第6話 呪われた子どもたち
セスが水汲みを終えて家に戻ると、ルカはもう起きていた。
お腹がすいていたらしい。
食卓に残っていた固パンをかじっている。
「ダメだよ、それは!」
窓から吹き込む砂交じりの風は、焼き立てのパンであろうと、あっという間に石のように乾燥させてしまう。病み上がりの胃袋には、とんだ刺激物だ。
セスがパンを取り上げようとすると、ルカは素早く逃げた。
まだ顔は青白いが、昨夜のぐったりした姿とは別人のようである。
「待ってろ。パン粥にしてやるから」
「お粥はイヤだ。これがいい」
姉の言うことは素直に聞くのに、四つ上のセスにはいちいち口答えする。
「また発作が起きても、知らないぞ」
「いつも、どろどろの汁物ばかりだ。飽きちゃったよ」
やれやれと、セスはため息をついた。
言い争って興奮させれば、かえって発作を引き起こしかねない。
喉にパンを詰まらせないよう、セスは汲んできたばかりの水をひしゃくで木のコップに注ぎ、食卓に置いた。
「文字の練習をしてたのか?」
食卓の端には、白い石灰岩の欠片がいくつも転がっていた。
ルカが文字の練習に使っているオストラコン(陶器や石の破片)だ。
粗い線で書かれた「べス神」の名が、ところどころ擦れて残っている。
嚙みちぎれないパンに悪戦苦闘しながら、ルカはうなずいた。
「入学試験が、もうすぐだから」
石工の息子であるルカが、書記になれる見込みはほぼない。
それでも、書記という職業は男子の憧れだ。
灼熱の太陽の下、埃っぽい砂漠で働く必要がない。
命の危険にさらされることもない。
王家や神々に関わる神聖な職業だから、尊敬のまなざしも注がれる。
需要もなかなかの職業だが、いかんせん誰でもなれる職業ではない。
訓練が必要であるし、素質も影響する。
そこで、才能ある者は、たとえ下層階級の者であろうと難関である入学試験に合格しさえすれば、書記をめざす養成学校に通うことが許されていた。
二年前、八歳だったルカは「受験したい」と言って家族を驚かせた。
読み書きなど習ったこともないのに、だ。
それでも、外出どころか起き上がることさえままならないルカが哀れで、家族は「その意気だ」と励ました。まさか、その熱意が二年も冷めぬとは。
「お兄ちゃん」
なんとかパンを飲み込むと、ルカが言った。
「ベス神は、家族の守り神だよね?」
ルカの視線を追う。
戸棚の上の石像がセスを見つめ返した。
異様に大きな頭。
その頭には、羽根飾りが付いている。
赤子のような三頭身だが、ひげをたくわえた成人の顔つきだ。
大きな耳に団子鼻。舌を突き出した姿は、どこか人を小馬鹿にしたようでもある。
神聖さというより滑稽さを感じる姿だが、子どもや妊産婦を守ってくれる慈悲深い神として、どの家庭にも石像があった。
「家族の守り神なら……」
ルカの声が、どこか震えていた。
「毎日毎日、名前を書き続けたら呪いが解けるかな」
ぎくりとした。
「何だよ、急に」
ルカの尖った顎を、セスは見つめた。
去年より、明らかに痩せている。
発作が起きる回数も、ここ数か月で格段に増えていた。
パンや果物なら喉を通っても、肉となると消化する体力はすでにないようで、姉のムトが鳩を焼いても骨をしゃぶるだけで「いらない」と言う。
「だったら練習しないと」
手に付いたパンくずをはらって、ルカはよいしょと椅子に座った。
削った葦ペンの先を水皿に浸し、黒いインクを溶かす。
白い石灰岩の欠片の上に、ぎこちない線で神名を書きつける。
乾いた石にインクがじわりと染み、文字が浮かび上がる。
基本的なヒエログリフなら、セスも習っている。
ルカの葦ペンから生まれる文字を、セスはしばらく見つめていた。
「あまり無理するなよ。去年みたいに、試験の前に熱を出すぞ」
「わかってる。疲れたら寝る」
やりたい事をさせておくのが何よりの治療だと、父さんは言う。
たとえ、それが命の灯を吹き消しかねないとしても。
「薬を飲む前に、果物でも買ってくる。何が食べたい?」
せめて、少しでも栄養をつけてやらねば。
「イチジクが食べたい」
顔も上げずに、ルカは答える。
「わかった。疲れたら休めよ」
返事をしない弟を見やり、セスは表へ出た。
市場は、いつものにぎわいだ。
野菜や魚や果物が、暑い日差しをよけて並んでいる。
売り子や客の甲高い声が、あちらこちらから飛んできた。
「呪われているのは、子ども達だよ」
果物の品定めをしていたセスの耳に、呪いという言葉が刺さった。
目の前のブドウに視線を落としたまま、耳を澄ます。
「最近、子ども達が早死にしてる。バギさんとこの息子は岩場から落ちて死んだし、ネリさんとこの娘はサソリの毒で死んじゃった」
「河で泳いでて、カバに襲われた子もいたね」
「牛車に引かれた子どもの遺体は、哀れなもんだったよ」
急に、女たちの声が沈む。
セスは気になり、さらに耳を澄ました──。
「ホル・エム・アケトの首まで落ちたというじゃないか」
「陥没事故では、男の子が七人も犠牲になったらしい」
「首なしのホル・エム・アケトは、解体されるんだってね」
「二体が一体になるなんて、縁起でもない話だよ」
人の口に戸は立てられない。
たったひと晩のうちに、禁じられた噂は疫病のように広まっていた。
ルカの言葉が、耳によみがえる。
「神さまの名前を書き続けたら、呪いが解けるかな」
手の施しようのない発作は、ルカの命を奪う呪いなのだろうか。




