薔薇の名教師
その後、ハンナから聞いた話によると、仕立屋の婦人はドレスの仕立てを任せてもらえたことに、ひどく興奮していたらしい。
『元より美しい奥方様を、誰よりも美しく着飾ってみせますわ!』
朱色の眼鏡をくい、と持ち上げながらそう仰っておりました、とハンナが真似をすれば、あまりにも本人そっくりだったせいでその光景が容易に想像できてしまい、リリエは思わず笑みを零した。
――二週間後。
リリエの部屋には、以前採寸を行ったカーター婦人の仕立屋から大量の衣装が届けられていた。それはどれも一級品と呼ぶに相応しい品ばかりで、三人の侍女たちは次々と運び込まれる衣装を整理するのに大忙しである。
「これは随分とまあ……」
目の前に広がる光景に、ハンナは思わず息を呑んだ。
部屋の中には色とりどりのドレスだけでなく、夜着や外出着、お茶会用の軽やかな装いまでずらりと並べられている。
薔薇の刺繍が映える真珠色、繊細なレースをあしらった洋紅色。柔らかな薄花桜に、上品な金春色。それから以前試着した金糸雀色や白郡色まで。
十数着にも及ぶそれらの衣装は、全てカーター婦人が仕立てたものだった。陽光を受けた生地は淡く輝き、まるで宝石箱をひっくり返したような華やかさである。
「わあ、素敵ですわ」
「どれも奥様にきっとお似合いになります」
「どちらからお召しになるのか楽しみですわね」
三人の侍女たちは楽しそうに声を弾ませながら衣装を眺めていた。
最初こそどこか堅い印象だった彼女たちだが、共に過ごす時間が増えるにつれ、その優秀さにリリエは何度も感心させられていた。これがラヴィリエに仕える侍女なのか、と。
侍女たちの仕事は驚くほど手際がよく、頭の回転も早い。それでいて気配りも行き届いており、リリエの身の回りの世話については、なるべくハンナが行えるよう自然に一歩引いてくれている。
幼少期を除けば侍女に付き従われる生活など送ったことのないリリエにとって、侍女付きという体制に未だ慣れない部分もある。だからか、時折、仕事の合間に皆でお茶を囲んでは他愛のない話に花を咲かせることもあった。
そんな穏やかな時間は、リリエにとって少しずつ日常になりつつあった。
◇◇
「奥様、本日より定例舞踏会までの間、舞踏講師の先生がお越しです」
朝食を終えた頃、侍女のひとりであるリネットがそう告げた。ダンス講師とは、以前レオンハルトが言っていた人物のことだろう。リリエは紅茶のカップをそっと置きながら思い出す。
定例舞踏会は、レオンハルト曰くそこまで格式張ったものではないらしい。とはいえ、リリエにとっては次期皇帝の正妃として人前へ立つ初めての社交の場である。恥をかかぬようにと、ここ数日は言葉遣いや所作を改めて確認し、ラヴィリエと関わりの深い伯爵家や侯爵家の名も頭へ入れていた。
完璧とは言えなくとも、少しでも相応しくありたい。そんな思いで過ごしていた矢先だった。
「奥様、ご機嫌麗しゅう。レミリア・シャルネットと申します」
応接室へ入ってきた女性を見て、リリエは思わず目を瞬かせる。
レミリアと名乗った講師はすらりと背が高く、長い髪を後ろでひとつにまとめていた。女性でありながらどこか中性的な顔立ちをしており、凛とした美しさがある。縦縞の入ったズボンスーツを身に纏う姿は洗練されていて、まるで舞台の上を歩く役者のようだった。
加えて講師という職業柄なのか、姿勢や所作の一つひとつが美しい。歩くだけで視線を奪われそうになるほどで、その立ち姿には思わず見惚れてしまう。
レミリアは舞踏講師として特別にラヴィリエへ招かれた人物である。
元々は宮廷の教師ではなく、若い頃は各国を巡る舞踊団に所属していた人物だった。異国の宮廷や貴族の社交界で踊りを披露し、その優雅さと表現力で名を馳せた後、引退してからは上流階級の子女たちへ舞踏や礼儀作法を教えるようになったという。現在では帝国屈指の指導者として知られ、招くにも相応の伝手が必要なほどだった。
レミリアは社交的でありながら、どこか人を安心させる穏やかさを持つ人物だった。リリエが思わず敬語で話してしまっても、「そのままで構いませんよ」と柔らかく微笑む。その声音や眼差しには、年若い娘を見守る年長者のような温かさがあり、リリエも気付かぬうちに肩の力を抜いていた。
いきなりダンスを始めるのも緊張するでしょう、と微笑みながら提案され、リリエたちはまず、お茶をしながら話をすることになった。
「奥様、お好きなお花はありますか?」
「……薔薇が好きです」
「では、お好きなお色は?」
「…強いていうなら、蒼玉色かしら……」
リリエはどこか緊張した面持ちのままティーカップを持ち上げ、そっと紅茶に口をつけた。すると、ふわりと花の甘やかな香りが口いっぱいに広がり、思わず表情が綻ぶ。
華やかな香りのするその紅茶は、レミリアが土産として持参したものだった。西方の高地で咲く希少な花を用いた花茶らしく、帝都でもなかなか手に入らない逸品だという。ひと口含むだけで芳醇な花の香りが広がり、まるで花園の中にいるような気分になる。
香り高い花茶を楽しみながら、レミリアは次々と質問を投げかけていく。それは尋問というよりも、相手を知るための穏やかな対話のようだった。
「レミリア様、なぜそのように質問ばかりを?」
不思議そうに尋ねたシャーロットに、レミリアはふっと微笑む。
「あぁ、別に特別深い意味はないですよ。ただ、こうして奥様を知ることで、信頼関係が生まれるでしょう。その信頼関係こそが、ダンスを踊るにあたって必要なことなのよ」
「……信頼関係が?」
リリエが思わず口を挟むと、レミリアは穏やかに頷いた。
「社交の場、それも舞踏会は一人で踊るものではありませんでしょう。特にご婦人は、殿方へ身を委ねるも同然ですから、信頼関係が築かれていないと踊りにもそれが表れてしまうのです」
その言葉に、リリエは小さく感心したように息を漏らした。
確かにレミリアの言葉には説得力がある。祝宴を彩る踊り手が披露する独舞とは異なり、ワルツをはじめとする社交舞踊は基本的に二人で完成させるものだ。一曲の間、相手と呼吸を合わせながら踊るのだから、信頼がなければ自然と足並みも乱れてしまうだろう。
「さぁ、私ばかり質問責めでは奥様と信頼関係を築けませんわね。次は奥様が質問なさってみてください」
「は、はい……!」
思わず肩に力の入った返事をすると、レミリアはそれを咎めることなく優しく微笑んだ。
それから二人は一時間ほど、互いについて質問を重ねながら話に花を咲かせていた。
「では、実践に移りましょうか」
レミリアが立ち上がる頃には、侍女たちが手際よく茶器を片付け終えていた。リリエもそれに続いて立ち上がり、二人は舞踏室へと移動する。
高い天井を持つ広々とした舞踏室には朝の陽光が差し込み、磨き上げられた床が淡く輝いていた。
それから、まずは一曲踊ってみましょうということになり、二人は手を取りワルツを踊る。
幼少期以来のワルツだったため、リリエ自身はところどころ危うい部分もあったように感じていた。それでもレミリアの導きが巧みだったのか、思っていたよりずっと自然に踊り終えることができた。
「奥様、ダンスの経験は?」
「ええと、幼少期に少し…」
「とてもそうには見えませんね。所作も美しいですし、ステップも申し分ありません。強いて申し上げるなら、もう少し表情を柔らかくなさってもよろしいかと。……もっとも、お相手が皇太子殿下なら問題ないでしょうけれど」
ふふ、と悪戯っぽく笑うレミリアに、リリエは思わず目を瞬いた。ここへ来る人たちは皆、レオンハルト殿下と親しいのだろうか。誰もが彼のことをよく知っているように話す。それが少しだけ羨ましいと思ってしまう自分がいた。
(私は一年限りの契約なのに、こんな感情、よくないわ)
はっとして小さく首を振る。余計な考えを追い払うようなその仕草に、レミリアは僅かに首を傾げた。
「奥様?」
「う、ううん…なんでもないの」
「そうですか。では、もう一曲お相手願えますか?」
そう差し出された手は、まるで物語に登場する王子のようだった。女性なら誰もが見惚れてしまうだろう端正な容姿は、中性的なレミリアならではの魅力である。
舞踏室にはワルツに相応しい楽曲が流れていた。足を踏み出し、回転し、再び歩を重ねる。背の高いレミリアと踊っていると、本当に殿方と踊っているような気分になった。
舞踏会とはこういうものなのだろうか、と、胸の奥が少しだけ浮き立つのを感じながら、リリエも懸命にステップを踏む。ふわりとドレスの裾が揺れるたび、その高揚も少しずつ膨らんでいくようだった。
「今日はこの辺りにしておきましょうか」
レミリアの言葉とともに音楽が止むと、夢中になっていたリリエも我に返り、小さく息を整えた。
「奥様、先程も申し上げた通り、所作やダンスは申し分ありませんね。いえ、むしろお見事というべきでしょう」
レミリアは袖口のくるみ釦に触れながら歩み寄り、柔らかく微笑む。
「レッスンは明後日に一度、七日後に一度。おおよそ週に二度ほどで十分でしょう。あとは……」
そこまで言いかけたレミリアが、ふと入口の方へ視線を向ける。つられてリリエも振り返る。すると扉にもたれるようにして、レオンハルトが立っていた。
「奥様、皇太子殿下との信頼関係を更に深めていただけますか? お話はなんでも構いませんよ。朝食の感想でも、薔薇のお話でも。そうした何気ない会話の積み重ねが、お二人の信頼をより深めていくのですから」
「わ、わかりました」
耳打ちするように囁かれ、思わず敬語が飛び出す。レオンハルトはそんな二人の様子を見ながら歩み寄り、やがてリリエの隣で足を止めた。
「ご苦労だったな、シャルネット」
「皇太子殿下。ご機嫌麗しゅう」
レミリアは深々と頭を下げる。その一礼さえも美しく様になっていて、リリエは思わず感心したように見つめてしまった。
「妃はどうだ」
「全くもって申し分ございません。流石は殿下の奥方様。所作もワルツも秀でていらっしゃる」
「そうか。なら定例舞踏会でも安心だな」
レオンハルトは小さく頷き、ちらりとリリエへ視線を向けてから再びレミリアを見る。
どうやら視察帰りなのだろう。今日はいつもの宮廷服ではなく、濃紺の乗馬服に身を包んでいた。肩章には僅かに砂埃が残っており、つい先ほど帰城したばかりだと窺える。
リリエが周囲を見渡したが、クロードの姿はない。視察の報告へ向かったのだろうか。疲れているはずなのに、こうして様子を見に来るのだから大変だなと思いながら、リリエはなるべく気配を消して二人の会話に耳を傾けた。
「お前、また背が伸びたんじゃないのか?」
「恐れながら殿下、最後にお会いしたのは七年も前のことですから。見た目が変わるのも不思議ではありませんわ」
(七年も前……)
そんなにも長い付き合いなのか。リリエにはよく分からないが、ラヴィリエでは仕立屋や舞踏教師、料理人に至るまで代々付き合いのある者たちが多いらしい。
カーター婦人もその一人だった。
「各国を巡っていたらしいな。妃の舞踏教師を引き受けてくれたこと、感謝する」
「礼には及びません。こうして美しい奥方様の教師を務められること、光栄に存じます」
改めて見れば、やはりレミリアは女性なのだと感じる。
端正な顔立ちのレオンハルトと並ぶと、一見して美丈夫が二人並んでいるようにも見える。だが、華奢な肩や細い指先、しなやかな腰の線は隠しようもなく女性らしい。その優雅な佇まいは、まるで咲き誇る一輪の花のようだった。
(中性的なお顔立ちだけれど、殿下と並ぶと一層そのお姿が映えるようだわ)
二人の会話を聞きながら、リリエは一人こくこくと頷く。そして当の本人たちが知らないところで、別の意味で胸を高鳴らせていた。




