第72話 悪夢
ルカは、書記メレルの弟子になった。
メレルは、官僚や書記たちが暮らすピラミッドタウンの西の街から毎日のようにオシリス神殿を訪ねてくる。体調がよかろうと悪かろうと、師匠はいつも弟子のそばにいた。
ルカの病状は日によってまちまちだ。薬の効果によってベッドから出られる日もあれば、気候のせいで横になったまま動けない日もある。
それでも二人は可能な限り、神殿の列柱室をのんびり歩いたり、中庭のベンチに腰かけたりしながら、神聖文字や神官文字を音読し、パピルスに書かれた葬祭文書の質疑応答をしたりと、食事と睡眠をとる以外は語らって過ごした。
「師匠、食べましたよ。話してください」
昼食を終えたルカが、空になった器を見せながら嬉しそうに言った。
タマネギのスープをおかわりしたら、ヘリオポリスの創世神話を一から解説するとメレルが約束したのだ。
「ヘルモポリスとメンフィスの創世神話も教えてくださいね」
「おいおい、時間がいくらあっても足りないぞ」
言いながら、メレルは顔をほころばせる。
二人の問答を聞きながら、ムトは窓際で機を織っていた。
朝昼晩とパンを焼くだけでも忙しいのに、機織りまで始めたムトに、
「僕の看病だけでも大変なんだから……」
ルカは心配そうな顔をするが、何かしら忙しくしていないと余計なことを考えてしまいそうで怖かった。
クフ王の軍勢がシナイ半島へ向かってから、二週間が過ぎようとしていた。今頃は銅山に到着している頃だろう。ギザには何の知らせもない。
ムトは待つことしかできない。
中庭で鳥が鳴いた。
ふり向くと、蝶の群れが飛んでいた。
黄色い羽の小さな蝶は、聖池の蓮花に触れては舞い上がる。
──クヌムがいない神殿は、妙に静かだ。
蝶の舞いを見つめているうちに、めまいを感じた。
目を閉じ、目頭に指を当てる。
(慣れない機織りのせいかもしれない)
鳥のさえずりが遠くなる。
ルカとメレルの声が急に小さくなった。
同時に、ムトは息苦しさを感じた。
例えようのない重苦しさが胸を圧迫してくる。
(どうしたのかしら……)
たまらず、ムトは目を開けた。
思わず息を呑む。
窓から見えていた中庭は消えていた。
ルカとメレルの姿もない。
さっきまで触れていた機織り機もない。
──目の前には見慣れぬ光景があった。
赤茶けた岩山。
砂交じりの乾いた風が吹いている。
肌を刺すような熱気が身体中を撫でた。
(ここはどこ?)
次の瞬間、視界がふわりと高く浮かんだ。
まるで鳥になったかのように。
眼下には谷が広がっていた。
無数の人々が行き交い、黒く口を開けた坑道へ出入りしている。
岩肌は削り取られ、荷を積んだロバの列が細い山道を往復していた。
銅山だ。
岩棚の上に一人の男が立っていた。
美しい黄金の紋様で装飾された青い冠を戴いている。
黄金のコブラが、凛々しい額を飾っていた。
光をまとったようなその姿──。
(……クヌム!)
空から見下ろしながら、ムトは思った。
(これは夢なの?)
ムトはシナイの土地を知らない。
見知らぬ土地であるはずなのに、目の前の光景は異様なほどに鮮明だ。
王は黙って谷を見下ろしている。
兵たちが列になっており、槍の穂先が陽光を反射している。
その時──
叫び声が上がった。
岩陰から男たちが飛び出してきた。
異国の男たちだ。
粗末な革衣を身にまとい、手に石斧や棍棒を握りしめている。
獣のような雄叫びを上げながら坂を一気に駆け下りてくる。
谷を埋め尽くすほどの勢いだった。
「敵襲だ!」
「備えろ!」
叫び声とともに、兵士たちが盾を構える。
石が飛ぶ。
矢が飛ぶ。
鋭い悲鳴があちらこちらで上がる。
(逃げて!)
ムトは岩棚の上で動かないクフ王に向かって叫んだ。
叫んだつもりなのに声が出ない。
(逃げて!)
金属がぶつかり合う音。
峡谷に広がる土煙。
頭を叩き割られる兵士たち。
槍に突き立てられる男たち。
谷全体が、まるで荒れ狂う獣のようにうねって見える。
クフ王だけは微動だにしない。
吹き荒れる砂塵の中でただ一人、岩山そのもののように立っている。
その表情には恐れも焦りもない。
次々と倒れていく兵士たちを、ただ黙然と見つめている。
感情のないその姿に、ムトは言い知れぬ畏怖を覚えた。
(……クヌムじゃない)
ムトがそう思った瞬間、クフ王がゆっくりと顔を上げた。
その視線が、迷いなくムトに向けられた。
褐色の瞳には生気がなく、何も語らぬ三白眼がムトを見据えていた。
──ふと、彼の口が動いた。
戦場にあふれる怒号にかき消され、言葉は聞き取れない。
(何? 聞こえないわ)
ムトは首を振りながら、必死で耳を澄ませた。
クフ王はムトを見つめたまま、唇だけ動かしている。
(聞こえない!)
すると突然、銅山の岩肌が揺れた。
地の底から響くような轟音。
崩れ落ちる岩。
あっという間に立ち込める砂煙。
荒れ地が砕けた。
針のような砂塵がムトの額を打つ。
眼下は阿鼻叫喚と化した。
兵士も異国の男たちも、銅山も岩棚も、すべてが渦に呑まれていく。
クフ王の足元が崩れていく。
それでも、彼は何かをムトに語りかけている。
「逃げて! クヌム、逃げて!」
思わず叫んだ瞬間──ムトは叫んで立ち上がった。
オシリス神殿の中にいた。
窓から中庭が見える。
聖池に黄色い蝶が舞っていた。
(夢……)
ルカとメレルがこちらを見ていた。
二人とも驚いた表情である。
ムトの叫び声が、よほど大きかったのだろう。
顔が熱い。
「大丈夫? 悪い夢でも見たの?」
ルカがベッドの上から声をかけてくる。
激しい動悸を感じつつ、ムトは苦笑した。
「ごめんなさいね……。うたた寝していたみたい」
「部屋で休んでおいでよ。姉さんは疲れてるんだ」
「ありがとう。大丈夫よ」
機織り機の前にゆっくりと腰掛ける。
額に滲んでいた冷たい汗を、そっと拭った。
(夢だった。……ただの夢)
独り言ちても、胸の奥の不安は残る。
中庭で、また鳥が鳴いた。
そのさえずりが、なぜか人の叫びに聞こえる。
ムトは身震いした。
遠く離れたシナイの地で助けを求める誰かの声に聞こえた。
深呼吸する。胸騒ぎは消えない。
クヌムのあの唇の動きは「もう戻れない」か「元気で」か。
不安が止まらない。
もう二度と彼に会えないような気がして──。




