第70話 舞い上がる砂
ギザ台地。天にそびえる第一の塔。
王墓となるその「神の塔」の周囲では、人の背丈五倍ほどの高さに及ぶ壁を張り巡らせる大工事が始まっていた。
ゆくゆくは王妃ピラミッド群や葬祭殿も建つ。
それらを包括する周壁となれば、三千(約2km)王肘尺に迫る長さになるだろう。言うまでもなく、史上最大の周壁だ。
黄色い砂丘の四方八方から、石を切り出す音が響いていた。
鉱夫が切り出した石灰岩、その形を整えていく石工たち。
測量士が寸法を確認し、作業員たちが積み上げていく。
刃こぼれした工具を修理する金属音が耳を刺す。
男たちの作業場は、かけ声と活気と乾いた風で満ちていた。
クフ王の出兵命令が出た後、ダシュル分隊長はギザの警備を充実させるべく奔走していた。シナイ鉱山を掌握したというアアム族は小民族だが、それゆえにリビアやヌビアの影が背後にちらつく。
ピラミッドタウンは職人たちの街であり、ナイル河岸の船着き場を抱える物流拠点でもある。行政区もあれば穀物庫もあり、王都ほどの数はなくとも王族たちが暮らす邸宅もある。
刺客騒ぎのあった後だ。外敵の襲撃には警戒しておかねばならない。
セスは石工の先輩たちとともに、切り出した石をノミで削っていた。
メドジャイ部隊の同行なしに第一の塔の探索は不可能だとダクトが判断したためだ。今日はシェムウ監督官の第一班とともに周壁の工事に加わっていた。
「石工らしい仕事は久々だ」
石斧を振るいながら、セスの隣でハベンが言う。
「俺様の腕が喜んでるよ」
「そうだろうな」
石工仲間があいづちを打つ。
「現場を離れりゃ腕も鈍る。俺たち石工は石を叩いてなんぼだ」
「まったくだ」
増水期終わりの空を見上げると、雲が高い。
セスは深呼吸した。
第一の塔の地下で味わったあの閉塞感と圧迫感の後は、この開放的な作業場が心地よくもある。
「あれは何だ?!」
大声が響いた。
「砂嵐か?」
「いや、違う。渦を巻いていない」
「東へ進んでいくぞ」
建設中の足場で、男たちが東を指差している。
ふり向くと、確かに砂塵が見えた。
巨大な蛇が砂丘をうねっていくように見える。
幅広い黄土色の帯がゆっくりと北東へ流れていく──
「王の軍だ!」
誰かが叫んだ。
「シナイ銅山をとり戻すために出兵なさった」
「すごいな。かなりの軍勢だ!」
「あんなもんじゃないさ。行軍途中で農夫がどんどん徴兵される。シナイに着く頃には、もっとでっかい軍隊になるぞ」
男たちの言葉に、セスははっとした。
ハピ祭りで交わしたパネプとの会話を思い出す──。
『戦争になれば、駆り出されるのは僕たち農民だ。慣れない武器を持たされて、敵と戦わないといけない』
『パネプも?』
『もちろんだよ! もう十四歳だ』
もしかして──
セスは不安に唇を噛みしめた。
(まさかパネプも行くのか……?)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ムトは、オシリス神殿の厨房にいた。
白いラップドレスの裾に、黒い小猫がじゃれついてくる。
ネズミ対策として神殿で飼っている猫の子どもだが、この小猫はなぜか親猫のそばよりムトの近くにばかりいる。
「ダメよ、今はまだ遊んであげられないわ」
小猫はミャオミャオと鳴くばかりで、足元から離れない。
ムトは苦笑し、壺に入った生地を手早く焼き型に詰めていった。
今日のパンには、神官長が好きなオリーブを入れてある。
焼き上がれば、まろやかな甘みのある香りが厨房を満たすだろう。
「王みずから軍隊を率いているそうだ」
ムトの耳に「王」という言葉が刺さった。
はっとして顔を上げる。
大きな野菜籠を背負った農夫が、料理人と話をしていた。
「王みずから?」
「遠征指揮官も一緒だそうだぞ」
「いったい何事だ? 戦争でも始まるのか?」
「知らないのか? シナイ銅山が、よその部族に奪われたんだよ」
「なんだって? エジプト王国も舐められたもんだな」
「だから、王がみずから向かわれたんだ。力の差を思い知らせてやらないと、周囲の小民族たちから馬鹿にされちまうからな」
焼き型から生地がこぼれたのにも気づかず、ムトは東の窓を見やった。
まだ陽は高い。
いつもと変わらぬ青空だ。
(軍隊? 戦争が始まるの?)
胸がざわつく。
ピラミッドタウンで刺客に襲われた時のことを思い出す。
ジギタリスの猛毒で、どす黒く変色していた彼の肩。
激しくえずいていた彼の苦し気な横顔。
玉のように浮き上がった汗──。
(刺客に襲われた後なのに、王宮を離れてシナイに行くなんて……)
何かが砕け散る音がして、ムトは飛び上がった。
ふり向くと、床に陶器の欠片が白く散らばっている。
「やっちまった。縁起でもない」
給仕の男が頭をかいている。
息苦しさを感じて、ムトは厨房を出た。
裏口から中庭に入ると、東から乾いた風が吹き込んできた。
遠くで舞い上がる砂が空をかすませている。
列柱室の柱にもたれて、目を閉じた。
彼の苦し気な顔が、どうしても頭から離れない。
血色を失った彼のささやき声が、耳にこだまする。
『大丈夫だ……。怖がらなくていい』
ムトは大きく息を吐いた。
(落ちついて……。そうよ、きっと大丈夫)
「どうしたのかね?」
急に声をかけられた。
驚いて目を開けると、書記の男がムトを見下ろしていた。
剃り上げた頭。香油の匂い。
腕には石板を抱えている。
肉付きのよい首に揺れているラピスラズリの大きな首飾り。
これといって特徴のない顔立ちながら、穏やかな性格を思わせるまなざしには、どこか覚えがあった──。
「あなたは……」
書記の男も、ヴェールで顔を覆ったムトの瞳を見つめている。
そのまなじりが、優しく弧を描いた。
「きみは……セスくんのお姉さんだね? なぜここに?」
その声で、ムトは思い出した。
思わぬ召集に驚いたあの夜。
セスに向かって王命を告げたあの声だ。
『石工監督官であり遺跡調査官であるダクトの長男セスよ。王の永遠なる家の建設に、きみの力が求められている。調査隊に入り、名誉ある任務を遂行せよ』




