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セスの刻紋 ── ピラミッドに落書きした少年 ──  作者: 鬼丸 千
第12章 一心不乱

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第73話 シナイに吹く風

 クフ王──クヌム・クフは、岩棚から採掘場を見下ろしていた。


 削り取られた岩肌に無数の坑道が口を開けている。

 兵士や労働者たちが、蟻の群れのように動き回っている。

 険しい山道を、荷を積んだロバの列が下っていた。


 赤く焼けた岩山が連なり、乾いた風が谷を吹き抜けていく。

 見渡す範囲に緑はない。

 敵の影すら、どこにも見当たらなかった。

 鉱山がアアム族の手に落ちたとの軍報であったものの──


「王が出兵なさったとの報せを聞いて、すっかり情勢は変わりました。反抗者たちは姿を消し、現在ここにいます労働者たちは、エジプトが派遣した鉱夫と近隣の小部族のみです」


 背後から兵士が報告する。


「反乱者は逃亡したと?」

「おそらく」

「遠征指揮官は、どこにいる?」

「ネフェルマアト様は残党を探しておられます。今のところ報告はありません」


 視線を眼下に向けたまま、クフ王は「わかった」と短く答えた。

 そのまま、岩棚の上に設置した天幕へと入っていく。

 中にいた将軍たちが、一斉に頭を垂れた。

 上座の椅子に座したクフ王は、居並ぶ者たちに視線を走らせる。


 将軍たちに混じって、アアム族の男が二人いた。

 地元の案内人であり通訳を務める男たちだ。

 ナイル川の周辺では絶対権力を誇る王の命令も、 シナイの荒野では言葉の違いが邪魔をする。彼らの協力なしには伝達の効率が非常に悪い。


 二人の男は異様に怯えていた。

 こめかみには汗が流れ、握りしめた拳が震えている。


「説明せよ」


 クフ王が命じた。


「アアム族が鉱山を奪わんとした理由は?」

「めっそうもございません! 鉱山を奪うなど!」


 クフ王はかすかに口元を歪めた。

 

「労働者たちが反乱を起こしたと聞いた。鉱山の監督官が買収されていたとの噂も聞き及んでいる。まことか?」


 男たちは弾かれたようにひざまずく。


「反乱などとんでもございません! 賃上げの直訴をしただけで……」

「買収する財など、私たちにあろうはずがございません!」


 クフ王が眉根を寄せた。


「賃上げの直訴だと?」

「はいっ! 鉱山の監督官に……」


 男が言い終わらないうちに、天幕の外で鋭い叫び声がした。

 峡谷いっぱいに銅鑼が鳴り響く。


「襲撃だ!」

「備えろ!」


 クフ王は風のような素早さで天幕の外へと飛び出した。

 将軍たちも後に続く。


 眼下の岩陰に砂塵が舞っていた。

 武器をもった百人ほどの集団が、坂を駆け下りてくるのが見える。

 棍棒や石斧を手にした砂漠の遊牧民──アアム族の男たちだ。

 採掘場を目指して突進していた。


「鉱山を守れ!」


 クフ王の命令に、兵士たちが動いた。

 峡谷に警笛が響く。

 採掘場の守備兵たちが持ち場へ走り、防御柵の前に盾を並べた。

 

 将軍たちが一気に岩棚を駆け降りた。

 天幕の前に残るのは、クフ王と親衛隊の兵が数人。

 採掘場には砂煙が立ち込め、視界を奪っていく。

 クフ王が目を凝らした──その時、


「あぶない!」


 岩山の斜面から、何かが弧を描いて飛んできた。

 投石だ。


「王をお守りしろ!」


 親衛隊長の怒号が飛んだ。

 兵士たちが一斉に盾を構え、クフ王の前へ躍り出る。

 ガンッ、と激しい衝撃音が響いた。

 大きな石が青銅の兜を打ち、兵士の一人が唸り声をあげて倒れた。


 続いて矢が飛来する。

 次々と岩壁に突き刺さり、乾いた音を立てた。


「ここは危険です! 天幕へ!」

 

 だが、クフ王は動かない。

 青冠の下から戦場を見据えている。

 面前に飛来した矢を、身をひねって危うくかわす。


「ひるむな! 抑えよ!」


 その表情には一切の動揺がない。


 採掘場へなだれ込んだ襲撃者たちは、坑道入口の防御柵に足止めされている。柵を破ろうとした彼らに、待ち構えていたエジプト兵が左右から襲い掛かった。


 砂煙が舞い上がる。

 青銅の槍が陽光にきらりと反射する。


 ──どこからか笛の音が響いた。

 武装したアアム族の男たちが踵《きびす》を返し、一斉に散っていく。

 岩場を知り尽くした彼らの足は、谷の斜面を飛ぶように駆ける。

 地形に慣れないエジプト兵士は翻弄されながらも、追跡を試みた。


「追うな!」


 クフ王が鋭く命じた。


「谷へ誘い込む気だ!」


 狭い峡谷では、上方の岩陰から奇襲される危険がある。

 エジプト兵たちは足を止めた。


 遊牧民たちは挑発するように叫んでいたが、やがて形勢の不利を悟ったのか、岩山の向こうへと姿を消した。


 ──静寂が戻る。

 クフ王の前に、親衛隊長がひざまずいた。


「お怪我はございませんか?」


 クフ王は短くうなずき、再び鉱山を見下ろした。

 群れ集まった労働者たちが怯えたように谷の入口を見つめている。


「この地を失うわけにはいかぬ」


 クフ王はつぶやいた。


「銅の流れが止まれば、王国の心臓に通う血までも止まる」


 その褐色の瞳が、鋭く光った。


「鉱山守備隊を拡大する。今回の遠征で伴ったエジプト兵を振り分けよ。将軍三名をここに残す。指揮をとれと命じよ」

「はっ!」

 

 親衛隊長が駆けていく。

 クフ王は天幕の中へと入った。


 アアム族の二人の男が、まだひざまずいていた。

 逃げ出すこともできずにいたらしい。

 顔には生気がなく、哀れなほどに青ざめている。


 クフ王は男たちを見下ろした。


「お前たちの策か?」


 二人はびくりと肩を震わせた。


「あの襲撃のねらいは?」


 男たちは何度も首を縦に振った。


「私どもにはわかりません! 大国エジプトに逆らうなど……!」

「アアム族にも派閥がございます! 彼らは仲間ではございません!」


 クフ王が、短剣の切っ先を男たちの眼前に突き出した。

 ひいいっと叫んで、男たちが地面に額をこすりつける。


「では、買収の噂は?」

「そのような話は聞いておりません!」

「遊牧民である我らに、そのような財などあろうはずが!」


 必死の弁明だった。

 クフ王は短剣を引き、下唇に人差し指をあてた。

 熟考するときの彼の癖である。


 先ほどの襲撃には明らかに「策」を感じた。

 エジプトの兵を峡谷に誘い込もうとする手口が見えた。

 画策したのは誰か──。


 青冠を縁取る黄金のコブラが、ぐいと揺れた。


「ネフェルマアト遠征指揮官を呼べ」

「はっ」


 兵士が天幕から出て行った。

 はらりと開いた天幕のすき間から、乾いた風が吹き込む。

 風の中に、ふと愛しい人の声が重なって聞こえた。


『逃げて! クヌム、逃げて!』


 胸騒ぎがする──。

 シナイに吹く乾いた風が、天幕を激しく揺らしていた。


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