第54話 伝説のオシリオン
──滝があるのだろうか。
流れ落ちる水の音が、絶え間なく響いている。
まぶたが重い。
冷たい滴が頬にぽたりと落ちてきて、セスはやっと目を開けた。
ぼやけた薄闇の視界に、幾筋もの光線がきらめいている。
そっとまばたきをくり返す。
きらめく光は、視界の右端から降り注いでいた。
ゆっくり顔を傾けると、崩れた天井が見えた。
裂け目からわずかに青空が見える。
(きれいだ……)
ばちゃばちゃと水の跳ねる音がした。
次の瞬間、シェムウの顔がセスの視界に飛び込んだ。
「生きてるぞ! よかったよかった!」
続いて四つの顔が現れた。
石工の先輩や鉱夫のおじさんが、セスを見下ろしている。
どの顔も水で濡れそぼり、肌に髪が貼りついていた。
「セス、大丈夫か?!」
「痛いところはないか?」
「気分はどうだ? 吐き気は?」
耳鳴りがするほどの大声だ。
セスは、ゆっくり首を横に振った。
水を鼻から吸い込んだせいで、喉の奥がひりついている。
おそるおそる身体を動かしてみたが、どこにも痛みはなかった。
つま先に、ひたひたと寄せる冷たい水を感じる。
セスが身体を起こそうとすると、いくつもの手が伸びてきた。
岩肌を背に座り、ひとつ息を吐く。
目の前には、セスを呑み込んだ巨大な水のたまりがあった。
あきらかに自然にできた帯水層ではない。
周囲は巨石の石積みで囲まれている。
かなりの高さだ。
ここは、建築物の内部に違いなかった。
水面は地震の余波か、まだ揺れていた。
濁り水ではなさそうだ。
水深の浅い部分に敷き詰められた岩石が透けて見えている。
「……ここは?」
さっきまで横穴にいたはずだ。
なぜ、石造物の中にいるのだろう。
地震、崩落、落水──と衝撃が重なって、セスは考えがまとまらない。
「どうして……こんな所に?」
「あそこから落ちたんだよ」
石工の先輩が、天井の一画を指し示した。
その方向を、誰もが一斉に振り仰ぐ。
目を凝らしてみると、王肘尺で九つ分(約5m)ほどの高さに、ぽっかりと穴が開いているのが見えた。
ぱらぱらと小石が落ちてきては、水面に吸い込まれていく。
「あそこから……?」
「ああ、そうだ」
シェムウ監督官がうなずく。
「あの地震で生き埋めになるかと思ったが、横穴の天井は無事だった。だが、粉塵のなかで点呼をとってみると、セスくんだけ返事がない。血の気が引いたよ」
地震で花崗岩と石灰岩の壁がずれ、その隙間からセスは落ちたのだ。
「穴に気づいて覗いてみると、水がはねる音がした」
「それで、みんなは……」
「お前を助けるために飛び降りたんだよ」
石工の先輩が言う。
「シェムウ監督官が真っ先に飛び込んだ。石工仲間の俺たちより先にだ」
「ほら見ろ。頭頂部はもう隠しようがない」
確かに、シェムウが頭に巻いていた布はもうない。
ざんばら髪が滑稽だったが、セスは笑う気にはなれなかった。
「大事な部下だ。二度と失うわけにはいかん」
シェムウが寂しそうに笑った。
あの鉱夫に対する後悔の念が、まだ心を苦しめているようだ。
石工の先輩たちが、シェムウの肩を慰めるように叩く。
「立てるか?」
鉱夫のおじさんが訊いた。
うなずいて、セスはゆっくりと立ち上がる。
少しめまいがしたが、身体に異常はなさそうだ。
「ほかの人たちは?」
セスが頭上を見ながら訊いた。
「心配しなくていい。現場は、副監督官に任せてある」
シェムウが答えた。
「まずは地上に戻ろう。余震があるかもしれない」
「それにしても──」
頬に貼りついた髪をかき上げながら、石工の先輩が言う。
「こりゃ貯水槽か? かなりの水深があったぞ」
セスの意識が戻ったことで、全員の関心が周囲に向いた。
砂漠地帯の地下層に、これだけの水資源があるとは驚きだ。
あれだけの高さから人が落下しても水底にぶつかることがなかった。
いったい、どれほどの水量があるのだろう。
「こんな地下に石積みの壁があるとは……」
「しかも巨石を垂直に積んでいる。人間技じゃないぞ」
「こりゃ大発見だ。ぜひ学ばせてもらいたい」
石工の先輩が天井を指差す。
「今は天井が崩落して視界が効くが、もとは真っ暗だったはず」
信じられないと言うように首を振る。
「石ランプの灯りじゃ、これほどの工事は無理だ」
熱心な観察ぶりである。
シェムウが苦笑した。
「専門家のきみ達には気になるところだろうが、まずはここから脱出しよう。出口を探すんだ。水はあるが食料がない。日が暮れる前に何とかしないと」
確かにそうだ。
「まずは、この壁を越えてみよう。ここにいても埒が明かない」
セスたちがいる場所は、すり鉢状に窪んでいる。
よく見ると、積まれた壁の石材にはわずかな出っ張りがあった。
足場として十分使えそうだ。
「私がいく。岩登りは得意だからな」
身軽なシェムウ監督官は、猿のようにするすると昇っていく。
あっという間に上部に達した。
ひょいと立ち上がったシェムウは──、なぜかそのまま動かない。
「親方! どうしましたぁ?」
鉱夫のおじさんが、壁の下から呼びかける。
だが、シェムウは固まったままだ。
「どうしたんですか?!」
再び呼びかけて、やっとふり向いた。
その顔には、驚愕とも畏怖ともつかない色が浮かんでいる。
「……来てくれ」
「はい?」
「みんな、来てくれ!」
焦りが伝わってきた。
いったい何が見えたんだ?
セスたちは次々に石壁を上った。
昇りきったところは高台になっていた。
見下ろした先に広がっていたのは──巨石の回廊である。
その先に陽光にきらめく水──聖池と思しき水面が広がっていた。
八本の巨大な白い柱が水の中に立っている。
回廊の周りには浅い水路が張り巡らされていた。
水底が透けて見えるほど、清らかな水をたたえている。
穏やかな流れは、迷いなく聖池へとつながっていた。
「行こう」
シェムウに促され、セスは我に返った。
足元の高台は聖池の縁であり、人が並んで歩けるほどの幅があった。
シェムウを先頭に、五人は回廊へと歩く。
「すごいな……」
ため息とともに、誰かがつぶやいた。
ナイル川から引き込んだ水ではなく、どうやら湧き水らしい。
聖池の三方には石積みの階段があった。
水辺へと降りるのに使うのだろう。
聖池の奥に祭壇のようなものはなく、代わりに洞窟らしきものがぼんやりと見えた。その先にどうやら滝があるらしい。
セスの耳に終始聴こえていた滝の音は、そこから反響していた。
「これは神殿か?」
「神殿にしては殺風景だ」
「確かに。なんの装飾もないな」
「いや、これを見てくれ」
シェムウが立ち止まり、階段の脇にある柱を指差した。
紋様のようなものが記されている。
同じ大きさの円が、幾重にも重ねられた紋様だ。等しい半径を持つ複数の円が、中心から外側へと広がっていて、まるで花びらのようにも見える。
ふと、セスの脳裏に母キラの面影が浮かんだ。
砂地に書いてくれた紋様。
幼かったセスとルカに、よく話してくれた物語。
宇宙の秩序を象徴する幾何学模様。
この紋様が表すものは──
セスが感嘆の声を上げた。
「オシリオン」
きょとんとする石工の先輩たち。
「これ、オシリオンの印だよ!」
鉱夫のおじさんが、いやいやいやと手を振った。
兵舎での共同生活を経て、冶金師のおじさんの口癖がすっかり身についたらしい。
「あの『聖なるオシリオンの水』は、ただの伝説だぞ」
「だけど、この紋様──」
「おーい!」
突然、シェムウが叫んだ。
五人はぎょっとしてふり返る。
青空を仰ぎ見ながら、シェムウは両手を口に添えた。
「おーい!」
しばらく沈黙が続いた。
「……やっぱり返事はないな。仕方ない。出口を探そう」
「そうだな。謎解きは生還してからだ」
シェムウを先頭に、一行は出口を求めて歩き出した。
滝の音が、不気味な低さで響いている。
聖池の奥の闇は、まるで何かを隠しているかのようだ。
この遺跡はオシリオンの伝説と関係があるはず──そんな気がした。




