困惑する者たち
(ねえ、聞いた?奥方様の話)
(もちろん。噂と随分話が違うみたいじゃない?)
(殿下は真の奥方様に気付いていらしたのかしら)
ラヴィリエに仕える侍女たちは皆、朝からその話でもちきりだった。
リリエの部屋移動は、一見するとついに殿下から寵愛を賜ったのだと受け取れる。そのため浮き足立った様子を見せる侍女もいたが、一方で、これまで宮殿内を飛び交っていた噂を思い出し、不思議そうに首を傾げる者も少なくなかった。
朝から、侍女たちは慌ただしく動いていた。急な居室移動の対象となる者が、まさか正妻であるリリエだと聞いた時、侍女たちは驚いたような顔をしたという。部屋の移動そのものは特別珍しいことではない。だが、その命を下したのが、あの冷酷と名高いレオンハルト皇太子殿下だったことに、侍女や従者たちはしばらく口を開いたままだったらしい。
朝日が差し込み、リリエがベッドから身を起こす頃。ハンナはそれを見越したかのように、水を張った陶器の鉢を用意して部屋を訪れた。
昨夜は色々と考えてしまい、あまり眠れなかった。
僅かに隈の浮いた顔を見るなり、ハンナは心配そうに眉を下げると、肌に良い美容液を丁寧に塗り込んでいく。それから火傷をした手に視線を落とし、まるで壊れ物に触れるような慎重さで掌を取った。クロードから渡された軟膏を塗り広げる手つきは優しく、少しでも痛みを与えまいとしているのが伝わってくる。
いつもなら、それらが終わる頃に料理人自らがリリエの部屋へ朝食を運んでくる時間だ。だが今朝は、一向にその気配がない。
何かあったのだろうか、と不思議に思ったハンナが様子を見に行こうとした時、こんこん、と扉が二度叩かれた。
『おはようございます、奥様』
開かれた扉の向こうでは、三名の侍女が深々と頭を下げている。
「奥様、今朝はお部屋ではなく別の場所で朝食をお取りになるよう、皇太子殿下より仰せつかっております」
「さあ、どうぞこちらへ」
「ハンナ様もご一緒に。お部屋の移動につきましては我々が執り行いますので」
ハンナより少し控えめな侍女服を身に纏った三人は、リリエたちに考える暇を与えないまま、あれよあれよと部屋の外へ案内した。長い廊下を歩く途中、リリエは三人の侍女をそっと観察する。
皆、ハンナよりは少し控えめな侍女服だがハンナと同じ色のリボンを身につけている。着崩しなど一切ない侍女服は皺ひとつなく、歩く姿勢まで美しい。
(やっぱり、ハンナが侍女の中でも群を抜いて優れているのかしら)
三人はリリエに関する噂を耳にしているのかいないのか、顔色ひとつ変えることなく淡々と役目をこなしていた。当然、ラヴィリエの侍女は至極優秀である。レオンハルトが揃えた彼女たちはハンナに負けず劣らず、それぞれが己の役目に秀でていた。
新たにリリエ付きへ任命された侍女はそれぞれ名乗る。
リネット、アイリス、シャーロット。
その名を、リリエは静かに胸の内へ留めた。
そうしてハンナと共に案内された先を見て、リリエは小さく目を瞬かせる。そこは朝餐の場。ではなく、女性用応接室である。
「申し訳ございませんが、本日はこちらで朝食をお取りくださいませ」
リリエが何かを尋ねるより先に、侍女たちは椅子を引いた。気付けば席へ案内され、膝にはナプキンまで掛けられている。さらに温かな朝食が手際よく並べられ、三人は深々と一礼した。
「ごゆっくりお過ごしくださいませ」
そう告げると、侍女たちは静かに退室する。
扉が閉まる音が響き、ようやく室内に静けさが戻った。
リリエは目の前の朝食と閉ざされた扉を交互に見つめ、それから隣に立つハンナへ視線を向ける。
「……ねえ、ハンナ」
「はい、奥様…」
ハンナもまた、どこか現状を飲み込みきれていない様子だった。そんな彼女を見ていると、リリエは思わず苦笑を零す。
「……大変なことになってしまったわね」
ぽつりと漏れた言葉に、ハンナは数秒だけ黙り込んだ。そして観念したように小さく息を吐く。
「ええ、本当に…」
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「殿下。リリエ様は無事、お部屋を移られたそうですよ」
「そうか」
窓から差し込む昼の光が、整然と積み上げられた書類の端を照らしている。
執務机へ向かったまま、レオンハルトは短く返した。その表情は一見すると何の興味も示していないように見えたが、長年仕えてきたクロードには、僅かに肩の力が抜けたようにも見えた。
皇太子であるレオンハルトは常に多忙だ。皇帝即位へ向けた政務の補佐に加え、各領地から上がる報告書の確認、貴族たちとの謁見や会談への出席。さらには近衛騎士団との合同視察や軍事演習への立ち会いなど、その日程は隙間なく埋められている。
今日も朝から決裁書類に目を通し続けていたため、机の端には既に処理済みの書類が山のように積み上がっていた。
「おい、何を笑っている」
ペンを走らせたまま睨むような声を向ける。
「いえ? リリエ様に随分と心を開かれているな、と」
「調子に乗るな。鬱陶しい」
ちっ、と舌打ちを零しながら書類を捲る。
心を開いている。その言葉の意味が理解できないわけではない。だが、それは少し違う気がした。
彼女は笑わない。いや、正確には笑えないのだろう。感情を隠すことに慣れすぎている。それはまるで、彼女こそ誰にも心を開いていないように見える。
リリエは常々、何を考えているのか分からないが、その沈黙の奥に何かを抱えていることだけは伝わってくるだからだろうか。どこか昔の自分を見ているような気がして、妙に気になってしまう。
リリエが火傷を負ったとヴィオラから聞かされた瞬間、一瞬だけ肝が冷えた。明朝から薔薇の手入れを素手でやるような女だ。どうせまた無茶をしたのだろうと思った。そう思ったら気付けば寝巻きのまま部屋へ向かっていた。
今になって思えば、我ながら馬鹿らしい。
(父上が聞いて呆れるな)
小さく息を吐きながら、手元の書類を揃える。紙の角を揃える乾いた音が静かな執務室に響いた。
今日は珍しく午後の予定が空いている。視察もなければ会談もない。残る仕事を終えれば、久々にまとまった時間ができるはずだった。
たまには庭園でも歩くか、そう考えた直後。ふと脳裏に浮かんだ顔に、レオンハルトは眉を顰める。
(……なぜそこであの女が出てくる)
はぁ、と深いため息を吐きながら額へ手を当てると、向かいではクロードが堪えきれないように肩を揺らしていた。
「気になるのか?あのお姫様のこと」
「お前、いい加減にしろ」
クロードは楽しそうに肩を竦める。
「我儘だの傲慢だの散々聞かされていたのに、実際は火傷をしてまで人を庇うようなお姫様だった…レオンハルトも拍子抜けしたんじゃないか?」
「いい。もうやめろ……」
がっくりと肩を落として呟く。クロードにはどうやら何もかも見透かされているらしい。じろりと睨みつけてみるものの、この側近に効果があった試しはない。むしろ面白がられるだけだ。
「それより、セレスティア家の調査についてはどうなった」
レオンハルトが新たな書類へ手を伸ばしながら問えば、クロードは机の端へ腰を預けるようにして肩を竦めた。
「調べてはいるよ。あの噂もそうだけど、セレスティアには随分と薄暗い部分がありそうだ」
クロードは手元の報告書を軽く捲りながら続けた。
「社交界ではリリエお嬢様は相当なじゃじゃ馬娘だと言われていたが……どうやらその噂、義母君と義妹君が中心になって流したものらしい」
レオンハルトは訝しげに眉を寄せながら、長い指で机の天板を静かに叩く。
「それから、お嬢様の父君についてもあまり芳しくない話が幾つか上がっている。まだ確証は取れていないが、調べる価値はありそうだね」
静かな声。しかしその内容は決して軽くない。執務室に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
窓の外では庭師たちが薔薇の手入れをしているのか、遠くで鋏の音が微かに聞こえた。
レオンハルトは書類へ視線を戻しながら短く息を吐く。
「……そうか」
低く落ちた声には僅かな苛立ちが混じっていた。あの女が噂通りでないことくらいは、もうとっくに気付いている。だからこそ、その噂を誰が流したのかも気になっていた。
「引き続き調べろ」
「仰せのままに」
クロードは軽く頭を下げる。
「…レオンハルト、今日はこの後、珍しく何もないんだろ? 少しくらい休んだらどうだい?」
「…ああ、そうする」
クロードは机の上の書類を手際よく纏めると、やれやれと肩を竦めた。レオンハルトも立ち上がり、窮屈だった襟元を緩める。
ようやく休める。そう思った矢先だった。
「皇太子殿下!!」
欠伸をしかけていたレオンハルトはぴたりと動きを止めた。勢いよく開いた扉の向こうでは、息を切らしたハンナが立っている。頬は僅かに紅潮し、ここまで走ってきたことが一目で分かった。
「メルディア。挨拶も無しとは無礼だぞ」
珍しくクロードが、にべもなく言う。だがハンナはそんなことを気にしている余裕もないらしかった。
「ですが……!」
悲鳴にも似た声だった。クロードとレオンハルトが同時に顔を見合わせる。
そして。
「……何があった」
レオンハルトはゆっくりと額を押さえた。嫌な予感しかしない。メルディアがこうして飛び込んで来る時、その理由は大抵ひとつだ。十中八九、リリエ絡みである。
せっかく訪れた束の間の休息が、音を立てて遠ざかっていく気がした。




