第71話 師匠
戸惑ったままのムトに、書記は再び訊いた。
「厨房から出てきたようだが、このオシリス神殿で働いているのか?」
優しい声だった。
張りつめていたムトの心が、わずかにほぐれる。
彼の視線がムトの右手に落ちた。
ムトもつられて見下ろし、赤面する。
握りつぶされたパン生地が手からだらりと垂れていた。
うろたえる彼女を見て、彼が笑う。
「神官長に会いに来たのだが、案内を頼めるかな?」
「……失礼いたしました。こちらへどうぞ」
パン生地をどうしたものかと思いつつ、仕方なく丸めて胸元に隠す。
神官長の部屋は管理棟の二階にあった。
ムトが先導し、階段を上っていく。
「セスくんは、元気かな?」
やや後方から、書記の声が届いた。
「はい。元気にしているようです」
「兵舎に入っていると、なかなか会えないだろうが」
「ハピ祭りには、父と帰省してきました」
「そうか。正式に調査隊に加入したそうだね」
「はい。ありがたいことです」
書記は感心したように「うむ」という。
「あの若さで認められるとは、かなり優秀な弟さんに違いない。監督官の父をもつとはいえ、こればかりは実力がものを言う。将来が楽しみな少年だ」
「ありがとうございます」
廊下を突き辺りまで歩くと、神官長の部屋がある。
「神官長さま」
ムトが声をかけた。
「お客さまがお越しです」
すぐに返事があった。
「ありがとう。お通ししてくれ」
「はい」
ムトは書記に一礼し、そのまま帰ろうとした。
「待ちなさい」
部屋の中から神官長の声がした。
「ムトくん、きみも入りなさい」
「え……?」
書記はムトに微笑むと、そのまま部屋へ入っていく。
(どうして私まで?)
嫌な予感しかしない。
何か粗相をしたのだろうか。
ここにいられなくなったのだろうか。
ともかく、パン生地を抱えたままでは入れない。
ムトは辺りを見回し、飾ってあった花瓶の後ろに生地をいったん隠した。
「……失礼します」
落ち着かない気持ちで部屋に入る。
ここに来たのは、ムトがオシリス神殿に転居することになり、弟ルカと暮らすための手続きをしたとき以来だ。
部屋の中央にはテーブルがあり、杯と水差しのほか、セネトと呼ばれるボードゲームが置いてあった。十個のマス目が三列並ぶ盤の上で、五つの駒を進めて勝敗を競うゲームだ。神官長も神官たちも余暇にはよく楽しんでいる。
あいさつを終え、書記は神官長の向かいに腰を下ろした。
ゆっくり近づいたムトは、うつむき加減にテーブルの脇に立つ。
「彼女はムトと言いましてね、ここの厨房で働いてもらっているんです」
「おお、そうですか」
パン生地のことは黙っていてくれるらしい。
ムトはお礼の意味も込めて、書記に頭を下げた。
「こちらは、メレルさんだ。ギザの地方官のもとで働いておられる」
「あ……はい。はじめまして」
口に出してから、初対面ではないのにと焦る。
メレルという名の書記は「どうも」とにこやかに笑うと、神官長に向き合った。
「ホラヤ神官長、地方官から『しばらくオシリス神殿で勤務を』と言われて来たのですが、どのようなご用件でしょう? 葬祭文書に関することでしょうか?」
「いやいや」
神官長が手を振った。
「実は、ご指導いただきたい少年がいるのですよ」
「指導……?」
神官長がちらりとムトを見た。
ムトははっとした。きっと、ルカのことだ。
「ここに住んでいる少年が、来月メンフィスで実施される養成学校の受験を考えているんです。実力を見ていただければと思いまして」
「そうですか。申し訳ありませんが──」
メレルは苦笑した。
「弟子をとる気はないのです。受験を考えている少年であれば、なおさら特別扱いはできません。かつて試験官だった私が口添えしたと思われれば、その子にとって不利にもなりましょう」
「彼女の弟なのですよ」
神官長が言った。
「お会いになってみては?」
メレルが、ムトを見た。
「彼女の弟……?」
眉をひそめたが、次の瞬間、何かを思い出したように目を見開いた。
「なるほど」
ムトを見るその瞳には好奇心が溢れている。
「あの木製パレットの少年ですか」
「え?」
きょとんとする神官長に、メレルはいやいやと手を振った。
「まずは会ってみましょう」
メレルの返事に、神官長は満足そうにうなずいた。
「それはよかった。ムトくん、ご案内してくれ」
メレルが立ち上がった。
「きみには案内してもらうばかりだが、よろしく」
「い……いいえ、とんでもございません。……こちらにどうぞ」
失礼しますと神官長にあいさつをし、二人は通路へ出た。
ムトとルカの部屋は、管理棟の一階にある。
回廊を歩きながら、メレルは「そうだったのか」と真剣な顔で言った。
「ダクト監督官の末の息子さんは、書記をめざしていたのだね? 道理であれほど熱心に文字の練習を」
「見習いにもなっていないのに、大きな夢ばかりで……」
「いや、夢をもつのはよい事だ。叶える才能があるなら、なおのこと」
メレルは力強く言った。
「たいていの職業は世襲制だが、それに囚われる必要はない。きみの家であの木製パレットを見たときに、大いに感じるものがあった。これも何かの縁だろう」
階段の踊り場で、ムトの足がはたと止まった。
「……どうしたのかね?」
メレルが訊くと、ムトは深刻な面持ちでふり返った。
「お会いいただく前に、お話ししておきたいことが」
震える声で、そう言った。
「なんだね?」
メレルの声は優しい。
ためらうように口をつぐんだムトは、決心したように頭をもたげた。
「実は、弟はひどく身体を壊しています。メレル様にせっかくご指導いただいても、書記になるどころか受験すらできないかもしれません」
「……」
「神官長さまは、先の長くない身を哀れに思って、このようなご厚意を傾けてくださったのだと思います。大変ありがたいのですが、メレル様にまでご面倒をおかけしてしまうわけにはまいりません」
二人の間に、しばらくの沈黙が流れた。
中庭の噴水の音が大きくなる。
神官たちの詠唱が遠くに聞こえていた。
ムトは頭を下げたまま、メレルの質の良いサンダルを見つめる──。
「まずは会ってみましょう」
静かにメレルは言った。
「指導する価値があるかは、私自身が決めることです」
ムトは顔を上げた。
優しいまなざしがそこにある。
「縁あっての再会だ。紹介してもらえますかな?」
ムトの目から、ぽろりと涙がこぼれた。




