第8話 王の命令
その日、父の帰りが遅かった。
夕焼け空は灰色に溶け、往来で遊んでいた子どもたちの声も遠のいた。
それでも、戸口にダクトの姿は現れない。
姉のムトに促され、セスは弟のルカと二人だけで、そら豆のスープとパンの夕食をとった。
食事を終えると、ルカは目をこすり始めた。
ムトがパン工房から戻るまで、ずっと文字の練習をしていたのだ。
ごろりと長椅子に横になったルカは、そのまま眠ってしまった。
やれやれと苦笑し、ムトとセスは二人がかりでルカを抱えた。
隣の小部屋の寝台まで運ぶのは、かなり骨が折れる。
痩せた身体ではあっても、十歳になったルカはさすがに重い。
夜は、静かに深くなる──。
灯りを落とした隣の部屋から、穏やかな寝息が聞こえていた。
「姉さん、明日は作業場に行ってもいい?」
洗った食器を棚にしまいながら、セスが声をかけた。
返事がない。
長椅子に腰を下ろしたムトは、しきりに細い首筋をさすっていた。
ランプをぼんやり見つめる目は、遠いどこかを漂っている。
「姉さん?」
はっとして、ムトが顔を上げる。
「昨夜、眠れなかったんだろ? 休みなよ。父さんは僕が待つから」
ムトは力ない笑顔を浮かべて、首を振った。
「大丈夫。セスこそ、もう寝なさい。明日は作業場に行くんでしょう?」
「行っていいの?」
「職人になるには仕事を覚えないと。見習いのままでは自立できないわ。ルカの発作も落ち着いてるみたいだし、明日はメヒお婆さんとマトナおばさんにお願いしておくから」
向かいに住む親切な二人の主婦は、若い姉弟が働けるようにと、事あるごとに交代でルカの側にいてくれる。隣近所にも誠実なダクトの人柄が、こういった形で家族を支える力を生む。
「……父さん、遅いね」
セスは、戸口の外を見やった。
歩いている人の輪郭しかわからない薄暗さだ。
増水期ならではの湿度が、肌に重くのしかかってくる。
「ホル・エム・アケトの解体が...」
言いかけて、はっとした。
父さんから他言を禁じられていたのに。
運よく、ムトの耳には入らなかったようだ。
ゆらゆらと揺れるランプの炎を、またぼんやり見つめている。
どれくらい待っただろう──。
食卓に頬杖をついているうちに、いつの間にかうたたねしていた。
セスの頭に、温かな手が添えられる。
目を開けると、弱い笑顔を浮かべる父が見下ろしていた。
「おかえり。遅かったね」
「ああ。思いのほか時間がかかった」
ホル・エム・アケトの解体作業は、そんなに大変なのだろうか──。
ムトは、ダクトのために食卓を整えている。
そら豆の温かな香りが、部屋を満たしていた。
静かな夜だった。
いつもなら、子ども達がどう一日を過ごしたか、あれこれ尋ねてくれるダクトなのに、今夜はどこか思い詰めた表情だ。無言のまま食事を口に運んでいる。
父が帰るまではぼんやりしていたムトも異変に気付き、セスに素早く視線を寄こしてきた。
(……どうしたのかしら?)
(僕にわかるわけないよ)
食事を終えたダクトは立ち上がり、まだスープを飲んでいるムトの背中を労わるようにさすると、ルカが寝ている隣室へと入っていった。
セスは、落ち着かない様子で頭を掻いた。
事故現場で何かあったのだろうか。
まさか、あのアブリという監督官のとばっちりを受け、父まで罰を言い渡されることになったのでは?
ムトが食事の片付けを終えた頃、ルカの寝室からダクトが出てきた。
「手は空いたか? 二人に話がある」
セスの胸がどきりと鳴った。
やはり、何かあったのだ。
視線を交わすことさえためらわれるほど、ずしりと重い緊張感が漂う。
二人は神妙な面持ちで、ダクトに示されるまま椅子に座った。
「父さんは、しばらく家を離れる」
低い声で、ダクトが言った。
「え?」
「離れる?」
「遠くに行くわけじゃない。ピラミッドタウンのすぐ近くに滞在するだけだ」
セスとムトは、顔を見合わせた。
「この家には、帰ってこないということ?」
「そうだ」
「どうして……?」
「詳しくは話せない。王の命令だ」
慌てたように、ムトがダクトの腕を握った。
「危険なこと?」
いや……とかぶりを振るダクトの表情が、ぎこちない。
もとより噓のつけない父だ。
「危険なことなのね?」
「心配ない。メドジャイ部隊と行動を共にする」
メドジャイ部隊と聞いて、セスとムトは息を呑んだ。
治安と機密を司る王国最強の警備隊だ。
──危険と隣り合わせの兵士たち。
「いったい何をするの? 教えて」
「話せない。王の命令だ」
「誰にも言ったりしないわ。父さんの命がかかってるのに」
必死にすがるムト。
「母さんのように、突然いなくなってしまいそうで怖いのよ。誰にも言わないわ。ルカにも話さない。何をするのかだけ教えて。心の準備ができるように」
ダクトは首を振り、辛そうに笑った。
ムトは、父の腕をつかんで離さない。
セスも、父から視線をそらさい。
苦しそうなため息が、ダクトの喉から漏れた。
大きな骨がつかえてでもいるかのように、何度か咳払いした。
口留めされているのだろう。
問いただすべきではないのかもしれない……。
だが、ダクトは意を決したように小さくうなずいた。
羽音のようにかすれた声で、愛する娘と息子にこう告げたのである。
「三大メルのひとつを、王の墓室に改築せよとの命令だ」




