオールドオーキッドのジャケットは、落ち着いた格子模様が上品な差し色となっていた。胸元で揺れる真珠のブローチも、耳元の小ぶりな耳飾りも決して華美ではない。それでいて、一目見れば仕立て屋として一流であることを物語る装いである。
そして何より目を引くのは、その日の装いに合わせて新調される眼鏡だった。本日はジャケットと同じオールドオーキッドの細いフレーム。控えめな色合いでありながら、不思議と婦人の洒落た雰囲気をより引き立てていた。
従者たちは衣裳箱を慎重に抱えたまま、ハンナの案内でリリエの居室へと向かう。
その背を見送りながら、アイリスたちは思わず顔を見合わせた。
(今日も素敵…)
誰からともなく、そんな感想が胸の内へ浮かぶ。
けれど三人が毎回密かに気になっているのは、装いよりもむしろ眼鏡だった。季節や衣装に合わせるように、訪れるたび色も形も異なる一本を掛けているのである。
(いったい何本お持ちなのかしら)
アイリスの脳裏には、カーター家の一室いっぱいに並べられた眼鏡棚が勝手に思い浮かぶ。
整然と飾られた色とりどりの眼鏡を前に、「今日はどれにいたしましょう」と真剣に悩むカーター婦人の姿まで想像してしまい、危うく口元が緩みそうになるのを、慌てて堪えた。
ラヴィリエ宮殿は、帝都の中心にそびえる皇宮である。
皇帝一族が代々住まうその宮殿は、一つの建物とは思えないほど広大で、幾つもの棟が長い回廊で繋がれていた。
手入れの行き届いた庭園をはじめ、澄み渡る湖、帝都を見渡す時計塔まで備えられており、その壮麗な姿は、ラヴィリエの象徴として国民にも広く親しまれている。
一階は主に来客を迎えるための区画となっていた。
格式ある応接室をはじめ、大広間、晩餐室、談話室、遊戯室、それから広大な厨房までがこの階へ集められている。日々多くの貴族や各国の使節が訪れることもあり、昼夜を問わず使用人たちが慌ただしく行き交う場所でもあった。
対して二階より上は、皇帝一族が暮らす私的な居住区である。
皇帝陛下やレオンハルトをはじめとする皇家の私室を中心に、侍女室、厨房、舞踏室、書斎、会議室、遊戯室などが設けられ、一つの街と見紛うほど広大な造りとなっている。
そのため、同じ宮殿で暮らしているとはいえ、多忙を極める皇帝とリリエが顔を合わせる機会は驚くほど少なかった。互いに別の棟で一日を過ごせば、そのまま姿を見ることなく夜を迎える日も決して珍しくはないのである。
広大な宮殿をカーター婦人とリネットが先頭を歩き、その後ろをアイリスとシャーロットが静かに続く。
ハンナは従者たちをリリエの居室へ案内しているため、代わりに三人の中では最も勤続の長いリネットが、カーター婦人を案内する役目を任されていた。
磨き上げられた回廊には陽光がやわらかく差し込み、大きな窓からは手入れの行き届いた庭園が垣間見える。
規則正しく響く靴音だけが、静かな宮殿へ心地よく響いていた。
「奥様はどちらに?」
「先程レオンハルト様とのご対談を終えられ、現在はお部屋でお待ちでございます」
「まぁ、そうですの!一刻も早く、あのドレスをお見せしたいですわ!」
ぱっと表情を輝かせるカーター婦人に、リネットは思わず口元を緩めた。その弾む足取りからは、これから仕立て上げた作品を披露できる喜びが隠しきれていない。まるで自分のことのように胸を躍らせている姿に、アイリスとシャーロットも自然と顔を見合わせ、小さく微笑みを交わす。
そんな三人の様子には気付くこともなく、カーター婦人は「お気に召していただけるかしら…」「サイズはぴったりのはずですわ」と、小さく独り言を零しながら足早に廊下を進んで行った。
鼻歌を口ずさみながら、すこぶる機嫌の良いカーター婦人と共に部屋の前まで辿り着くと、リネットは静かに一礼し、一歩前へと進み出た。
コンコン、と扉が二度叩かれる。
廊下に、澄んだ音だけが静かに響いた。
「奥様、カーター様をお連れいたしました」
ほどなくして部屋の向こうから控えめな足音が近付き、ゆっくりと扉が開かれる。
一足先に従者たちと共に到着していたハンナが、穏やかに微笑みながら一礼した。
「どうぞ、お入りくださいませ」
その言葉を待ちきれないと言わんばかりに、カーター婦人はぱっと表情を輝かせる。
「失礼いたしますわ!」
弾むような足取りで部屋へ入るその姿に、後ろに控えていたアイリスとシャーロットは思わず顔を見合わせ、小さく笑みを零した。
リリエは窓辺へ置かれた椅子へ静かに腰掛けていた。
先程までレオンハルトとの対談を終えたばかりということもあり、本日は試着のため、いつも以上に飾り気のない装いである。
長い髪は絡まぬようゆるやかに編み込まれ、身に纏うのは、カーター婦人が以前仕立てた淡い蜂蜜色の部屋着。裾へ向かって二段に重ねられた柔らかなフリルは、歩くたびにふわりと揺れ、腰元で結ばれた大きなリボンが、その愛らしさをより一層引き立てていた。
「奥方様、ご機嫌麗しゅう! わたくしは今日という日を、今か今かと心待ちにしておりましたの!」
部屋いっぱいへ弾むような声が広がる。
その嬉しそうな様子に、リリエも思わず口元を緩めた。
「ベルナール婦人、ご無沙汰しております。またお目にかかることができ、嬉しゅうございます」
穏やかに一礼するリリエへ、カーター婦人は「まぁ!」と胸元へ手を当てる。
「そのお言葉だけで、今日ここへ参りました甲斐がございますわ!」
早速ドレスのお披露目――といきたいところだったが、カーター婦人は従者たちを後ろへ控えさせると、まずはリリエとの語らいを望んだ。
どうやら、いきなり衣裳箱を開けるより先に、この一着へ込めた想いやこだわりを聞いてほしいらしい。
その瞳は期待に満ち溢れ、まるで宝物を披露する直前の子どものようにきらきらと輝いていた。
カーター婦人の手には、洒落たクラッチバッグと、一冊の大きな意匠帳が抱えられている。革張りの表紙は幾度となく開かれた跡が残り、角は僅かに擦り切れていた。長い年月を共に歩んできたことが、一目で伝わってくる。
そこには歴代の皇族をはじめ、貴族たちの婦人服や紳士服、舞踏会衣装の意匠が幾重にも描き留められており、カーター婦人にとっては何物にも代え難い宝物なのだという。
「今日はぜひ、そのお話から聞いていただきたいのですわ」
そう言って大切そうに胸へ抱き寄せる姿に、リリエも自然と表情を和らげた。
その間にハンナは手際よく茶の支度を整え、窓際の丸いテーブルへ静かに並べていく。
本日用意された茶菓子は、爽やかな檸檬の香りを閉じ込めたマドレーヌ。
表面へ薄く砂糖をまぶした素朴な焼き色は、初夏の午後にぴったりの軽やかな一品だった。
合わせるのは、瑞々しい香りを楽しめるダージリン。
すっきりとした後味が檸檬のほのかな酸味を引き立て、部屋の中には穏やかな茶の香りがゆっくりと広がっていく。
カーター婦人が意匠帳をそっとテーブルの上へ広げると、その様子を傍らで見守っていた侍女たちは、思わず「わあ……」と小さく声を漏らした。
一枚、また一枚。
丁寧に頁がめくられるたび、そこには色とりどりの舞踏会用ドレスや婦人服が次々と姿を現す。
繊細な刺繍の図案に、幾重にも重なるレース。
華やかな装飾から可憐な普段着まで、その一着一着に異なる表情があり、まるで一冊の美術書を眺めているかのようだった。
その見事な筆致に、リリエも思わずほう、と静かに息を呑む。
ページをめくる指先には一切の迷いがない。
何度も開かれ、何度も描き足されてきた意匠帳だからこそ、その手付きには自然と愛情が滲んでいた。
「これらは皆、私が生み出してきた子どものようなものですわ」
カーター婦人は頁へそっと指先を添え、どこか懐かしむように目を細める。その一着一着へ、どれほどの時間を費やしたのだろう。下絵を描き、布を選び、糸を選び、ひと針、またひと針と想いを込めて縫い上げる。
ただ美しいだけではない。
永く愛される一着であってほしい――そんな願いを込めながら仕立てられた衣装ばかりなのだ。
「そして…奥方様のドレスもまた、とても美しく仕上がりましたのよ」
そう言ってカーター婦人は、ゆっくりと最後の頁へ手を掛けた。
その一瞬で、部屋の空気がふっと静まる。
ハンナたちも思わず息を潜め、ごくり、と小さく喉を鳴らした。
誰もが、その瞬間を見逃すまいと、ほんの少しだけ身を乗り出す。
リリエも静かにティーカップを受け皿へ戻した。
カチャリ、と澄んだ音が室内へ小さく響き、湯気とともに立ち上るダージリンの香りが、ふわりと鼻先をかすめていく。
そして、最後の頁が静かに開かれた。
その意匠を目にした瞬間、部屋にいた誰もが、思わず息を呑んだ。




