第73話 シナイに吹く風
クフ王──クヌム・クフは、岩棚から採掘場を見下ろしていた。
削り取られた岩肌に無数の坑道が口を開けている。
兵士や労働者たちが、蟻の群れのように動き回っている。
険しい山道を、荷を積んだロバの列が下っていた。
赤く焼けた岩山が連なり、乾いた風が谷を吹き抜けていく。
見渡す範囲に緑はない。
敵の影すら、どこにも見当たらなかった。
鉱山がアアム族の手に落ちたとの軍報であったものの──
「王が出兵なさったとの報せを聞いて、すっかり情勢は変わりました。反抗者たちは姿を消し、現在ここにいます労働者たちは、エジプトが派遣した鉱夫と近隣の小部族のみです」
背後から兵士が報告する。
「反乱者は逃亡したと?」
「おそらく」
「遠征指揮官は、どこにいる?」
「ネフェルマアト様は残党を探しておられます。今のところ報告はありません」
視線を眼下に向けたまま、クフ王は「わかった」と短く答えた。
そのまま、岩棚の上に設置した天幕へと入っていく。
中にいた将軍たちが、一斉に頭を垂れた。
上座の椅子に座したクフ王は、居並ぶ者たちに視線を走らせる。
将軍たちに混じって、アアム族の男が二人いた。
地元の案内人であり通訳を務める男たちだ。
ナイル川の周辺では絶対権力を誇る王の命令も、 シナイの荒野では言葉の違いが邪魔をする。彼らの協力なしには伝達の効率が非常に悪い。
二人の男は異様に怯えていた。
こめかみには汗が流れ、握りしめた拳が震えている。
「説明せよ」
クフ王が命じた。
「アアム族が鉱山を奪わんとした理由は?」
「めっそうもございません! 鉱山を奪うなど!」
クフ王はかすかに口元を歪めた。
「労働者たちが反乱を起こしたと聞いた。鉱山の監督官が買収されていたとの噂も聞き及んでいる。まことか?」
男たちは弾かれたようにひざまずく。
「反乱などとんでもございません! 賃上げの直訴をしただけで……」
「買収する財など、私たちにあろうはずがございません!」
クフ王が眉根を寄せた。
「賃上げの直訴だと?」
「はいっ! 鉱山の監督官に……」
男が言い終わらないうちに、天幕の外で鋭い叫び声がした。
峡谷いっぱいに銅鑼が鳴り響く。
「襲撃だ!」
「備えろ!」
クフ王は風のような素早さで天幕の外へと飛び出した。
将軍たちも後に続く。
眼下の岩陰に砂塵が舞っていた。
武器をもった百人ほどの集団が、坂を駆け下りてくるのが見える。
棍棒や石斧を手にした砂漠の遊牧民──アアム族の男たちだ。
採掘場を目指して突進していた。
「鉱山を守れ!」
クフ王の命令に、兵士たちが動いた。
峡谷に警笛が響く。
採掘場の守備兵たちが持ち場へ走り、防御柵の前に盾を並べた。
将軍たちが一気に岩棚を駆け降りた。
天幕の前に残るのは、クフ王と親衛隊の兵が数人。
採掘場には砂煙が立ち込め、視界を奪っていく。
クフ王が目を凝らした──その時、
「あぶない!」
岩山の斜面から、何かが弧を描いて飛んできた。
投石だ。
「王をお守りしろ!」
親衛隊長の怒号が飛んだ。
兵士たちが一斉に盾を構え、クフ王の前へ躍り出る。
ガンッ、と激しい衝撃音が響いた。
大きな石が青銅の兜を打ち、兵士の一人が唸り声をあげて倒れた。
続いて矢が飛来する。
次々と岩壁に突き刺さり、乾いた音を立てた。
「ここは危険です! 天幕へ!」
だが、クフ王は動かない。
青冠の下から戦場を見据えている。
面前に飛来した矢を、身をひねって危うくかわす。
「ひるむな! 抑えよ!」
その表情には一切の動揺がない。
採掘場へなだれ込んだ襲撃者たちは、坑道入口の防御柵に足止めされている。柵を破ろうとした彼らに、待ち構えていたエジプト兵が左右から襲い掛かった。
砂煙が舞い上がる。
青銅の槍が陽光にきらりと反射する。
──どこからか笛の音が響いた。
武装したアアム族の男たちが踵を返し、一斉に散っていく。
岩場を知り尽くした彼らの足は、谷の斜面を飛ぶように駆ける。
地形に慣れないエジプト兵士は翻弄されながらも、追跡を試みた。
「追うな!」
クフ王が鋭く命じた。
「谷へ誘い込む気だ!」
狭い峡谷では、上方の岩陰から奇襲される危険がある。
エジプト兵たちは足を止めた。
遊牧民たちは挑発するように叫んでいたが、やがて形勢の不利を悟ったのか、岩山の向こうへと姿を消した。
──静寂が戻る。
クフ王の前に、親衛隊長がひざまずいた。
「お怪我はございませんか?」
クフ王は短くうなずき、再び鉱山を見下ろした。
群れ集まった労働者たちが怯えたように谷の入口を見つめている。
「この地を失うわけにはいかぬ」
クフ王はつぶやいた。
「銅の流れが止まれば、王国の心臓に通う血までも止まる」
その褐色の瞳が、鋭く光った。
「鉱山守備隊を拡大する。今回の遠征で伴ったエジプト兵を振り分けよ。将軍三名をここに残す。指揮をとれと命じよ」
「はっ!」
親衛隊長が駆けていく。
クフ王は天幕の中へと入った。
アアム族の二人の男が、まだひざまずいていた。
逃げ出すこともできずにいたらしい。
顔には生気がなく、哀れなほどに青ざめている。
クフ王は男たちを見下ろした。
「お前たちの策か?」
二人はびくりと肩を震わせた。
「あの襲撃のねらいは?」
男たちは何度も首を縦に振った。
「私どもにはわかりません! 大国エジプトに逆らうなど……!」
「アアム族にも派閥がございます! 彼らは仲間ではございません!」
クフ王が、短剣の切っ先を男たちの眼前に突き出した。
ひいいっと叫んで、男たちが地面に額をこすりつける。
「では、買収の噂は?」
「そのような話は聞いておりません!」
「遊牧民である我らに、そのような財などあろうはずが!」
必死の弁明だった。
クフ王は短剣を引き、下唇に人差し指をあてた。
熟考するときの彼の癖である。
先ほどの襲撃には明らかに「策」を感じた。
エジプトの兵を峡谷に誘い込もうとする手口が見えた。
画策したのは誰か──。
青冠を縁取る黄金のコブラが、ぐいと揺れた。
「ネフェルマアト遠征指揮官を呼べ」
「はっ」
兵士が天幕から出て行った。
はらりと開いた天幕のすき間から、乾いた風が吹き込む。
風の中に、ふと愛しい人の声が重なって聞こえた。
『逃げて! クヌム、逃げて!』
胸騒ぎがする──。
シナイに吹く乾いた風が、天幕を激しく揺らしていた。




