第58話 原初の水
月はすっかり傾いている。
東の空が白み始めるまで、そう長くはないだろう。
それでも兵舎のあちこちには、まだ興奮の余韻が残っていた。
帯水層に落ちたセスたちは、六人とも無事に見つかった。
砂まみれになって砂丘から戻った男たちは、はしゃぎながら冷たい井戸の水で身体を洗い流し、それぞれに報告を終えると、歓迎式か祭礼かと勘違いしてしまうほどの華やいだ夜食をとった。
シェムウ監督官は、英雄になった。
目をかけていた部下がクフ王を襲撃して以来、肩身の狭い思いを味わっていた彼は、ダクトから「あなたは命の恩人だ」と言われて男泣きに泣いた。
「地震の後でもある。明日の作業は見送ろう」
ダシュル分隊長がそう提案すると、拍手喝采が起こった。
床に就く者もいれば、目が冴えて眠れずに語り明かしている者もいる。
星がきれいな夜だった。
同じく眠気を忘れたダクトとセスは、中庭の長椅子に腰を下ろし、干し豆をつまみにビールを飲みながら、地下で見つけた遺構について語らっていた。
「洞窟を進むと、大きな滝があったんだ」
セスが両手を広げ、滝の大きさを「これくらい」と表す。
「すごい水しぶきだった。そこから暗い石畳の通路を手探りで進んだんだけど、壁に一定の間隔で穴が開いていて、覗くと遠くに空が見えてた」
今度は握りこぶしを作り、穴の大きさを「これくらい」とダクトに教える。
「通気口かもしれないし、明り取りかもしれないけど、石工の先輩はどうやって建設したのか見当もつかないって」
「確かにとんでもない技術には違いない」
「シェムウ監督官も驚いてたよ。でも、それよりあの場所には驚いた」
セスの目には、あの地下の光景が今も鮮やかに浮かぶ。
八本の巨柱をたたえた聖池のような空間。
神殿を彷彿とさせる回廊の周りには、水路が張り巡らされていた。
ゆったりと流れていたのは、水底が透けて見えるほど清らかな水だった。
「あの場所は、絶対にオシリオンだよ」
弾むようにセスが言った。
「でも、鉱夫のおじさんは『伝説に過ぎない』なんて言うんだ」
不満そうに唇を尖らせる。
「父さん、『聖なるオシリオンの水』は知ってるよね?」
「もちろんだ。エジプトで生まれた者なら誰でも知っている」
──『聖なるオシリオンの水』。
エジプトに古くから伝わる伝説のひとつだ。
世界にまだ形がなかった頃のこと。
オシリオンという場所に“原初の水”が生まれた。
その水は病人を癒し、死者の魂を洗い、人々に活力を与える不思議な力をもっている。 風がその水に触れれば、忘れられた過去の声が地上へと流れ出し、人々を覚醒の道へと導く。オシリオンを崇めていた人々は、やがて欲に駆られて水を奪い合うようになる。その所業に怒った神が“原初の水”を永遠に封印し、人々は再び老病死の三重苦に悩まされることになった──という物語だ。
「報告会で、お前は『聖なるオシリオンの水』の話をしなかった」
「だって、みんなに子ども扱いされるから」
干し豆を口に放り込み、セスが言った。
「神話や伝説の誕生には、必ず意味があるはずなのに」
「そうだな」
「そもそも根拠ならあるんだ。あの地下の遺構で、この紋様を見つけた」
そう言うと、セスは立ち上がった。
地面に落ちていたイセリの枝を拾い、地面に何やら描いていく。
等しい半径を持つ複数の円が形作る紋様だ。十九個の円が重なり、まるで中心から外側へと紋様が広がっていくような錯覚を覚える──。
「幾何学模様か」
「そう!」
セスは嬉しそうに長椅子を叩いた。
「神さまが“原初の水”を封印した紋様だよ」
そう語り継がれている。
「でも、鉱夫のおじさんは笑うばかりで信じてくれなかった。そんな力などこの世に存在するわけがない。封印なんておとぎ話だって」
頬をふくらませるセスを見て、ダクトが笑う。
「“原初の水”を封印したかの真偽はさておき、その紋様には意味がある」
「意味?」
「ああ。お前の母さんが好きだった紋様だ。生命の花とも呼ばれている。宇宙の調和と生命の創造、精神の成長を示す古代の記号だよ」
「古代のシンボル?」
「遺跡調査官の仕事をしていると、この紋様によく出くわす」
ダクトの言葉にセスはうなずき、噛みしめるように言った。
「僕、遺跡調査官になりたい」
ダクトが目を細めた。
「石工ではなく?」
「ううん、父さんのように石工の監督官と遺跡調査官になりたい!」
自分に言い聞かせるように、セスは言った。
「あの聖池には、水辺に降りる階段があって、この紋様はそこに焼き付けてあったんだ。父さん、焼き付けてあったんだよ。信じられる? シェムウ監督官もおじさん達も、どんな方法でそうしたのか『皆目見当がつかない』んだって」
夜空を見上げて、セスはため息をついた。
迷いや諦めのため息ではなく、決意のため息だった。
「だから、僕は遺跡の謎を探りたい。母さんが好きだった紋様を探したい」
星を見つめるセスの瞳に決心を見とめて、ダクトのまなじりが下がる。
満足そうにうなずくと、
「きっと母さんも喜ぶ」
と、つぶやいた。
杯のビールを飲み干し、息子とともに夜空を見上げる。
中庭のどこかでコオロギが鳴いていた。
昼間の騒動を思い出し、思わず身震いする。
息子を失うなど考えられない。
もうすでに、愛妻キラを失った。
失えば二度と戻らない。耐えられるかわからない。
『今ここでわが子を失えば、これまで情熱を傾けてきた仕事を、きみは憎むようになるだろう。同じ自分ではいられなくなる。同じ場所に立てなくなる。それでもいいのか? 失えば二度と戻らない。耐えられるか?』
あの檄がなければ、息子を失っていたかもしれない──。
セスの頭がダクトの肩に触れた。
脱力しきった身体が体重を乗せてくる。
見下ろすより早く、心地よさげな寝息が聞こえてきた。
ダクトは微笑み、セスの頬をそっと撫でる。
オリオンの三ツ星だけが、静かに瞬いていた。




