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セスの刻紋 ── ピラミッドに落書きした少年 ──  作者: 鬼丸 千


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第5話 ルカの発作

 翌日、セスは作業場へ行かなかった。

 弟のルカが、真夜中に発作を起こしたためだ。

 

 セスが目を覚ました時には、もう父ダクトは出かけた後で、パンとビールの朝食を慌ただしくとった跡が食卓に残っていただけだった。


 姉のムトは、明らかに寝不足の表情だった。

 顔がむくんで表情が乏しく、目の下に青黒い影もある。

 ダクトとセスが寝た後も、ルカの看病をしていたに違いない。


「今日はお願いね」


 要領ならセスも心得ている。

 ルカが発作を起こすたび、これまで何度も看病してきた。


「薬草を煎じておいたわ。食事の後で飲ませてね。発作が起こりそうなら、早めにお医者さまを呼んでちょうだい。使いを出せばいいから。それから──」


 あれこれ指示をする。


「わかってるよ、大丈夫。早く行かないと遅れちゃうよ」


 心配そうにパン工房へ出かけていく姉を、セスは戸口で見送った。

 

 見上げた空は、今日も気持ちよく晴れている。


 昨夜の看病と朝の準備で、水がめにはほとんど水が入っていなかった。

 ひょいと奥の部屋をのぞくと、ルカは穏やかな寝息を立てている。

 セスは水を汲みに行くことにした。


 水は、共同井戸で汲む。

 以前はナイル川まで往復していた水汲みも、カナンの地から連れてこられた捕虜たちが灌漑工事をし、日干しレンガの家々を抜けた先に井戸もできた。


 路地に入ると、子どもたちが石けりをして遊んでいる。


 茶色の猫が、セスに気づいてびくりと顔を上げた。

 口に大きな魚の骨をくわえている。

 肩に担いだ桶を鳴らして脅かすと、弾かれたように逃げて行った。


「あら、セスじゃないの」

「今日はお休みかい?」


 井戸には、五、六人ほどの先客がいた。

 顔なじみの二人が、セスに声をかけてきた。

 向かいのメヒ婆さんと、その隣に住んでいるマトナおばさんだ。

 二人の前には、キュウリやレタスの入った籠がある。

 今日は、野菜の行商に出かけるのだろう。


「おはようございます」


 セスは、ちょこんと頭を下げた。

 幼い頃から何かと世話になっている二人だ。

 母のいないセスたち姉弟を気にかけ、誕生日には肉団子入りのシチューを作ってくれたり、破れた服を繕ってくれたりする。


 兵士が多いピラミッドタウン。

 閉ざされた職人の街だからこそ、近所同士の結びつきは強い。

 セスの家庭をよく知る二人は、すぐに状況を察した。


「またルカちゃんが発作を起こしたんだね?」

 

 マトナおばさんが眉間にしわを寄せた。

 

「ええ……まあ」


「ルカが、どうしたって?」


 耳が遠いメヒお婆さんに、マトナおばさんが説明する。


「そりゃ大変だ。あとで蜂蜜を届けよう。いいのがあるから」


 メヒお婆さんの三人の息子は養蜂を生業にしている。


「ありがとうございます」


「医者には診てもらったかい?」


 と、マトナおばさん。


「はい。ラワシュ先生が来てくれました」


 そう答えた瞬間、昨夜の光景を思い出した。

 

 ──静まり返った夜。


『父さん!』


 ムトの叫びに似た声に、セスは眠りから呼び覚まされた。

 隣で寝ていたダクトが跳ね起き、奥の部屋へと駆け込んでいく。


 寝ぼけたセスの耳が、異常な呼吸音をとらえた。

 ルカの発作だ。 

 セスも慌てて飛び起きた。

 

 食卓に手を伸ばす。

 月のない夜で、手元が怪しい。

 目を凝らしながら陶器の水がめから木の器に水を注いだ。発作のあとで口をすすぐ水も、器に用意する。亜麻布を水で濡らして盆にのせ、奥の部屋へと入った。


 ムトが、ルカを抱きかかえるようにして壁にもたれていた。

 呼吸の助けになるよう、彼女は寝ずにそうしていたのだろう。

 ダクトはルカの額に手を乗せ、体温を測っている。


 油皿ランプの炎が揺れていた。

 今回の発作は、かなりひどそうだ。


 骨が浮き上がったルカの胸が、波打っている。

 細い喉は、砂嵐のようにヒューヒューと鳴っていた。


 あどけない顔に血色はない。

 唇は空気を求めて半開きになったまま、喘ぎ続けている。

 固く閉じたままの瞳から、とめどなく涙が流れていた──。


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