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語られた過去



「奥様、とてもよろしいですね。以前よりも、随分と肩の力が抜けています」


シャルロットがふわりと微笑む。

その言葉に合わせるように音楽が静かに止むと、舞踏室には余韻だけが僅かに残る。

やがて、わあ、と温かな拍手が室内へ響き渡る。


リリエは胸元へそっと手を添え、小さく息を整えた。

頬はほんのりと上気しているも、その表情は初めてシャルロットと踊った日よりもずっと柔らかかった。


あの日は、幼少期ぶりの社交ダンスを思い出しながらの実演だったため、一歩踏み出すだけでも胸がどきどきと騒ぎ、音楽を楽しむ余裕は少ししかなかった。


それが今では、足を運ぶたびドレスの裾がふわりと揺れ、自然と身体が音楽に溶け込んでいく。


以前より踊りやすいと感じるのは、シャルロットが優しく導いてくれているからなのか。それとも、レオンハルトと踊ったことにより、少しだけ自分に自信がついたからなのか。



本日のリリエは、薄花桜色のスレンダーラインのドレスを身に纏っていた。

ヴィオラのような華やかなリボンや装飾こそないものの、その分、可憐さが際立っている。

スカートの部分は霞草を思わせる小さな花々の刺繍が散りばめられ、踊るたび陽の光を受けて淡く煌めく。

胸元から腰にかけて重ねられた繊細な花模様のレースは、まるで一面に咲く花の情景をそのまま閉じ込めたようで、リリエの儚げな雰囲気によく似合っていた。


リリエがスカートの裾を摘み、小さく一礼すると、シャルロットも、それに合わせるようにして礼をする。


「ところで奥様。踊り方の癖が、以前と少し変わったような気がしますが…殿下の影響ですか?」


リリエはぴくりと肩を揺らした。

この一曲で、ほんの僅かな癖まで見抜かれてしまうとは思わなかったのだ。


カーターといい、シャルロットといい。

ラヴィリエに仕える人たちは、どうしてこうも鋭いのだろう。


リリエが恥ずかしそうに頬を染めると、その様子を見ていたヴィオラがじろりと鋭い視線を向ける。


その瞬間、リリエはぴゃっと背筋を伸ばした。


ヴィオラの後ろに控えていた侍女たちもまた、主人に倣うようにこちらを見つめている。

まるで品定めをするような視線に、いたたまれなくなる。


(…あちらは見ない方がよさそう)


リリエは気まずそうに視線をそらし、そっと反対側へ目を向けた。


視線の先では、侍女たちがわあと目を輝かせ、その隣ではカーターが興奮した様子で次々と紙へデッサンを描き起こしている。


一方のユリウスはというと、隣でむむっと頬を膨らませるヴィオラの話を、困ったように笑いながら聞いていた。



こうして人前でワルツを踊ることにも、以前ほど抵抗を覚えなくなっていることに気付く。

レオンハルトのおかげだろうか。たった一度手を取っただけだが、彼と踊るワルツは妙に安心感を覚える。

そのおかげか、不思議とあの日の感覚が身体に残っているような気さえしていた。


それでも、本番の舞踏会は別だ。


大勢の貴族たちが見守る中、皇太子夫妻として最初の一曲を踊らなければならない。

この舞踏室とは比べものにならないほど広い会場で、果たして自分はレオンハルトの隣に相応しく立てるのだろうか。

そんな不安が、胸の奥で小さく顔を覗かせる。


(だめだめ。弱気になってはいけないわ、リリエ)


ふるふる、と小さく首を振る。

そして自分に言い聞かせるように、うん、と静かに頷いた。






◇◇




「先程のワルツ、とても素敵でした」


湯浴みを終え、自室へ戻ろうと回廊を歩いていたリリエへ、穏やかな声が掛けられる。


柔らかな灯りに照らされた柱へ軽く身を預け、感心したように微笑んでいたのは、ユリウスだった。


昼間の礼装とは打って変わり、肩の力を抜いた装いへと着替えている。動きやすさを重んじた服装でありながら、上質な生地と端正な立ち姿が相まって、皇族らしい気品は少しも損なわれていない。


少し砕けたその姿はどこか新鮮で、火傷を負ったあの日、慌てて駆けつけたレオンハルトの姿を、リリエはふと思い出した。


「まぁ、皇子殿下…そのためにわざわざこちらで?」

「そんなにかしこまらないで。ユリウスでいいですよ。どうしても義姉上に感想をお伝えしたく、失礼ながらお待ちしておりました」

「そうでしたか…ご丁寧にありがとうございます」


リリエは静かに頭を下げる。


最近になってようやく感情を表へ出せるようになったとはいえ、まだ人前で自然に振る舞えるほどには慣れていない。


それに、実家(セレスティア)で過ごした日々を思えば、こうして穏やかに微笑むユリウスですら、本心では何を考えているのか分からないと、無意識に身構えてしまう。


(殿下の弟君なのだから、そこまで警戒する必要はないのはわかっているけれど)


そう思っていても、それは長い年月をかけて身についた、自分を守るための癖だった。


もっとも、この宮殿で過ごすのも、あと十か月ほど。その後、再び関わることはないのだろうと、リリエは胸の内でそっと言い聞かせる。



舞踏室でユリウスは何か言いたげな様子だったが、隣にいたヴィオラの機嫌が終始よろしくなかったので、気を遣ってくれていたのだろう。


夕餉を終え、湯浴みも済ませた頃合いを見計らったように、こうして声を掛けてくれたのだった。


「本当は先程感想をお伝えしようと思っていたのですが…ヴィオラ嬢が随分と毛を逆立てていたものですから」

「いいえ、こうしてお言葉をお伝えくださるだけで、有り難く存じます」


まるで猫の様子でも話すように仰るのね、とリリエは胸の内でくすりと笑い、小さく首を横に振る。



確かにヴィオラは子猫のようだとは思っていたが、同じような認識をしている人物が、またここに一人いたらしい。決定的に違うのは、その愛らしい子猫に懐かれているか、それとも警戒されているか、その違いだけだった。


「兄上とワルツを踊られたのでしょう?クロードからその日のうちに報告を受けまして、一体何事かと驚いておりました」


リリエはこてん、と小さく首を傾げた。


「…と、申しますと?」

「噂を耳にされたことはありませんか?ラヴィリエの皇太子殿下は、それはもう冷酷非情なお方だと」

「あ…、ええ、」


その噂なら、何度となく耳にしていた。セレスティアに仕える侍女たちが、まるで恐ろしい物語でも語るかのように、小声で囁き合っていたのだから。


リリエが静かに頷くと、ユリウスはどこか困ったように眉を下げ、穏やかに微笑んだ。


「では……兄上が、女性を苦手としておられるという話は、お聞きになったことがありますか?」

「え……?」


リリエはきょとん、と目を瞬かせる。


女性を苦手としているなど、そんな話は、これまで一度たりとも耳にしたことがなかった。


むしろヴィオラを次期正妻として迎えるため、わざわざ自分との政略結婚が組まれたくらいなのだから、リリエはてっきり、レオンハルトはヴィオラを大切に想っているのだと考えていた。

舞踏室でヴィオラへあれほど冷たい態度を取っていたのも、政略結婚とはいえ、現時点で正妻はリリエであることを周囲へ示すためなのだとばかり思っていたから。


まさかその理由が、女性そのものにあるなど思いもしなかった。


そんなリリエの様子を見つめ、ユリウスは少しだけ寂しそうに微笑む。


「お恥ずかしい話ですが、私と兄上の実母が、かつて父上以外の殿方へ心を寄せ、その一件を機に王宮を去ることとなってしまいまして」


静かな回廊に、ユリウスの穏やかな声だけが静かに溶けていく。


「幼い兄上にとって、その出来事はあまりにも大きかったのでしょう。以来、兄上は女性は皆そういうものなのだと思い込み、心を閉ざしてしまわれたのです」



初めて耳にする話に、リリエは思わず口元へ手を添える。


婚儀の日、お后がお見えにならなかった理由を、体調を崩されているからだとばかり思っていた。


まさか、そのような事情があったとは。

どうりでそれ以降も見かけないはずだ。

てっきりリリエが部屋にこもりきりであるせいだ、と思っていたが、窓の外に皇帝の姿が見えることはあっても、お后の姿は見えたことがない。


ユリウスの穏やかな表情を見つめながら、リリエは胸の奥が少しだけ締め付けられる。


「その出来事以来、兄上は女性という存在そのものを遠ざけるようになりまして……ヴィオラ嬢との婚姻も、皇帝の命ですから、ご本人は望んでおられません」


レオンハルトが、ということは、目の前のユリウスもそうなのか、とふと思った。

そうして失礼のない範囲で、じ、とユリウスを見つめる。


それに気付いたように眉を下げたユリウスは、すぐにいつもの柔らかな笑みを浮かべ直す。


「…あぁ、どうかご心配なく。私は物心がつく前に母と離れておりますので、女性を苦手と思ったことはございませんよ」


その穏やかな笑顔は、張り詰めかけていた空気をそっと解きほぐす、春の日差しのようだった。


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