第60話 離さぬ手
王の怒りの前に、ひれ伏したまま動かないションク長官。
クヌム・クフは苦笑した。
「もうよせ。人が見れば疑われる」
「し……失礼いたしました!」
ションクは慌てて立ち上がる。
戦場では冷静沈着な彼だが、神殿ではどうも調子が狂うようだ。
軽い足音が近づいてきた。
ションク長官が、すかさず身構える。
入ってきたのは医官だった。
先日、ルカの診察をしたあの医師だ。
ションク長官が佩いている長剣を見やり、かなり緊張している。
何度も頭を下げながら、
「お話し中、恐れ入ります。また、あの娘が来ておりますが……」
と強張った表情で伝えた。
「ムトが?」
「はい。弟の薬を所望しております」
「早く渡してやれ」
「はいっ!」
医官は、そのまま急ぎ足で出て行きかけた。
「待て」
クヌム・クフが呼び止めた。
弾かれるようにふり向いた医官はその場でよろけた。
慌てて姿勢を正し、またも「申し訳ありません」と低頭する。
「そうびくびくするな。その態度のせいで、彼女に怪しまれてしまった」
「も……申し訳ございません!」
手足がもげた患者や、皮膚が溶ける流行り病にはまったく動じない医官であるくせに、王の前では羊より憶病になる。クヌム・クフは失笑した。
「その薬をよこせ。私が渡す」
「……手ずから……でございますか?」
「悪いか?」
「めっそうもございません!」
床にひれ伏す医官に、ションク長官も失笑した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
クヌム・クフとムトは、ピラミッドタウンの南通りを並んで歩いていた。
ムトがどんなに拒んでも、彼は家まで送ると言い張る。
家を知られたくないと顔をしかめて断ると、
「護符の店に用があるのだ」
と切り返された。
「ルカの様子は?」
「かなりよくなりました」
視線を合わせもせずに、ムトが答える。
「発作は治まったか?」
「はい」
「では、見舞いの品も問題なく食べてもらえそうだな」
ムトの腕には、彼から押し付けられた籠があった。
医者からもらった薬のほか、イチジクとコプトパンが入っている。
前にルカが、「クヌムがくれるコプトパンには砂が入っていないんだ」と嬉しそうに言っていたことを思い出した。
ムトは唇を噛みしめる。
それもそうだろう。なぜなら彼は──。
「今だ!」
護符の店に通じる路地に差し掛かったとき、空から大声が降ってきた。
はっとして顔を向けると、日干しレンガの住宅の屋根から数人の男たちがひらりと飛び降りてきた。浅黒い肌の男が七人いる。工夫の身なりをしているが、慣れた手つきで短剣を構えていた。
路地を歩いていた人々が殺気に気づき、悲鳴をあげて逃げまどう。
周囲から、あっという間に人の姿が消えた。
「なんの用だ」
クヌム・クフが、静かに言った。
さりげない仕草で、ムトを背後に隠す。
「命をもらう」
男の一人が短剣を指先でくるくると回しながら、にやりと笑った。
手練れだ。雇われた刺客か。
クヌム・クフは、ふっと笑った。
「あいにく、お前にくれてやる命はない」
「偉そうに言うな。こっちの首がかかってるんだよ!」
叫ぶやいなや、男たちは一斉に襲い掛かってきた。
ムトが声にならない悲鳴をあげた瞬間──
ふわりと風が吹き、六つの影が舞うように現れた。
純白の裾をひるがえして刺客たちを阻むのは、ヴェールをつけた踊り子と楽器を抱えた女楽師たちだ。
「なんだ、お前ら」
一瞬ひるんだ刺客たちだったが、艶やかな腕や肩をあらわにした簡素な身なりの娘たちと見とめて余裕の表情に変わった。七人の刺客と六人の小娘。本気を出すまでもないと嘲笑っている。
「お忘れなきよう」
長身の踊り子が、弦楽器を恭しくクヌム・クフに差し出した。
クヌム・クフは嘆息する。
「肌身離さずとは面倒なことだ」
受け取ると、その鋭い三白眼で刺客たちを睨めつけた。
「お前らのような者がいなければ、この世は穏やかになるものを」
「やかましい!」
男たちが飛びかかった。
短剣が空気を切り裂く音が、日干しレンガの壁に反響する。
女楽師の楽器は、それぞれが武器と化していた。
刺客たちの殺気立った短剣とかち合い、火花が散っている。
俊敏な刺客たちは、右に左に飛びまわる。
踊り子たちも負けてはいない。
風のように舞いながら、ヴェールの下から暗器を取り出した。
白い粉を眼球に食らった刺客は、痛みに叫びながら顔を覆う。
小さな針を喉に受け、呼吸を失った刺客もいた。
鋭い鉤付きの扇に太ももを切られ、その場にうずくまる者もいる。
クヌム・クフの弦楽器は、いつの間にか長剣となっていた。
棹が刀身、胴が鍔と変わっている。
ムトを背後に庇いながら、刺客の短剣を器用にいなしていく。
「お逃げください!」
長身の踊り子が叫んだ。
うなずいたクヌム・クフが、ムトの手を握りしめた。
「走るぞ」
返事も待たずに、力強く駆けだす。
あまりの勢いにつまずきそうになりながら、ムトはイチジクとコプトパンが入った籠を落とすまいと胸に抱えて走った。
「逃げる気か?!」
「追え!」
背後から怒声と金属音が飛んでくる。
彼は、ムトの手を離さない。
長い指がムトの手のひらを包み込む。
そのあまりの冷たさに、ムトの背中がぞくりとした。
息が切れそうだ。
それでも、彼はムトの手を握りしめている。
「神殿に戻るぞ!」
彼の声が風と混じったとき、耳をつんざく悲鳴が背後から聞こえた。
ヒュルヒュル──と空気を切り裂く音。
次の瞬間、
「くっ!」
彼の身体が大きく揺れた。
反動でムトまでよろけ、思わず転びそうになる。
見上げると、いつも冷静沈着な横顔が苦痛に歪んでいた。
「クヌム?!」
ムトが叫んだ。
「かすり傷だ、いいから走れ!」
二人は駆けに駆けた。
大通りに出ると、人波がある。
かいくぐるようにして駆けた。
やっと足を止めた場所は、河岸だった。
ナイル川の水面が、青く風に揺れている。
彼の手から力が抜け、ムトの左手が自由になった。
「追手は?」
乱れた呼吸のまま、ムトは背後をふり返る。
ここはピラミッドタウンの西の街だ。
官僚や書記たちが暮らす区画で、緑も多い邸宅街である。
人の姿はあるが、こちらに駆けてくる怖ろしい影はない。
「いないわ。あきらめたのかも」
彼がよろけ、ムトの肩にぶつかった。
「すまない……」
足から力が抜けたように、その場にうずくまる。
「どうしたの?!」
ムトもしゃがみ込み、その顔をのぞき込んだ。
彼は、目を閉じていた。
口角を固く引き絞っている。
「……気にするな。疲れただけだ」
その途端、彼が激しくえずいた。
喘ぎ続ける喉からは、苦し気な声ばかりで何も出てこない。
額には、冷たい汗が玉のように浮きあがっていた。
「傷を見せて」
ムトの声が震えている。
彼は微笑み返そうとしているが、その視線が揺れていた。
身体がぐらりと傾き、眉をしかめてまた目を閉じる。
「大丈夫だ……。怖がらなくていい」
そう言う者も、それを聞く者も、どちらの鼓動も激しく乱れていた。
「ただのかすり傷だ」
「そんなはず……」
しゃがみこんだ彼の左肩が、血で濡れている。
傷口の周囲が、どす黒く変色していた。
ムトの腕から抱えていた籠が地面に落ちる。
「これは……!」
「ジギタリスだろう」
彼の声がいつになく弱々しかった。
「走ったせいで、毒が回った」
「そんな……」
ムトの視線が泳ぐ。
周囲を見回した。遠くに人々の姿はある。
助けを求めるべきだ。
でも、彼の身分を考えれば、うかつな行動はとれない。
誰を信じるべきかわからない。
彼の指先が、そっとムトの頬に触れた。
血色を失った唇が震えている。
「……心配するな。助けが来る」
助けが来る? いつ?
それまでに毒が回り、手遅れになったら?
ムトは唇を噛みしめた。
彼の肩をぐいと引き寄せ、ためらうことなく唇を押し当てる。
驚きに、彼の褐色の瞳が大きく見開かれた。
「……何をする!」
ムトは構わず、思い切り傷口を吸った。
苦みのあるどろりとした液体が、喉を刺す。
えずきながら、そのどす黒い血の塊を地面に吐き出した。
「よせ! 飲み込んでしまえば──」
「黙ってて!」
吐き出しては、また吸う。
激しく咳き込もうと、喉の奥からえずこうと、彼女は止めなかった。
(早く……! 早く来て!)
必死に願うムトの瞳には、いつの間にか涙があふれていた。




