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セスの刻紋 ── ピラミッドに落書きした少年 ──  作者: 鬼丸 千
第12章 一心不乱

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第71話 師匠

 戸惑ったままのムトに、書記は再び訊いた。


「厨房から出てきたようだが、このオシリス神殿で働いているのか?」


 優しい声だった。

 張りつめていたムトの心が、わずかにほぐれる。


 彼の視線がムトの右手に落ちた。

 ムトもつられて見下ろし、赤面する。

 握りつぶされたパン生地が手からだらりと垂れていた。

 うろたえる彼女を見て、彼が笑う。


「神官長に会いに来たのだが、案内を頼めるかな?」

「……失礼いたしました。こちらへどうぞ」


 パン生地をどうしたものかと思いつつ、仕方なく丸めて胸元に隠す。

 神官長の部屋は管理棟の二階にあった。

 ムトが先導し、階段を上っていく。


「セスくんは、元気かな?」


 やや後方から、書記の声が届いた。


「はい。元気にしているようです」

「兵舎に入っていると、なかなか会えないだろうが」

「ハピ祭りには、父と帰省してきました」

「そうか。正式に調査隊に加入したそうだね」

「はい。ありがたいことです」


 書記は感心したように「うむ」という。


「あの若さで認められるとは、かなり優秀な弟さんに違いない。監督官の父をもつとはいえ、こればかりは実力がものを言う。将来が楽しみな少年だ」

「ありがとうございます」


 廊下を突き辺りまで歩くと、神官長の部屋がある。


「神官長さま」


 ムトが声をかけた。


「お客さまがお越しです」


 すぐに返事があった。


「ありがとう。お通ししてくれ」

「はい」


 ムトは書記に一礼し、そのまま帰ろうとした。


「待ちなさい」


 部屋の中から神官長の声がした。


「ムトくん、きみも入りなさい」

「え……?」


 書記はムトに微笑むと、そのまま部屋へ入っていく。

 

(どうして私まで?)


 嫌な予感しかしない。

 何か粗相をしたのだろうか。

 ここにいられなくなったのだろうか。

 ともかく、パン生地を抱えたままでは入れない。

 ムトは辺りを見回し、飾ってあった花瓶の後ろに生地をいったん隠した。


「……失礼します」


 落ち着かない気持ちで部屋に入る。

 ここに来たのは、ムトがオシリス神殿に転居することになり、弟ルカと暮らすための手続きをしたとき以来だ。

 

 部屋の中央にはテーブルがあり、杯と水差しのほか、セネトと呼ばれるボードゲームが置いてあった。十個のマス目が三列並ぶ盤の上で、五つの駒を進めて勝敗を競うゲームだ。神官長も神官たちも余暇にはよく楽しんでいる。


 あいさつを終え、書記は神官長の向かいに腰を下ろした。

 ゆっくり近づいたムトは、うつむき加減にテーブルの脇に立つ。


「彼女はムトと言いましてね、ここの厨房で働いてもらっているんです」

「おお、そうですか」


 パン生地のことは黙っていてくれるらしい。

 ムトはお礼の意味も込めて、書記に頭を下げた。


「こちらは、メレルさんだ。ギザの地方官のもとで働いておられる」

「あ……はい。はじめまして」


 口に出してから、初対面ではないのにと焦る。

 メレルという名の書記は「どうも」とにこやかに笑うと、神官長に向き合った。


「ホラヤ神官長、地方官から『しばらくオシリス神殿で勤務を』と言われて来たのですが、どのようなご用件でしょう? 葬祭文書《ピラミッド・テキスト》に関することでしょうか?」

「いやいや」


 神官長が手を振った。


「実は、ご指導いただきたい少年がいるのですよ」

「指導……?」


 神官長がちらりとムトを見た。

 ムトははっとした。きっと、ルカのことだ。


「ここに住んでいる少年が、来月メンフィスで実施される養成学校の受験を考えているんです。実力を見ていただければと思いまして」

「そうですか。申し訳ありませんが──」


 メレルは苦笑した。


「弟子をとる気はないのです。受験を考えている少年であれば、なおさら特別扱いはできません。かつて試験官だった私が口添えしたと思われれば、その子にとって不利にもなりましょう」

「彼女の弟なのですよ」


 神官長が言った。


「お会いになってみては?」


 メレルが、ムトを見た。


「彼女の弟……?」


 眉をひそめたが、次の瞬間、何かを思い出したように目を見開いた。


「なるほど」

 

 ムトを見るその瞳には好奇心が溢《あふ》れている。


「あの木製パレットの少年ですか」

「え?」

 

 きょとんとする神官長に、メレルはいやいやと手を振った。


「まずは会ってみましょう」


 メレルの返事に、神官長は満足そうにうなずいた。


「それはよかった。ムトくん、ご案内してくれ」


 メレルが立ち上がった。


「きみには案内してもらうばかりだが、よろしく」

「い……いいえ、とんでもございません。……こちらにどうぞ」


 失礼しますと神官長にあいさつをし、二人は通路へ出た。

 ムトとルカの部屋は、管理棟の一階にある。

 回廊を歩きながら、メレルは「そうだったのか」と真剣な顔で言った。


「ダクト監督官の末の息子さんは、書記をめざしていたのだね? 道理であれほど熱心に文字の練習を」

「見習いにもなっていないのに、大きな夢ばかりで……」

「いや、夢をもつのはよい事だ。叶える才能があるなら、なおのこと」


 メレルは力強く言った。


「たいていの職業は世襲制だが、それに囚われる必要はない。きみの家であの木製パレットを見たときに、大いに感じるものがあった。これも何かの縁だろう」


 階段の踊り場で、ムトの足がはたと止まった。


「……どうしたのかね?」


 メレルが訊くと、ムトは深刻な面持ちでふり返った。


「お会いいただく前に、お話ししておきたいことが」


 震える声で、そう言った。


「なんだね?」


 メレルの声は優しい。

 ためらうように口をつぐんだムトは、決心したように頭をもたげた。


「実は、弟はひどく身体を壊しています。メレル様にせっかくご指導いただいても、書記になるどころか受験すらできないかもしれません」

「……」

「神官長さまは、先の長くない身を哀れに思って、このようなご厚意を傾けてくださったのだと思います。大変ありがたいのですが、メレル様にまでご面倒をおかけしてしまうわけにはまいりません」


 二人の間に、しばらくの沈黙が流れた。

 中庭の噴水の音が大きくなる。

 神官たちの詠唱が遠くに聞こえていた。

 ムトは頭を下げたまま、メレルの質の良いサンダルを見つめる──。


「まずは会ってみましょう」


 静かにメレルは言った。


「指導する価値があるかは、私自身が決めることです」


 ムトは顔を上げた。

 優しいまなざしがそこにある。


「縁あっての再会だ。紹介してもらえますかな?」


 ムトの目から、ぽろりと涙がこぼれた。


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