桃色の令嬢
わあ、と感嘆の声とともに拍手が響く。
高い天井を持つダンスホールにその音が広がり、その余韻が煌びやかなシャンデリアへ流れ込む。
三人の侍女たちは恍惚とした面持ちで二人を見つめていた。先程までクロードに何やら訴えかけていたハンナでさえ、今は満足そうに拍手を送っていた。
「お二人のお姿をこんなにもお近くで拝見できるなんて、ありがたき幸せですわ」
「お美しいお二人ですから、舞踏会へご参列なさる方々も皆様釘付けになりますわね」
侍女たちは頬を染めながら口々に感想を零す。
クロードも腕を組みながら頷いており、その様子を見る限り概ね満足らしい。
「実践はあまり問題なさそうだな」
「いえ、何度か殿下に寄りかかってしまいましたし、まだまだです…もう一度シャルロット様からしっかりと教わります」
「問題ない。何かあれば私がカバーする」
あまりにも自然にそう言ってのけるレオンハルトに、侍女たちは小さな歓声を上げた。
まるで物語から抜け出してきた王子君そのものだ。
冷淡で近寄り難い、まるで鷹のようなお方――。
かつて実家の侍女たちが噂していた姿を思い出し、リリエは思わず目を瞬く。もしあの侍女たちが今の光景を目にしたなら、きっと卒倒してしまうだろう。
一曲踊っただけだというのに、リリエの胸は小さく上下していた。けれど、レオンハルトは息ひとつ乱した様子がない。
刺繍や読書を主に嗜むリリエと対称に、日々剣術の鍛錬に励み、視察へ赴き、膨大な責務をこなしている彼にとっては、この程度の運動など疲労と呼ぶほどのものではないのだろう。
宮殿へ来てからというもの、自室で過ごすことの多かったリリエとは体力そのものが違う。当然と言えば当然だが、当日はもう少し息が上がらないようにしなければ、と小さく決意したのだった。
「……どういうこと、ですの…?」
突然、静まりかけていたホールに、かつん、と鋭い靴音が響く。
一度。そしてまた一度。
磨き上げられた床を打つ音は次第に近付き、優雅な空気を切り裂くようにホールの入口で止まった。聞き慣れたその声に、一同の視線が自然と向く。
そこに立っていたのはヴィオラだった。
桃色のリボンを幾重にもあしらった華やかなドレスに、髪にも同色のリボンが飾られている。春の花々を集めて仕立てたかのような愛らしい装いだったが、その顔には明らかな怒りが浮かんでいた。握り締められた拳は小刻みに震え、薔薇色の唇もきゅっと固く結ばれている。
『ヴィオラ様、ご機嫌麗しゅう』
侍女たちは一斉に頭を垂れた。
この宮殿では、次期正妻という立場にあるヴィオラを軽んじる者はいない。伯爵家の令嬢であるヴィオラは、一見すれば公爵令嬢であるリリエより家格は下である。しかし政略として迎えられた妃とは違い、未来の皇后となることを約束された存在だ。何より、現皇帝自ら認めた令嬢でもある。
だからこそ、侍女たちも慎重に接していた。
「レオンハルト様、これは一体どういうことですの!」
ヴィオラは侍女たちにもリリエにも目もくれず、一直線にレオンハルトのもとへ歩み寄る。
裾を翻しながら近付くその姿は美しい。
けれど怒りに燃える瞳だけは隠しようがなかった。
「舞踏会は私と踊っていただける約束でしたでしょう!?」
「何故ここにいる」
レオンハルトの声音は驚くほど冷ややかだった。先程までリリエへ向けていた柔らかな空気は跡形もなく消え失せている。その横顔はまさしく孤高の鷹そのものだった。
侍女たちは余計なものを見ぬよう静かに頭を下げる。
リリエも慌ててヴィオラへ頭を下げたが、隣にいたレオンハルトにすぐ顔を上げさせられた。
華やかなヴィオラと並ぶと、リリエの装いは控えめだった。だが、その美しさは少しも引けを取らない。白磁のような肌に、透き通る蒼玉の瞳。それから、陽光を受けて輝く白銀の髪。その姿は高嶺に咲く花を思わせ、人の目を惹き付けずにはいられない。
居た堪れなくなったリリエは一歩後ろへ下がろうとした。しかしその腰へレオンハルトの腕が回る。
引き寄せられた瞬間、ヴィオラの眉がぴくりと動いた。
「舞踏会は正妻であるリリエと踊る。現時点で皇太子妃は他でもない彼女なのだから、当然の話だろう」
「では、その後でも構いませんから、私と……」
「断る」
ヴィオラが納得しないように食い下がると、ぴしゃり、とレオンハルトが言い放つ。
「妃のいる私が他の令嬢と踊るなど、あるわけがないだろう」
本来、舞踏会とは貴族たちの交流を深めるための場である。
――もっとも、それは表向きの話だ。
華やかな衣装に身を包んだ令嬢や令息たちが音楽に合わせて踊り、互いを知り、親睦を深める。時には良縁を結ぶきっかけともなるそれは、社交界において欠かすことのできない催しのひとつだった。ある種の、婚活パーティーである。
当然ながら、正妻を持つ皇太子であるレオンハルトには関係のない話である。ヴィオラが次期正妻であることを、もちろん貴族たちは知らない。その事実が表沙汰になれば、ヴィオラの命を狙う者も現れるだろう。あるいは、一刻も早く正妻の座を空けようとリリエへ害をなそうとする者も。さらには皇家の内情を暴き、弱みとして利用しようと企む者まで現れかねない。
だからこそ、その事実を知る者は極僅かだった。
もしこの話が外へ漏れることがあれば、それは限られた人間の仕業に他ならない。
ヴィオラはぎり、と唇を噛み締める。握り締めた拳には力が入り、震える肩からは悔しさが滲み出ていた。
その姿を目の当たりにしたリリエは、胸の奥が重く沈むのを感じる。まるで自分がヴィオラから何かを奪ってしまったかのような、居心地の悪い罪悪感がじわりと広がっていった。
「心配ない。お前の相手はユリウスに任せるよう伝えている」
「ゆ、ユリウス!?」
上擦った声がホールに響く。
その反応はあまりにも大きく、リリエは思わず瞬きをした。まるで予想もしていなかった名が飛び出したかのようだ。
ユリウスとはレオンハルトの弟君である。
現皇帝ではなく、母君によく似ており、艶やかなミルクティー色の髪と柔らかく垂れた瞳を持つ、ラヴィリエの第二皇子である。
レオンハルトが鋭く空を翔ける鷹だとするならば、ユリウスは穏やかな白鳩だろうか。
兄とは対照的に温厚で大らかな性格をしており、侍女たちからの人気も高い。次期皇帝という重責を背負う兄とは違い、自由な立場で育ったユリウスは、どこか肩の力が抜けていた。
だからといって兄を妬むことなどない。むしろ彼は、事あるごとにレオンハルトを敬愛していた。
『尊敬する兄上です』
そう語る姿は、まるで太陽へ向かって真っ直ぐ花を咲かせる向日葵のようで、周囲の者たちも自然と頬を緩めてしまうほどだった。
もちろんユリウスも、政略結婚のことやヴィオラの存在について知っている。だが、ヴィオラの本性を見抜いているのかいないのか。時折、何かを見透かすような眼差しで彼女を見つめていることがあった。
その視線の意味を、リリエは知らない。
ユリウスには許嫁もおらず、恋愛沙汰にもさほど関心がない。そう考えれば、舞踏会でヴィオラの相手を務めることは何ら不自然ではなかった。
むしろ二人はよく似合う。柔らかな色彩を纏うユリウスと、花のように華やかなヴィオラ。並び立てば、まるで一枚の絵画のように美しいだろう。
けれど――。
ヴィオラの表情は、複雑そうに見える。
「私は殿下にお相手願いたいのです…!」
眉を下げ、縋るように言葉を紡ぐヴィオラ。だが、その必死な訴えすら、レオンハルトの表情を揺るがすことはなかった。氷のように冷えた双眸が、真っ直ぐヴィオラへと向けられる。
「これ以上妃の前で騒ぐのは、失礼だと思わないのか」
「……申し訳ございません」
ヴィオラは唇をきゅっと噛み締める。
反論したい言葉は山ほどあったのだろう。だが、それらを飲み込むように俯くと、震える声で謝罪を口にした。
(むしろ謝るべきなのは私の方)
リリエの胸中は複雑だった。
そもそもこの婚姻は、ある意味ではヴィオラのために用意されたものだ。一途に恋慕を寄せる彼女にとって、自分は目障りな存在でしかないだろう。
それどころか最近のレオンハルトは、何かと理由をつけてリリエを気に掛ける。書斎へ呼ばれ、庭園を歩き、こうしてダンスの相手まで務めている。リリエからすれば、不慣れな妃を監督しているだけに過ぎない。けれどヴィオラの目には、それが寵愛として映っていても不思議ではなかった。
先ほどまで楽団の旋律が満ちていた舞踏ホールは、水を打ったような静寂に包まれている。壁際に控える侍女たちもまた、先程までの恍惚とした面持ちを消し、ただ静かに視線を伏せていた。
そんな重苦しい空気を断ち切るように、レオンハルトが短く告げる。
「行くぞ」
有無を言わせぬ声音だった。
レオンハルトはヴィオラへ視線を向けることなく、リリエの手を取る。そのまま歩みを進めれば、磨き上げられた大理石の床に靴音が静かに響いた。
巨大な扉の前には侍女たちが整列しており、二人が近付くと揃って深く頭を垂れる。
裾がさらりと床を撫でた。
『失礼いたします、ヴィオラ様』
一糸乱れぬ礼だった。
リリエもまた退室の直前、そっと振り返る。視線の先に立つヴィオラは、先ほどまでの勢いを失い、その場に取り残されたように見えた。
どこか悲しげにも映る横顔。
けれど――見間違いだろうか。
伏せられた頬はほんのりと赤く染まっていた気がした。




