ワルツを共に
かりかりとペンを走らせる音だけが、静かな書斎に規則正しく響いていた。
広々とした室内には、時折書類を捲る乾いた音が混じる。壁一面を埋め尽くす本棚に、重厚な机。窓から差し込む午後の日差しは柔らかな金色を帯びており、室内を穏やかに照らしていた。
なぜ今、自分はここにいるのだろう。
リリエはそう思いながら、そっと視線を上げる。目の前には、黙々と執務に励むレオンハルトの姿があった。
その視線は書類に落とされたままだが、時折眉を顰めたり、疲れたように目を細めたりしている。次から次へと書類に目を通しては署名を入れていく様子は、まさに帝国を背負う皇太子そのものだった。
リリエはカーター婦人が仕立てたドレスのうち、普段使いができる比較的落ち着いた一着を身に纏っている。とはいえ、カーター婦人の「普段使い」が世間一般の普段使いと同じであるはずもない。乳白色の生地には青薔薇の刺繍が繊細に施され、白い肌をより一層引き立てていた。胸元には刺繍と同じ青薔薇の飾りが添えられ、裾には幾重にも重なったレースが波打つように広がっている。
ちらりと己の装いへ目を落としたものの、すぐに視線は執務机へ戻るが、相変わらずレオンハルトは仕事を続けている。
「カーターのドレスの着心地はどうだ」
と、不意に投げかけられた問いに、リリエは肩を跳ねさせた。
「と、とても良いです…」
突然声を掛けられたものだから、思わず背筋が伸びる。そんなリリエを見て、レオンハルトは怪訝そうに眉を寄せた。ペンを机に置き、じっとこちらを見据える。
「なぜそんなに挙動不審なんだ」
「い、いえ…」
なぜ、と言われても、挙動不審にもなるだろう。
突然書斎へ呼び出され、何事かと思いハンナと共に訪ねてみれば、ソファへ座るよう言われただけ。肝心のハンナはというと、最近の彼女はリリエへの愛情が行き過ぎている。レオンハルトを見る目など、まるで愛娘へ近付く不埒者を警戒する母親そのものであり、結果として早々に書斎の外へ追い出されてしまった。
「あの…どうして私はここに…」
「シャルネットに言われただろう。信頼関係を築け、と」
シャルネット。
その名前を聞いて、先日のレミリアとのレッスンを思い出す。確かに、ダンスには信頼関係が不可欠だと言われていた。
リリエは「なるほど」と納得したように小さく頷いた。確かに以前より関係は改善した。けれど、仲が良いかと問われれば違う気もする。レオンハルトは度々気遣ってくれるが、それは皇太子としての責任感や体裁によるものだろう――リリエはそう思っていた。
「また何か勘違いをしている気がするが…まあいい」
レオンハルトは軽く額を押さえた。
「信頼関係を手っ取り早く築くには、会話を増やすことだと、シャルネットに言われた」
「殿下も、シャルネット様に?」
「ああ」
美しい奥方様と信頼関係を築き、隙を与えぬようになさいませ。さもなくば他の殿方に攫われてしまいますわよ。
――などと言われたことは、当然口にしない。
少し後方で控えていたクロードは肩を震わせながら視線を寄越してくる。何やら言いたげな目だった。だがリリエにはその意味が分からない。きょと、と首を傾げると、クロードはますます肩を震わせた。
「火傷はどうだ」
「すっかり良くなりました。クロード様にいただいた軟膏のおかげで……」
「それを用意したのは俺だが」
「へっ……あ、も、申し訳……いえ、ありがとうございます」
思わず謝罪しかけて慌てて言い直す。
てっきりクロードが用意してくれたものだと思っていたのだ。しかし謝罪の言葉が出かかった瞬間、レオンハルトの視線が鋭くなったため、慌てて礼へと切り替えた。
謝罪する度にドレスを増やす――そんな理不尽極まりない宣言をされたばかりである。
つい先日、大量のドレスが届いたばかりだというのに、これ以上増えては流石に困る、とリリエは冷や汗を流した。
レオンハルトが気にしていた火傷そのものは、綺麗に治っていた。すぐに冷やしたことが幸いだったのか、跡も残っていない。毎日欠かさず軟膏を塗っていたおかげで、手は元の白く綺麗な状態を取り戻していた。以前からあった細かな傷跡でさえ、薄くなっているほどだ。
「ダンスはどうだった」
「シャルネット様にはお褒めいただきましたが、私にとってはまだまだだと…」
「奴は背が高く一見男のようだが、中身は女性だろう」
レオンハルトは椅子にもたれながら続ける。
「やはり実際に男を相手に踊ってみた方が良いんじゃないのか」
その言葉に、リリエは反射的にクロードへ視線を向けた。男性相手と言われて思い浮かぶ人物が、彼しかいなかったのだ。
しかしクロードは即座に首を横へ振る。
いやいや、と全力で訴えている。
(それもそうよね)
リリエは心の中で納得した。自分などと踊れば迷惑を掛けてしまうだろう。
リリエは生まれてこのかた、男性とワルツを踊ったことがない。
幼い頃、母が存命だった頃に基礎だけは習った。だが当時はまだ幼く、大人の男性と組ませるには早すぎた。
何より母は、過保護と言って差し支えないほど娘を大切にしていた。そのためか、同年代の男友達もいなければ許嫁もいない。
母が亡くなってからは令嬢ではなく、侍女同然の扱いを受けて生きてきたのだから、なおさらだった。
レオンハルトはそんなリリエの視線の先に気付いたらしい。みるみる眉間に皺が寄る。
「どこを見ている」
「い、いえ…実践と聞きましたので、思わず…」
「まさかクロードと踊るつもりか?」
「め、滅相もございません……!」
ぶんぶんと首を横に振る。
するとレオンハルトは深々とため息を吐いた。本日何度目かのそれを落とした後、ゆっくり立ち上がると、長身の影が机を離れ、真っ直ぐこちらへ近付いてくる。
リリエは思わず背筋を伸ばした。
やがてレオンハルトはソファの前で足を止める。上から見下ろされる形になり、リリエは自然と顔を上げた。窓から差し込む光が黒髪の輪郭を淡く照らしている。青みを帯びた黒曜石のような髪も、整った横顔も、近くで見ると妙に現実味がなかった。
「ここにいるだろう」
低い声が降ってくる。
レオンハルトは怪訝そうに眉を寄せたまま、当然のことを告げるように言った。
「相手は」
「…はい?」
リリエはきょとりと目を瞬かせた。
◇◇
「まぁ…」
「絵になりますわね…」
「本当。こうして並ばれると、まるで宝石を散りばめた絵画のようですわ…」
入口付近に控えていた三人の侍女たちは、うっとりと頬を染めながらその光景を見つめていた。
対するハンナはというと、むすりと唇を尖らせ、何やらクロードに訴えかけている。クロードは困ったように肩を竦めていたが、どこか楽しそうでもあった。
あれから二人は、宮殿内にある大舞踏室へと場所を移していた。
実際にワルツを踊るためである。
天井から吊るされた幾つものシャンデリアは、無数の光を散りばめるように輝き、磨き上げられた床へ淡い煌めきを落としていた。高く設えられたステンドグラスの窓からは色彩豊かな光が差し込み、室内を幻想的に彩っている。
ここでそのまま舞踏会を開けるのではないかと思うほど広々とした空間だったが、客人を招くための大広間とは別に設けられた、皇家専用の舞踏室であった。
一体、何がどうなっているのだろう、とリリエは内心で戸惑いながら、目の前の状況を整理しきれずにいた。
室内には優雅な弦楽の旋律が流れている。生演奏ではないにも関わらず、その音色はまるで楽団がすぐ傍で奏でているかのようで、広い舞踏室全体を上品に満たしていた。
周囲にいるのは侍女たちとハンナ、それにクロードだけ。それでも、こうして殿方と踊る姿を人前で見られること自体が初めてで、どうにも落ち着かない。緊張のあまり身体は強張り、指先まで思うように動かなかった。そんなリリエを、レオンハルトはじっと見つめる。その視線に気付くたび、鼓動はますます速くなっていく。
「…シャルネットに褒められたんじゃなかったのか?」
「いえ、あの、そうなの、ですが……」
「緊張するな。そんな調子で当日どうする」
「は、はい……も、申し訳……ではなくて」
ぐるぐると回る思考に意識を奪われ、今はステップを踏むだけで精一杯だった。くるり、と回転するたび、白いドレスの裾がふわりと弧を描く。青薔薇の刺繍を散りばめたその姿は、まるで春風に揺れる白薔薇そのものだった。
一方のレオンハルトは終始落ち着いている。自然な動作でリリエを導き、淀みなくステップを踏む姿は、まさに社交界の中心に立つ皇太子そのものだった。その優雅な所作は幼い頃から叩き込まれたものなのだろう。傍から見れば見惚れてしまうのも無理はない。
時折リリエが足をもつれさせそうになれば、さり気なく支え、何事もなかったかのように次の動きへ移る。その姿は、長年連れ添った仲睦まじい夫婦のようにも見えた。
リリエはどぎまぎしながら、必死にレオンハルトの足を引っ張らぬよう踊り続ける。
政略結婚をしてからというもの、これほど近くで向き合ったことは殆どなかった。触れられたこともなければ、自分から触れたこともない。だからこそ、背中へ添えられた手の温もりに意識が向いてしまう。この距離では鼓動まで伝わってしまうのではないか。そんな訳の分からない考えが頭を過るほどには、緊張していた。
それに、こうして間近で見ると、やはりレオンハルトは整った顔立ちをしている。遠目にも美丈夫だとは思っていたが、近付けば尚更だった。
長い睫毛に、光を受けて艶やかに輝く黒髪。騎士として鍛え上げられた身体は無駄な肉がなく、引き締まっている。そして、自分の手を包む大きな掌。
シャルネットと踊った時とは全く違う感覚だった。似ているようでいて、やはり殿方なのだと改めて実感させられる。
次期皇帝となるレオンハルトの存在は、セレスティアにいた頃から知っていた。いや、国を担う皇太子を知らぬ方が珍しい。
その美貌は貴族令嬢たちの憧れである、と侍女たちが噂していたことを思い出す。
同時に、美しいが冷淡で近寄り難い、高く空を舞う鷹のようなお方だとも。
『一度でも踊れたら、死んでもいいわ』
かつて侍女の一人が頬を染めながらそう語っていた。
それほどまでに憧れられる存在なのだろう、と他人事のように聞いていた記憶がある。
当時のリリエにとって、それはあまりにも縁遠い話だった。興味を持つこともなく、洗濯籠を抱えたままその場を後にしたものだ。
それがどうだろう。
今、その侍女が夢見た相手と、自分がこうしてワルツを踊っている。
人生とは本当に不思議なものだ、と思った。
不思議なことと言えば、後方で何度も頷いているクロードの存在もそうだった。てっきり相手役はクロードなのだと思っていた。まさかレオンハルト自ら相手を務めるとは、想像もしていなかったのである。
そんなことを考えているうちに、流れていた旋律はいつしか終わりを迎えていた。最後の音が静かに消え、広い舞踏室に余韻だけが残る。揺れていたドレスの裾もゆっくりと静まり返り、二人の足も自然と止まった。
レオンハルトはリリエの手を離すと、そのまま彼女を見下ろした。
「及第点だな」
そう言って、小さく頷く。




