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香る薔薇

「お前は、馬鹿なのか」


開け放たれた窓から夜風が吹き込み、薄いカーテンをふわりと揺らした。火傷を冷やすために用意された桶の水面も、微かに波紋を広げている。先ほどまで聞こえていた木々の音さえ遠く感じるほど、室内には静かな緊張が満ちる。



ぽつり、と落ちた言葉にリリエは僅かに肩を震わせた。


馬鹿。

皇太子殿下からその言葉を吐かせてしまうとは。


元々ひっそりと生きていくつもりだったはずなのに、ここ数日はかなり周囲に迷惑を掛けすぎている気がする。

これではひっそりどころか、その真逆だ。



やはり彼を怒らせてしまったのだろうか。だとしたら無理もない。熱湯の入ったティーポットを素手で受け止めるなど、自分でも馬鹿なことをしたと思う。というより、実際に馬鹿な行動なのだろう。

体裁とはいえ皇太子妃が自ら手を伸ばし、ティーポットを受け止めるなど聞いたこともない。


それでも、あのまま落ちていれば、ヴィオラ様は足に大きな火傷を負っていたかもしれない。それを見過ごせるほど、リリエは淡白な人間ではない。例え自分を犠牲にしてでも、時期正妻は守るべきだと判断しての行動だった。




気まずさに目を伏せれば、レオンハルトは深く息を吐きながら額を押さえた。


「熱湯の入ったティーポットを素手で受け止めた?」

「……」

「何を考えている」


低い声。それは怒っているようにも聞こえるし、呆れているようにも聞こえる。


リリエは膝の上でそっと指先を握りしめる。


「……ヴィオラ様に、お怪我はありませんでしたから」


そう答えた瞬間、レオンハルトの眉間に刻まれた皺がさらに深くなる。



少し離れた場所ではクロードが小さく天井を仰ぎ、ハンナは案の定と言いたげに肩を落としていた。



「だから、そういう話をしているんじゃない」


吐き捨てるような声音に、リリエは小さく身を縮こませる。


「お前は自分が怪我をしたんだぞ」

「慣れていますし……」


言ってしまってから、はっと息を呑んだ。しまった、と気付いた時にはもう遅い。


レオンハルトの視線がぴたりと止まり、クロードも何かを察したように目を細めた。


「慣れている?」

「……い、いえ」

「セレスティアか」

「私が少々、その……鈍臭いだけで……」


誤魔化そうとして、言葉がどんどん弱々しくなっていく。




セレスティアにいた頃は、例のごとく怪我など珍しくなかった。

平手打ちや、熱いハーブティーをかけられたこともあるし、薔薇の手入れで傷を作るなどもはや日常茶飯事だ。


けれど、それをここで話すのは違う。同情を買うようで嫌だったし、実家(セレスティア)の悪評を流しているようにも感じる。


もし殿下が事実確認のためにセレスティアへ問うたら。そんな考えが過っただけで、背筋が冷えた。




レオンハルトはしばらく無言でリリエを見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いてクロードへと視線を向ける。その横顔は先ほどまでの苛立ちとは少し違い、どこか苦々しい。


「クロード」

「はい」


呼ばれて一歩前へ出る。


「リリエの部屋を移動しろ。私の部屋の向かいに空きがあるだろう」



リリエは思わず目を瞬かせた。

もちろん、言葉の意味は理解できる。理解できるからこそ、意味がわからない。皇太子の私室の向かい?そんな場所へ移る理由が、自分にはひとつも思い浮かばない。



「…はい?」


拍子抜けしたように、思わず声を漏らしたのはハンナだった。


「それと、リリエの身の回りを世話する侍女を三人ほど用意しろ。メルディアに全てを任せすぎだ」


ハンナとリリエは思わず顔を見合わせる。理解が追いつかないまま、話だけが進んでいく。



当のレオンハルトは気にした様子もなく立ち上がると、用件は終わったと言わんばかりに踵を返した。


「で、殿下……!」


思わず追いかけようとして立ち上がった、その瞬間だった。





――ばしゃん、と大きな音が響く。


足元に置かれていた桶へ裾が引っ掛かり、水が盛大に床へ広がった。淡い色のドレスへじわりと水が染み込んでいく。それを見た瞬間、リリエの顔から血の気が引いた。



無表情ながらも顔色が悪くなるリリエを見て、クロードは可哀想にと眉を下げた。



焦ったリリエが慌ててしゃがみ込もうとしたところを、ハンナに止められてしまう。じわじわと広がる水染みを見下ろしながら、リリエは内心頭を抱えた。流石にここまで失態が続くと、自分でも己の鈍臭さに呆れる。どこまで迷惑をかければ気が済むのだろう。ひっそりと一年を過ごすはずだった計画は、一体どこへ消えたのか。



その光景を見たレオンハルトは目を閉じる。そして案の定というように深々とため息を吐いた。


「鈍臭いのは事実のようだな」


呆れを隠そうともしない声音に、リリエはますます肩を縮こませた。


「も、申し訳ございません……」


反射的に零れた言葉。その瞬間、室内の空気がぴたりと止まる。レオンハルトのこめかみに薄く青筋が浮かんだ気がした。


「謝るなと言っただろう」


低い声が落ちる。


「罰を与えると言ったのを覚えていないのか?」


リリエはびくりと肩を震わせた。

ええ、もちろん覚えています、と。だからこそ、何を言えばいいのかわからなかった。


「……なんなりと罰をお言いつけください」


恐る恐る告げると、レオンハルトは数秒黙り込む。やがて、本日何度目かわからないため息が零れた。その様子にクロードは肩を震わせながら顔を逸らし、ハンナは頭痛を堪えるように額へ手を当てる。



「笑うな、クロード」

「失礼しました」



そう言いながらも、肩はまだ小刻みに震えていた。レオンハルトは側近を一瞥すると、再びリリエへ視線を向ける。


「明日、仕立屋を呼ぶ」

「……はい」


返事をしかけて、顔を上げた。


「……え?」



何を言われたのかわからなかった。それはハンナも同じだったようで、大きな鉢を持ったままぽかんと目を丸くしている。



「今後、お前が謝罪するたびにドレスを一着増やすことにする」


その言葉が落ちると、部屋は妙な静けさに包まれた。


誰もすぐには反応できなかった。あまりにも予想外だったのだ。



クロードはとうとう耐えきれなくなったらしく吹き出しているが、当のレオンハルトだけが至って真面目な顔をしていた。


「そうでもしないと、お前は何十回でも謝るだろう。そのたびにドレスを増やしていけばすぐ衣装部屋が埋まるだろうな」

「殿下、それは罰というより……!」

「噂通りの令嬢にはご褒美か?」

「……ご、ごほうび……」


クロードの言葉に、リリエの肩が僅かに強張った。



噂通り。その言葉は今でも胸の奥をざらりと撫でる。我儘で、傲慢で、無礼者には容赦のない令嬢。



社交界で囁かれていた自分の評判。

レオンハルトにはまだ、噂通りの我儘な令嬢として映っているのだろうか。そう考えた途端、胸のどこかが僅かに沈む。けれど同時に、ならば尚更その罰は罰にならないのではないかとも思った。


噂通りなら、ドレスを与えられることが罰になるとは到底思えない。寧ろ噂の令嬢であれば喜びそうなものだそれなのに何故そんな命令を下したのか。答えの見えない疑問だけが胸の内に残る。


「とにかくもう夜も遅い。部屋の移動は明日だ。今日は着替えて早く寝ろ」


話を終わらせるように告げられ、リリエは思わず顔を上げる。聞きたいことは、まだ山ほどある。

部屋を移す理由に、侍女を増やす理由。それから、ドレスを与える理由も。

けれど、いざ口を開こうとすると言葉が出てこない。


「あの、殿下……」


ようやく絞り出した声に、レオンハルトは半ば呆れたような顔を向けた。


「まだ何か?俺はもう眠いんだが」


その返答に、せっかく浮かびかけた言葉はあっさり喉の奥へ引っ込んでしまう。


「……い、いえ。何も……」



結局、小さく首を振ることしか出来なかった。

そんなリリエを一瞥したあと、レオンハルトの視線がふと下へ落ちる。その先にあったのは、酷く痛々しいリリエの掌。赤く腫れた皮膚を見つめる横顔は、先程までの呆れた様子とは少し違う。火傷の具合を確かめるように目を細めたあと、低い声が静かに落ちた。


「その手はしばらく安静にしろ。メルディア、先日クロードが渡した薬の塗布を怠るな」

「かしこまりました」


即座に返事をしたハンナの横で、リリエは思わず目を瞬かせる。


叱責されることには慣れている。呆れられることにも。


けれど怪我を心配されることには、どうしても慣れなかった。レオンハルトはそれ以上何も言わず、小さく息を吐いた。




窓から吹き込む夜風が銀色の髪を揺らし、その隙間を縫うように薔薇の香りが微かに流れ込む。


やがて今度こそ踵を返すと、クロードも続くように一礼し、二人の姿が扉の向こうへ消えていく。



重厚な木扉が静かに閉まる頃には、先程まで張り詰めていた空気も幾分か和らいでいた。部屋の中に残された静寂は心地良いはずなのに、リリエの胸の内だけは少しも落ち着かない。ほんの数刻前まで刺繍枠を手に穏やかな夜を過ごしていたはずなのに、気付けば明日からの日常は大きく形を変えようとしていた。



窓の外では夜風に揺れた薔薇がさらりと葉を鳴らす。


その音を聞きながら火傷した手へ視線を落とせば、掌には未だじんわりとした熱が残っていた。けれど今のリリエを占めているのは痛みではなく、戸惑い。まるで静かだった湖面へ小石が投げ込まれたように、少しずつ波紋が広がっていく。





一年。

ただ一年だけ、この宮殿で静かに過ごすはずだった。


それなのに、自分の知らないところで何かが動き始めている。その変化が良いものなのか悪いものなのかは、まだわからない。ただ、止まっていた歯車がゆっくりと動き出す音だけは、不思議なほどはっきりと耳の奥に残っていた。

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