第68話 遠征前夜
いつもより時間をかけて沐浴し、侍女たちに手早く香油を塗らせた後、クヌム・クフは柔らかなサッシュキルトで腰を覆い、寝室へと入った。
誰もいないと思っていたが、寝台の前にはメリタテス王妃がいた。
クヌム・クフは、目を細めて小さく嘆息する。
明日からの遠征に向けて、早く休んでおきたかったのだが──
「あなたは無防備が過ぎます」
さっそく小言が飛んできた。
三つ年上のメリタテス王妃は、父王の寵妃だった女性だ。
幼い頃から王宮で育ち、お互いにとって姉弟のような存在でもある。
「なぜ、そう思うのです?」
問答をする気分ではないが、あしらうわけにもいかない。
彼女は心優しい女性ではあるが、軽んじれば容赦なく咬みつく。
「ネフェルマアトの思惑がわからないのですか?」
メリタテス王妃の声音には、深い怒りがあった。
無理もない。
彼女はネフェルマアトを忌み嫌っている。
前王スネフェルの寵妃メリタテスは、王位継承の正統性そのものを体現する存在でもあった。王位への足掛かりを得ようとしたネフェルマアトは、そんな彼女との婚姻を強く求めたが、メリタテスは喪中を理由にこれを拒絶する。
しかし、ネフェルマアトは容易に引き下がらなかった。
彼はメリタテスの息子であるカワブ王子の身の安全をほのめかしながら圧力を加え、ついには脅迫まがいの求婚へと踏み込んだのだ。追い詰められた彼女は、その窮地を脱する術をクヌム・クフとの婚姻に見いだした。
クフ王が誕生するに至った背景には、このような事情があったのである。
「野心のためなら手段を択ばぬ男ですよ」
「わかっています」
「あなたを銅山に誘うため、彼がアアム族と裏で工作したのでしょう」
「そうでしょうね」
「わかっていながら、なぜ?」
「決着をつけるためです」
クヌム・クフは、きっぱりと答えた。
「彼はあきらめが悪い。二年前に収まった問題にこだわり続け、今なお国益より私益を重んじている。このままでは王国が分裂しかねない」
「だから遠征を?」
「彼の罠に落ちてみれば、思惑が公にもなる」
メリタテス王妃は不満げに、美しく弧を描く眉をひそめた。
『父の最愛の人』という意味のメリタテスと彼女を呼ぶようになったのは、彼女のその仕草を父スネフェル王が愛らしいと称えていたことによる。
クヌム・クフは、父スネフェルの寵愛ぶりを思い出して苦笑した。
王権を強化した偉大な王と称される父も、自分の娘ほども年若い妃には頭が上がらない、ただの男であった。
「笑い事ではありません」
彼女は手厳しい。
あの傲慢なネフェルマアトを無下に断るだけのことはある。
「あなたが遠征すれば、この王都はどうなるのです?」
「長兄のアンカフがいるでしょう」
「彼は有能ですわ。でも、人は彼を崇めはしない」
「だからこそ、上エジプトの白冠を彼に委ねたのですよ」
クヌム・クフの視線が、つと寝室の先にある衣装室に向く。
下エジプトの象徴である王冠──赤冠と、戦闘時に王が被る青冠は、その衣装室に保管してあった。
「いざとなれば王冠がものを言う。白冠を被って人前に立てば、何人であろうと彼を卑下などできぬ。そもそも──」
クヌム・クフは、中庭の先に見える行政区画を見やった。
まだ明かりが点いている。
アンカフの執務室も、まだ休んではいない。
「宰相らの息がかかったあの占星師の戯言さえなければ、長兄の彼が王位に就いていたはずです」
「今さらそのような──」
「そのとおり。今さら口にしても仕方がない」
クヌム・クフの口元に自嘲的な笑みが浮かぶ。
「だが、私は王として生きるつもりはなかった。その甲斐性もない」
「あなたは、よく務めていますわ」
「長兄の働きがあるからですよ。彼には施政者として立つ才がある。私はこれまで何度も王都を離れているが、混乱は起きていない」
「政治と遠征では話が違います」
苛立ったメリタテスが細い首を振る。
艶やかな耳に、ターコイズの耳飾りが優雅に揺れた。
「軍事会議で、あの宰相たちはこう言ったとか。『王の御身に何があろうと、私たちがこの国を守ります』と……。王の前で呪いの言葉を吐くとは、神の怒りすら怖れぬ輩ですわ」
「国への忠誠心からですよ」
「単なる御託です」
メリタテスは譲らない。
「あの二人の宰相はネフェルマアトに飼い慣らされ、もはや言いなりです。私の夫となったあなたを敵対視する者たちなのですよ?」
「王宮は、味方より敵が多い場所です。あなたにも同じことでしょう」
メリタテスは、ふくよかな唇を子どものように尖らせる。
「まったく……子どもの頃から口答えばかり」
クヌム・クフは、八重歯を見せて笑う。
子どもの頃の屈託ない笑顔そのままだ、とメリタテスも苦笑する。
クヌム・クフの表情から、その笑顔がふっと消えた。
メリタテスを見つめ、真剣な顔になる。
「あなたに紹介したい人がいます」
「どなたです?」
「身分で人を測らず、謙虚で純粋。強気でありながら情に厚い」
その意を察した彼女の瞳に、すぐに好奇の色が現れた。
「まあ、いよいよ想い人が現れたようね」
クヌム・クフは口角をあげて、静かに笑った。
「この蛇の巣窟のような王宮で、私たちを支えてくれる女性です」
メリタテス王妃は花のように微笑んだ。
これで肩の荷が下りる。
そう安堵しながら、胸の奥に小さな寂しさを感じてもいた。




