第7話 ムトの悩み
ルカの看病をセスに託し、ムトはパン工房へ向かって歩いていた。
朝の往来に、灼熱の日差しはまだない。
夜明け前に収穫された野菜や、魚をさばく屋台がすでに客を集めていた。
十六歳になるムトは、三年前に一度結婚している。
夫となった男は、前に勤めていたパン工房の主任だった。
ムトより十五も年かさの男で、亡き前妻がいた。
仕事を求めてパン工房を訪れた彼女を、ひと目で気に入り、美しい瞳とあどけなさの残る少女に、手練手管で近づいてきたのである。
最愛の母を亡くしたばかりだったムトは、世間知らずでもあった。
積極的なアプローチに慎重になる余裕もなく、傷ついた心に温かな言葉が香油のように染みわたり、彼女は舞い上がってもいた。
エジプトの娘は、初潮を迎えると結婚を考え始める。
ムトは十三歳でもあったから、適齢期と言えた。
降ってわいたような結婚話に、父ダクトは不安げだったが、母を亡くした哀れな娘が、これからの生涯をともに生きられる伴侶ができるならば……と、男の熱意に負けた形で求婚に応じた。
出会ってわずか二ヶ月で、ムトは嫁いだ。
ささやかな式を挙げ、倉庫とビール貯蔵庫の脇にある一画に居を移した。
妻になり、大人の女性になれた気がして心が躍ったが、悲しいかな、娶った妻への夫の関心は、わずか半年で薄れていった。
工房で働きながら、ひたすら家事をこなす毎日。
夫は手こそあげなかったが、ムトの言動を子ども扱いし、まるで尊重してくれない。すべてが、夫の命令のままに流れていく。自分が妻なのか下女なのかわからない生活が二年続いた後、子ができぬことを理由に、ある日離縁を求められた。
ムトにとっては、願ってもないことだった。
妻からの三行半が認められる社会であっても、父であるダクトに「絶対に幸せになる」と言い張って嫁いだ身である。自分からは切り出せなかった。
夫の冷ややかなひと言は、ムトにとっての祝福だった。
足枷がはずれた彼女は、わずかな財産を手に喜んで実家へ戻った。
……喜んで、戻ったはずだった。
なのに、ムトの心にはしこりがある。
父は優しく、弟たちは可愛い。
必要とされていることに誇りも感じている。
だが、ルカの看病は想像以上にムトを追い詰めていた。
眠れぬ日々が続く。
家族に助けは求められなかった。
危険な作業に携わる石工には、休養が欠かせない。
集中力を欠けば、命を失うことになるからだ。
真夜中だろうと襲いかかるルカの発作。
寝ずの看病を、父やセスに任せるわけにはいかなかった。
まぶたが重い。
ほとんど休めなかった身体から、体力が砂埃の道へとこぼれ落ちていく。
引きずるように足を運び、いつもより工房に遅れて着いた。
「おはようございます」
ムトが声をかけると、すでに作業に取り掛かっていた職人たちが「またか」と責めるような視線を向けてきた。肩身が狭い。
ムトは急いで工程の流れに入った。
パンづくりの工程は、まずふるいで穀粒を取り出す作業から始まる。
続いて、すり鉢でその穀粒を粉にし、再度ふるいにかけて異物を取り除く。これは主に女たちの仕事だ。異物を取り除いた小麦の粉は、乳棒でさらに細かく製粉しなければならない。体力を使うこの作業は、男たちが担う。平たい石の上で生地をこねて塊にし、成形したら釜で焼く。
ムトは、生地の成形に取りかかった。
弾力のある生地をこねていると、心のしこりがほぐれていくように感じる。
前夫が「子種をこねられぬ不毛の女」などと意地の悪い風評を流し、パン工房ではムトを卑下する者もいる。仲の良い職人もいるにはいるが、パンづくりの工程での私語は罰を受けるため、ただ黙々とパンを作り続けるしかない。
少女の頃に思い描いていた人生とは、ずいぶんかけ離れてしまった。
次から次へと手渡される生地を無言で成形しながら、ふとムトは、数日前に通りで声をかけてきた楽師の顔を思い出していた。




