青薔薇のお暇
翌朝になり、ハンナがいつも通り部屋を訪れる。
いつもなら、部屋に入ると既に目を覚ましているリリエが、珍しく柔らかな寝具へ潜ったままだった。
窓辺から差し込む朝の光は、僅かに開かれたレースのカーテンを透かし、白い床へ繊細な影を落としている。
いつもと変わらぬ穏やかな朝だ。
だからこそ、その静けさがどこか胸騒ぎを誘った。
ハンナは不思議そうに小さく首を傾げる。
眠っているのだろうかと、起こさぬよう足音を忍ばせながら寝台へ歩み寄り、そっと寝顔を覗き込む。
寝具に包まったリリエは、頬を熱く染め、はふ、はふ、と苦しげに浅い息を繰り返していた。額には細かな汗が滲み、長い睫毛もどこか力なく伏せられている。
「……奥様!?」
驚いたように声を上げたハンナに、ちょうど寝具の洗濯へ訪れていたアイリスが、びくりと肩を震わせる。
その声は、静まり返っていた部屋へ思いのほか大きく響いた。
廊下で窓や柱を磨いていたシャーロットとリネットもまた、ハンナの切羽詰まった声色に思わず顔を見合わせると、何事かと裾を翻しながら部屋へ駆けつける。
穏やかだった朝の空気は一変し、部屋の中には張りつめた糸のような緊張が静かに広がっていった。
◇◇
「本日は、ゆっくりお休みになられた方がよろしいですわね」
額へ冷やした白布を当てられたリリエは、幾重かに重ねられた枕へ身を預け、小さく息をついた。
熱に浮かされた頬はほんのり赤く染まり、普段は澄んだ蒼玉色の瞳も、どこかぼんやりと霞んで見える。
どうやら、熱を出してしまったらしい。
昨日、ユリウスから聞かされた話が頭から離れず、なんとなく、すぐ休む気にはなれなかった。
自室の窓辺へ腰を下ろし、月明かりに照らされる庭園をぼんやり眺めながら考え事をしていたのが、決定打になってしまったのだろう。
夜風に揺れる薔薇は美しく、それを眺めているうちに、冷えゆく身体にも気付かぬほど思考へ沈んでしまっていた。
ずきずきと痛む頭は、それ以上考えるのはやめろ、と静かに警鐘を鳴らしているような気さえする。
熱など、いつぶりに出しただろうか。
そんなことを思い返しながら、リリエは小さく咳を零した。
今朝はハーブティーではなく、あたたかい蜂蜜を溶かしたホットミルクへ変更になりそうだ。
声をあげた直後、異変に気付いたハンナはリリエの様態を見るなり、すぐさまラヴィリエ宮付きの医師を呼び寄せた。
白髪の混じる年配の医師は、慣れた手つきで脈を診ると、額へそっと手を添え、呼吸の様子を確かめていく。
部屋には誰ひとり口を開く者はおらず、聞こえるのは衣擦れの音ばかり。やがて診察を終えた医師は、小さく頷いた。
「ご安心ください。少々お身体を冷やされたのでしょう。二、三日ほど静養なされば、熱も次第に引くはずです」
その穏やかな声音には長年宮廷へ仕えてきた者ならではの落ち着きがあり、どこか安心させる響きがあった。
けれど、ハンナの心配は尽きない。
本当に大事はないのか、熱はもっと上がらないのか、お身体へ後遺症は残らないのか――。
矢継ぎに問い掛けるハンナへ、医師は困ったように眉を下げながらも、その一つひとつへ丁寧に答えていた。
「ハンナ様、落ち着いてくださいまし」
やがてリネットがぴしゃりとその言葉を放つと、興奮した様子のハンナも我に返って息をついた。
少し離れた場所で見守っていたアイリスとシャーロットは、その様子に半ば呆れたようにそっと目を合わせていた。
心配する気持ちは皆同じ。
それでも、ここまで取り乱すのはハンナらしいと、小さく苦笑を零すのだった。
――ということで、本日から三日ほど、リリエは居室で静養することになった。
普段からあまり部屋を出ることのないリリエだったが、それでも「安静に」と言い渡されると、どこか落ち着かないものがある。
もっとも、初日に至ってはあまりの倦怠感にそんなことを考える余裕もなかったし、その胸の内を表情に滲ませることもなかったが。
初日は熱も高く、ほとんど寝台の上で過ごした。
白布は幾度か新しいものへ替えられ、そのたびにハンナはリリエの額へそっと手を添える。続いて自らの額へも指先を当て、その熱を量るように何度も確かめていた。
部屋へ運ばれる食事も、いつもの食卓ではなく寝台の傍らへ。
湯気の立つ温かなスープや、身体に負担の少ない料理が少しずつ並べられていたが、食欲はあまり湧かず、リリエは数口を口にするのが精一杯だった。
そんな様子を見るたびに、ハンナは今にも泣き出しそうな顔をするものだから、リリエは申し訳なさそうに小さく微笑み、大丈夫よ、とだけ答えるのだった。
その夜は熱に浮かされ、何度も浅い眠りを繰り返した。
夢とうつつの境が曖昧になるほど意識はぼんやりとしていて、月明かりが差し込む居室で、誰かが額の白布を替えてくれたような気もする。
けれど、それが夢だったのか現実だったのか、目を覚ました頃にはもう思い出せなかった。
二日目になると、熱はまだ残っているものの、顔色は幾分落ち着きを取り戻していた。
窓は風を通すために僅かに開け放たれており、柔らかな風が吹き込むたび、庭園に咲く薔薇の香りがふわりと部屋へ流れ込んでくる。
寝台へ身を預けたまま、膝には読みかけの書物。
ハンナにこれならば、と許可をもらったものである。
時折頁をめくっては、疲れると閉じ、今度は刺繍枠を手に取る。
白い布へ一針、また一針と糸を通していくたび、少しずつ花が形を成していく様子は、不思議と心を落ち着かせた。
もっとも、長く続ければハンナに止められてしまうが。
「奥様、お身体を休めてくださいませ」
困ったように針を取り上げられては、少しだけだったのだけれど…と小さく肩を落とす。
そのやり取りも、この二日で何度繰り返したことだろう。
風邪が移っては大変だから、とリリエは侍女たちをできるだけ部屋へ入れないよう気遣っていた。
けれど、その言いつけを素直に聞いてくれたのは三人の侍女たちだけである。
ハンナだけは頑として首を縦に振らず、
「そのようなことはできません!」と、いつも通り傍へ付き添っていた。
熱を出せば汗をかく。そのたびに、寝間着を取り替えなければならない。汗をかいたままでは身体が冷え、かえって熱を長引かせてしまうからだ。
カーター婦人から届けられた寝間着は、どれも軽やかな生地で仕立てられており、肌触りも柔らかい。
袖を通すだけで身体へ馴染み、熱のある身体でも着替えに苦労することはなかった。
細やかな仕立ては病の時だからこそ違いがよく分かる。
こんなところにもカーターの気遣いが込められているのだと、リリエは静かに感心するのだった。
◇◇
「すっかり熱は下がりましたね」
三日目の朝。
額へ手を添えたハンナが、ほっと安堵したように微笑む。
リリエもようやく寝台から起き上がれるほどには回復していた。頬へほんのりと血色も戻り、熱に浮かされていた頃の面影はもうほとんどない。
食事はまだ身体に負担の少ないものだったが、この頃には居室をゆっくり歩いたり、窓辺へ腰掛けて紅茶を口にしたりできるまでになっていた。
僅かに開け放たれた窓からは、レースのカーテンがふわり、ふわりと夏風に揺れる。そのたびに庭園いっぱいに咲く薔薇の甘い香りが部屋へ流れ込み、リリエは穏やかに目を細めながら、その景色をぼんやりと眺めていた。
もっとも、湯浴みだけはまだハンナに止められている。
「あと一日だけ我慢なさいませ」
そう言われてしまえば、リリエも苦笑しながら頷くほかない。
医師の見立てでは、あと一日もすればすっかり快方へ向かうだろうとのことだった。
本来であれば、この日はシャルロットとのダンスレッスンの日だった。
けれど、念のためもう一日だけ身体を休めましょうとハンナに勧められ、シャルロットにも事情を伝え、お休みしていただくことになったのである。
ここ数日は、ドレスの採寸に衣装合わせ、ダンスレッスン、レオンハルトとのお茶会、それから書斎での語らいと、何かと慌ただしい日々が続いていた。
こうして三日もの間、ゆっくりと時が流れるのは久しぶりのことだった。
だが、リリエはなにぶん忙しさには慣れている。
だから今回の熱は、半分は湯冷め、そしてもう半分は知恵熱だったのかもしれない。
そう考えると、思わず自分でも呆れてしまう。
そういえば。
熱に浮かされる中、誰かが額の白布を替え、静かに髪を撫でてくれたような気がした。
その手は大きく、熱に浮かされていたというのに、不思議と安心できる温もりだった。
僅かに開いた視界の向こうには、月明かりを背にした誰かの姿がぼんやりと映っていた。
長身のその姿は、どこかレオンハルトを思わせるようだった。
けれど、夢とうつつの狭間で見たものだ。きっと気のせいなのだろう。
夢とはいえ、心細い時に思い浮かべる相手がレオンハルトだなんて。
(あまりにも不埒だわ)
リリエはほんのり熱さを帯びた頬へそっと手を添えると、小さく首を横へ振り、誰にも聞こえないよう胸の内でそっと謝るのだった。
「大丈夫か、リリエ」
「きゃっ……」
背後から不意に掛けられた低い声に、リリエは思わずびくりと肩を震わせた。
驚いた拍子に窓辺のレースのカーテンがふわりと揺れ、夏の風が頬を優しく撫でて通り過ぎる。
おずおずと首を巡らせれば、そこには、つい先ほどまで脳裏に浮かべていたレオンハルトが静かに立っていた。
今日は執務を終えたばかりなのだろうか。
いつもの皇太子としての正装ではなく、白を基調とした軽やかな立襟のシャツに、濃紺の長衣を羽織っている。夏用の薄手の生地らしく、動くたび裾がさらりと揺れ、首元も第一釦だけが外されていた。
きっちりと着こなしていることに変わりはない。それでも、普段の隙ひとつない装いを知るリリエにとっては、それだけでどこか肩の力が抜けたように映った。
その姿を目にした途端、ぶわりと頬へ熱が集まる。
──まさか。
先ほどまで夢の中でレオンハルトのことを思い返していたからだろうか。
思わず胸がどきりと跳ね、心の内まで見透かされてしまったような気がして、リリエは慌てて視線を伏せる。
けれど、レオンハルトはそんなことには気付いていないらしい。僅かに眉を寄せると、リリエの様子をもう一度見つめ、それから静かに後ろを振り返った。
「まだ熱が冷めていないんじゃないのか」
「いえ、そのような――
まぁ、奥様!大丈夫ですか!?」
レオンハルトの後ろへ控えていたハンナが、不思議そうに首を傾げながらひょこりと顔を覗かせる。
その途端、思わず声を上げた。
つい先ほどまで血色を取り戻していたリリエの頬が、まるで熟した林檎のように赤く染まっていたのである。
「ち、ちがうの、ちがうわ、大丈夫よ」
慌てて首を横に振れば、こちらに視線を戻したレオンハルトが、なおも訝しげに目を細め、じい、とその顔を見つめるのだった。




