第53話 思わぬ転落
ホル・エム・アケトの現場には、大勢が集まっていた。
第二班を監督するシェムウは、注意喚起を怠らない。
「油断するなよ! お互いに確認し合うんだ!」
空洞に入っていくのは、セスである。
今日で二度目だ。
杭でしっかり固定した縄梯子を、ゆっくりと降りていく。
下では、シェムウ監督官や石工の先輩たちが待ち構えていた。
「焦らなくていいぞ。滑りやすいからな」
「はい!」
頭上の陽光が弱まるにつれ、空気も冷えてくる。
足を踏み外さないように、そろそろと降りた。
今日は命綱を付けていない。
そのせいか、どうもへっぴり腰だ。
体重をかけるたび、縄梯子はからかうように右に左に揺れる。
サンダルのつま先が平面に触れたとき、心底ほっとした。
「来たな」
石工の先輩たちは笑顔で迎えつつも、
「本当にやるのか? 空気も悪いし、大変な作業だぞ」
と、心配そうだ。
「なあに、大丈夫」
シェムウ監督官が、セスの肩を抱く。
「セスくんには、みんなの作業を後ろから見てもらう。切り出した岩を運び出す仕事を任せた。将来を担う若者だ。見せて学ばせてやらないと」
地下の作業に加わりたいとシェムウ監督官に伝えたとき、セスは断られるかもしれないと半ば諦めていた。
石の切り出しは見よう見まねで、それほど経験もない。
熱意があろうと、足手まといであることは否めなかった。
それでも現場が見たい。経験を積んでみたい。
シェムウは少しためらった後、意外にも承諾してくれた。
真摯な思いが伝わったのかもしれないし、
『きみは好きな班を選んでいい。そういう事になっている』
セスの意思で作業に加われるよう便宜を図ってくれた、謎の人物のお陰かもしれない。
空洞の底にいるのは、セスを含めて十五人だった。
拡張しているとはいえ、さすがに窮屈である。
しかも薄暗い。
「石ランプを点けるぞ」
誰かが言った。
かちかちと火打石が鳴り、青白い炎が浮かび上がる。
鼻をつく生臭さは、牛の骨髄が燃えるせいだ。
十個の石ランプに火を灯す。
周囲がぼわっと明るくなった。
「さあ、行こう」
先頭を行くのは、シェムウ監督官だ。
続いて、新しく副監督官に任命された測量士のおじさん、鉱夫のおじさん達、石工の先輩たち、そして片手に石ランプを、もう片手で小型の引き車をけん引しながらセスが大人たちの背中を追う。
ざくざくと音をたて、サンダルが粗い石灰岩の地面を踏みしめる。
かちゃかちゃと工具が腰で鳴る。
男たちは無言で進んだ。
前傾姿勢で歩き続けるのは、思いのほか腰にくる。
北西の方向へと伸びる横穴に、石ランプの灯りが伸びていた。
男たちの影がゆらゆらと揺れている。
「かなり広くなってる」
セスが周囲を見回しながら、思わずつぶやいた。
ハピ祭りの前、この横穴に一人で入った時は、小柄なセスでさえ四つん這いでなければ進めなかったのに、今や大人が屈んで歩けるほどの高さにまで掘削されている。かなり可動域が広がっていた。
「この先は、相変わらずの狭さだぞ」
石工の先輩が言う。
しばらく歩くと、横穴は不意に右へと曲がった。
セスの足が止まる。
空間に、どこか既視感があった。
前方の壁に、石ランプの灯をかざす。
石の色がそこだけ違う。
どうやらこの地点が、前にセスが引き返した場所のようだ。
削り取られた灰色の壁。
そこに、黒雲母の粒子がきらめく岩肌が覗いている。
指を伸ばし、触れてみた。
風化した石灰岩のざらつきではなく、砥石で磨いたような滑らかさがある。
これは──
「花崗岩だ」
ふり返っていた石工の先輩が、セスに言った。
「行き止まりの壁を削ったら、奥に花崗岩のでかい岩板が出てきた。先に空洞があるようなんだが、蓋のように通せんぼしてやがる」
(蓋のように……?)
第一の塔で見た光景を思い出す。
盗賊が掘ったあの密道にも、おそろしく巨大な赤色花崗岩が立ちはだかり、蓋のように行く手を阻んでいた。
(まるで同じだ)
セスの背中がぞくりと寒くなった。
周囲を見回す。
誰かによって掘られたかのような地下道。
立ちはだかる花崗岩。
この横穴も、第一の塔と関係があるのだろうか──。
「花崗岩は硬すぎるからな。削るとしても時間がかかる」
石工の先輩が、東の方角をあごでしゃくった。
「そこで迂回路を掘ってるんだ。現場はすぐその先だよ」
ついていくと、ほんの数歩でその現場に到着した。
背中合わせに立って、二人がやっと並べるほどの狭さだ。
先頭からシェムウの声が聞こえた。
「それじゃあ、始めてくれ!」
「次の班と交代する前に、さっさと掘っちまおう」
「石ランプを、こっちに頼む」
「わかった!」
大人たちが作業の準備に取り掛かる。
すぐさま、耳をつんざくほどの作業音が反響しはじめた。
鉱夫たちは、岩肌を工具で叩いて岩盤の強さを確認する。
石工たちは、確認済みの岩盤を石斧やノミを使って砕いていく。
切り出された石灰岩の山が、次々にできあがる。
セスは欠片をかき集め、引き車に乗せると横穴を引き返した。
空洞の入口に向かう。
鉱夫らしい作業員が待っていた。初めて見る顔だ。
ついさっき降りて来た縄梯子の横に、大きな桶が垂れている。
「お疲れさん。さあ、こいつに乗せよう」
切り出された岩石は、桶で地上へと運ばれていく。
空っぽになった引き車を引いて、セスはまた横穴へと入った。
カンカンカン、と掘削音がこだましている。
甲高い金属の音がセスの耳に刺さる。
セスの掲げる石ランプの光が、あの花崗岩の岩肌を照らした。
(そういえば──)
セスが一人で横穴を探索したあの日、後ずさりしかけた瞬間、湿った風が頬を撫でたことを思い出した。
(どこかに隙間があるはず)
引き車から手を離し、セスは屈んだ。
風の吹き出し口は、花崗岩と石灰岩の間にあるのかもしれない。
鉱夫のおじさん達が見逃している可能性もある。
石ランプを地面に置き、手を伸ばした。
その時──
ぐらりと足元が揺れた。
めまいを起こした時のように、平衡感覚が狂う。
思わずその場に尻もちをついた。
「地震だ!」
誰かが叫んだ。
(じ、地震?!)
また、ぐわりと揺れが来た。
「出ろ!」
「急げ!」
石ランプの光が交差する。
どこか下の方で、ガラガラと岩が崩れる音がした。
「逃げろ!」
「入り口まで戻れ!」
立ち上がろうとしたセスの足が、ふわりと浮く。
足元が崩れた。
「うわっ!」
「来るな! 崩落だ!」
叫び声が、頭上へと遠ざかっていく。
セスの耳に自分の悲鳴と風の音が突き刺さった。
次の瞬間、全身に冷たい衝撃を感じた。
衝撃のせいより驚きのせいで息が止まりそうになった。
叫んでいた口から冷たいものが一気になだれ込む。
鼻の奥にキーンと痛みが走り、水面に落下したのだと気づいた。
身体が沈んでいく。
光のない水はどこまでも黒く、地震のせいか激しく揺れていた。
揺れる水は水流を作り、セスの身体を翻弄する。
耳の奥で、ぼうっと音が鳴っている。
(死ぬのか?)
閉じたまぶたに家族の顔が浮かんだ。
(死んでたまるか!)
セスはもがいた。
がむしゃらに手足をばたつかせた。
上も下もわからない。
渦巻く水流が、セスの自由を奪っていく。
(落ちつけ!)
水の流れに身を任せ、手足をゆっくり動かしてみた。
次第に身体が浮遊していく。
息が苦しい。
早く──早く水面に──!
水面を破った瞬間、セスは水を吐き出した。
激しく咳き込み、また水を呑み込んでしまう。
ぼやけた視界に、天井から落ちる光が見えた。
その光に向かってセスは泳ぐ。
水面の揺れは収まりかけていた。
つま先が何か固いものに触れ、もがいていると両足が着いた。
岩の上だった。よろよろと立ち上がる。
(助かった……)
喉と鼻の奥がひりひりと痛む。
激しく咳き込んだ。息ができない。
発作に苦しんでいた弟の面影が浮かんだ。
(ルカは、こんな苦しみに耐えていたのか)
それでも生きている──。
そう思った瞬間、セスは意識を失った。




