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セスの刻紋 ── ピラミッドに落書きした少年 ──  作者: 鬼丸 千
第10章 守りたい人

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第61話 転居

 聖池には、今日も蓮の花が揺れている。

 オシリス神殿の中庭で、ムトは長椅子《ベンチ》に腰を下ろしていた。


 彼が言ったように、すぐに助けは現れた。


 踊り子や楽師に変装し、お忍びでギザに滞在するクフ王を守っていた六人の女護衛たちは、刺客に襲われた王が河岸へと向かう道すがら残していた「しるし」を頼りに駆けつけた。七人の刺客のうち二人は逃走し、残る五人は守衛兵に引き渡したという。

 

 河岸に駆けつけた彼女たちに、彼は毅然とこう言った。


『王命だ。今からムトと神殿へ戻る。三人で護衛せよ』


 苦し気な息を吐き、


『残る三人は東の街に行き、彼女の弟のルカを探し出せ。丁重に神殿へ連れてくるのだ。木製パレットをセスに返したクヌムが呼んでいると言えばよい』


 女護衛たちは無言でうなずき、すぐに動いた。

 河岸神殿であるオシリス神殿までは、舟で移動した。

 神殿近くの桟橋に着くと、輿を用意した守衛兵たちがすぐさま現れ、彼とムトを乗せて中庭へ運び込んだ。神官たちが忙しなく動き回り、医官たちが神官管理棟へと薬箱を抱えて駆けつけた。

  

 ムトは、わずかにジギタリスの毒を呑み込んでいた。

 かなりの水を飲まされ、ムトは何度も吐いた。

 医官が処方した解毒薬を飲んだ後も、喉が焼け付くほどの苦しみを味わった。


 休んでいなさいと言う医官に逆らって、彼女は彼が運び込まれた部屋の前にある中庭で長椅子《ベンチ》に腰を下ろしている。

 

(お願い……無事でいて)


 手を合わせ、目を閉じた。


(どうか、彼を助けてください)


 激しくえずいていた彼の姿を思い出す。

 気品のある額には汗が玉のように浮きあがっていた──。


(なんの取り柄もない私を見てくれる……そんな大切な人たちを、どうか私の元から奪わないでください)


「王がお呼びです」


 不意に頭の上から声がして、ムトははっと顔を上げた。

 神殿まで護衛してくれた女楽師の一人が、目の前に立っている。

 足音さえ聞こえなかった。


「こちらへ」

「……は、はい!」


 女楽師は歩くのが早い。

 ムトは小走りで後を追う。

 解毒薬の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。

 少し走っただけで、軽いめまいを感じてしまう。


 中庭から神官管理棟に入り、回廊を奥まで進んだ。

 突き当たりの部屋の前に、四人の守衛兵が険しい顔で立っている。

 兵士は女楽師をちらりと見ると、無言で剣を下げた。

 入っていいという合図らしい。

 いかめしい顔を崩さない兵士の間をすり抜けていく女楽師に続き、ムトもおそるおそる室内へと入った。


 室内は、それほど広くはなかった。

 薬湯の匂いが充満している。


 中庭に面した窓から、さっきまで座っていた長椅子《ベンチ》が見えた。

 窓の下には天蓋付きの寝台があり、半身を起こして座す人がいる。

 こちらを見ているが、その表情は窓からの陽光でよく見えない。

 

「来たか」


 彼の声に、張りが戻っているように感じた。

 ムトを息苦しくさせていた不安の塊が溶けていく。

 思わず笑顔になってしまい、慌ててその微笑みを床に落としてごまかした。

 

「下がってよい」


 女楽師と医官の二人が恭《うやうや》しく頭を下げて退室していく。

 ムトは所在なげに室内を見回した。

 

 白い壁には、獅子を編み込んだタペストリーがかかっている。

 円卓の上にはイチジクとブドウ、水差しがあった。

 巻物が山のように積んである。

 あちこち傷んだ弦楽器《リュート》が、円卓の脇に立てかけてあった。


 ここは、彼の寝室なのだろうか。

 それとも執務室──?


「気分は?」


 彼が訊いた。


「あなたは?」


 ムトが訊き返す。


 どちらからともなく、ふっと笑った。

 生死をともにした経験が、わだかまりとこだわりを吹き飛ばしていた。


「やがて、ルカがここに来る」


 彼が言った。


「きみ達はしばらく、この神殿に滞在する方がいい」


 河岸で聞いた王命から、そうなるのだろうと思ってはいた。

 ムトは、あの男たちに顔を見られている。

 王と近しい関係だと思われ、狙われないとも限らない。

 ダクトもセスも兵舎に寝泊まりしていて、家にはルカと二人きりだ。

 東の街で暮らせば、ムトの身に何が起こるか──。


「ここにいれば安全だ。ルカも、医官の治療を受けやすくなる」

「父や弟に連絡は?」

「ダシュル分隊長に伝えておく」

「いつまで、ここにいればいいの?」

「それはわからない」


 ムトはため息をついた。


「こんなことになるなんて……」

「私のせいで迷惑をかける」


 彼のシルエットが肩を落とす。

 ムトは慌てて首を振った。


「あなたのせいじゃないわ」


 そう言うと、ほっとしたような吐息が聞こえた。


「ここは窮屈だろうが、我慢してくれ」

「こんなに広いのに」

「居心地のことを言っている」

「わかってる。冗談よ」


 彼が軽やかに笑った。


「冗談を言うまでになったか。苦しんだだけの甲斐はあった」


 そう言うと、寝台脇の椅子を指差す。

 座れという事らしい。

 ムトは言われるまま寝台へと近づいた。


 窓からの陽ざしで影になっていた彼の顔が、今ははっきりと見える。

 まだ少し青白いが、唇に赤みは戻りつつあった。

 肩から胸へと巻かれた包帯が痛々しい。

 ほんのわずか、血がにじんで見えていた。

 

 椅子に座り、両手を膝の上に置く。

 彼の視線が耐えられず、窓の外を見やる。


「……いい天気ね」


 言って後悔する。

 案の定、彼は笑った。


「私の目に狂いはなかった」

「……え?」

「身分を知っても、きみは態度を変えない。ルカと同じように」


 その言葉に、ムトは驚いて彼を見つめた。


「ルカは、あなたが王だと知っていたの?」

「もちろんだ。彼は神聖文字《ヒエログリフ》が読める。弦楽器《リュート》にも指輪にも、私の名が刻んである」


 そう言って、彼は指にはめた黄金の指輪をムトに見せた。


「あきれた……」


『姉さんに幸せになってもらいたい』 


 ルカは、何度もそう言っていた。

 あの時すでにルカは知っていたのかもしれない。

 クヌムという楽師の正体を──。


「私は、メンフィスに戻る」


 彼の口調が変わっていた。

 厳格さと苛立ちがこもっている。


(メンフィスに戻る……?)


 ムトの心に風が吹いた。


 メンフィスはエジプトの首都だ。

 ギザからは二イテル(20km)ほど南にある。

 陸路を急いでも、半日はかかる距離だ。

 

 今回の事件のせいで、王宮に戻ることになったのか──。


 ムトの動揺に気づいているのかいないのか、彼はつぶやいた。


「刺客の手は、想像以上に伸びている」


 確かに、ピラミッドタウンに刺客が入り込むとは予想外だった。

 国家事業のための労働者都市であるピラミッドタウンには、一般の者は立ち入ることが許されていない。物見遊山の旅人が台地の周辺を訪れることはあっても、城門を越え、厳重に管理された労働者都市へ入り込める者はほとんどいない……はずだった。


「メンフィスに戻り、大臣たちと協議せねばならない」


 クヌム・クフが静かに言った。


 椅子に座ったまま、ムトはうなずくことも言葉を発することもできない。

 これまで垣間見ることもなかった新しい表情──威厳ある王の表情を浮かべたクヌム・クフから目をそらせずにいた。


 視線に気づいた彼は、ムトに微笑みかけた。


「去る前に、渡しておきたい物がある」


 そう言って、枕の下に手を伸ばす。

 取り出したのは、女楽師たちが身に着けていたのと同じ薄布のヴェールだった。


「おいで」


 彼がささやいた。

 その声に、ムトの心が弾む。

 気づかれないように息を呑み、ムトはゆっくりと椅子から立ち上がった。

 彼の手に導かれるまま、寝台の脇に腰かける。


 クヌム・クフの冷たい指が、ムトの耳に触れた。

 さらりと髪をかきあげられて、背中から力が抜けていく。

 次の瞬間、ムトの顔をヴェールがはらりと覆っていた。


「私が戻るまで、その愛らしい顔を隠しておいてくれ」


 彼が、またささやく。

 漆黒の瞳を瞬かせたムトの長いまつげが、恥じらって揺れた。


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