第52話 過去のしがらみ
翌朝、二日ぶりに早起きをしたセスが、寝ぼけまなこでホル・エム・アケトの空洞をシェムウ監督官と見下ろしていた頃──。
ムトはルカをつれてピラミッドタウンの南通りを歩いていた。
クヌムと待ち合わせているのは、護符を売る屋台だ。
以前、ルカに留守番をさせて食材の買い物に出たとき、ばったりクヌムと出会ったことがある。あいさつだけで別れるつもりが、彼はムトの後をついてきた。
にぎわう通りを歩きながら『好みの色は?』『好物は何だ?』と、クヌムはあれこれ訊いてくる。「ついてこないで」といくら言っても、意に介さない。閉口しているうちに護符の屋台の前を通りかかった。
店番をしていた老婆が「お二人さん」と声をかけてきたのは、その時である。
「これは珍しい相性だ。おもしろい」
その言葉にクヌムが乗らないわけがない。
「そうか? どんな相性と見る?」
老婆は「そうさねぇ」と目を開けたり閉じたりした。
「ありえるはずのなかった縁とでも言えようか」
そして、クヌムを指差した。
「お前さんには大きな試練がある。望まぬ人生のかたちに抗してもいる。それでいて責任感は強く、逃げることを忌み嫌う。厄介なお人のようだ」
折れ曲がった枯れ枝のような指が、今度はムトを指す。
「お前さんには形がない。いかようにも変われるが、その力がない。過去のしがらみに捕らわれておるようじゃ。それでいて光を持っておる。人を引き寄せる光が」
木枯らしのような声で、ひゃひゃっと笑う。
「この若者も引き寄せられたようじゃの」
その直後、セスの大声が響いた。
「姉さん!」
はっとして顔を上げると、手を振りながらセスが駆けてくる。
(彼といるところを見られるなんて!)
慌てて振り向くと、そこに──クヌムの姿はなかった。
きょろきょろと周囲を見まわすが、影もない。
「夕食の買い出し?」
駆けてきたセスが訊く。
「え? ……そ、そうよ」
セスはクヌムに気づかなかったようだ。
それにしても、なぜ消えたのか。
彼も、二人でいるところを見られたくなかったのか──。
(待ち合わせるなら、別の場所にすればよかった)
ルカの歩調に合わせて歩きながら、ムトは後悔していた。
(あのお婆さんに、また変なことを言われてしまうかも)
だが、その後悔は懸念に終わった。
屋台が見えるより先に、
「来たか」
クヌムが足早に近づいてきたのである。
「あ、クヌム!」
ルカは嬉しそうに叫んだが、その声に張りはない。
南通りまでのわずかな距離で、かなり足にきているようだ。
気が緩んだのか、ルカがよろけた。
ムトが慌てて細い弟の腕をとり、支える。
「大丈夫?」
ルカは力なくうなずいた。
「少し休みたい」
ムトは周囲を見回した。
日干しレンガの建物が立ち並ぶ南通りには、日差しをさける場所がない。
ピラミッドタウンは国家事業のための労働者都市だ。
一般の旅人が立ち入る場所ではない。
そのため宿屋もなければ休憩所もない。
クヌムがいなければ、道端にしゃがみ込むところなのだが──。
すっ、とクヌムが近づいた。
一陣の風のように流れのある動きで、ルカをひょいと抱きかかえる。
「うわっ」
ルカが驚きとも歓声ともとれる声を上げた。
あっという間に、ルカはクヌムの背中にいた。
居心地よく収まっている。
「クヌム、すごい!」
ムトも驚いた。
女楽師に見まがうほど華奢な体格のどこに、そんな力があるのか。
父ダクトがそうしたように、軽々とルカを背負っている。
ムトは唖然として、クヌムの横顔を見つめた。
「気分はどうだ? 苦しいか?」
クヌムはわずかに首を傾げ、背中のルカに訊く。
「平気だよ。ちょっと疲れただけだから。久しぶりだね、クヌム」
「ああ。今日はゆっくり話せそうだ」
クヌムが歩き出す。
護符の屋台から遠ざかるのに気づいて、ルカが慌てた。
クヌムの肩をぽんぽんと叩きながら、
「クヌム、そっちじゃないよ。お守りを買いに行くんだ。逆方向だよ」
クヌムが、ちらりとムトを見た。
視線をそらすムト。
「あとにしよう。まずはオシリス神殿で参拝だ」
「神殿に行くの?」
「そうだ。久しぶりだろう?」
「うん! やったぁ!」
──その感激が、やがて恨み節に変わる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
オシリス神殿の聖池の脇には、神官たちの管理棟があった。
日干しレンガの壁は、午後の陽ざしで白く輝いている。
ルカは奥の部屋で医師の診断を受けていた。
空の青さを吸い込んだかのような聖池には、蓮花が浮かんでいる。
風に揺れる純白の花びらを、ムトはぼんやり眺めていた。
クヌムは、少し離れた列柱にもたれてムトを見ている。
彼女の横顔にある「訝しさ」の色を、彼は敏感に感じ取っていた。
風の音が聞こえる。
それほど、静かだった。
やがて、クヌムが低い声で言った。
「心配するな。あの医者の腕は確かだ」
振り向きもせず、ムトは首を振った。
「心配なんてしていません」
クヌムは眉をひそめた。
「では、なぜ浮かない顔をする」
また、沈黙が訪れた。
クヌムもムトも動かない──。
神殿のどこかから祈りの声が響いていた。
薄情に思えるほど、辺りは平和だった。
南から吹く風が、聖池の水面に薄い波を立てていく。
クヌムは黙っている。
ムトの心に、さざ波が立つ。
「なぜ、私たちに構うんです?」
ムトの言葉に、クヌムが苦笑する。
「まるで出会った頃のように、よそよそしい口調だ」
「答えてください。なぜなんです?」
クヌムの足音が聞こえた。
ムトの背後に立つ。
「何度も言ったはずだ」
ムトはふり向いた。
憂いをたたえた褐色の瞳が、意味をもってムトを見つめている。
「ご存じないのでしょうが、私は一度嫁いだ身です」
自分の唇がわずかに震えているのを、ムトは感じていた。
クヌムの三白眼に変化はない。
「十三で嫁ぎ、十五で夫から離縁されました。私はあなたが思うような無垢な娘ではありません」
「私には妻子がいる」
クヌムが吐きだすように言った。
(妻子がいる……。妻子……?)
「私も隠しはしない。十七になった年に、私は父の妻だった人を娶っている。三つ年上の彼女は、父との間に子をなし、その子は今年六歳になる」
「それって──」
「古来よりの習わしだ。したがって、私が選んだ婚姻ではない。私もきみのように過去のしがらみに捕らわれている」
息すら飲み込むことを忘れたムトに、クヌムはさらに言葉を重ねる。
「亡き父の愛妻だった彼女に触れたことはない。触れるつもりもない。彼女との結婚は形式的なものだ。互いに情けはあれど愛はない」
「……あなたは本当に楽師なの?」
ムトがささやくように訊いた。
神官たちの祈りの声が再びこだまする。
ほのかに香の匂いが漂っていた。
祈りの声は、途切れることなく続く。
わだかまりを吐き出せと急き立てるかのように──。
「あなたに対するお医者さまの態度は、まるで……」
そのとき、クヌムの肩越しに医者が見えた。
ルカの診察を終えて管理棟から出てきたのだ。
ムトが弾かれたように駆けよった。
「どうでしょう。弟の具合は……」
医者は、ムトの背後にいるクヌムをちらりと見た。
わずかにうなずき、心得たとばかりに視線をムトに移す。
「よい薬がある。咳は収まるだろう。ただ──」
医者は口ごもった。
困り顔で、ムトとクヌムと青空に視線を泳がせる。
「正直に話してもらえますか。隠す必要はありません」
ムトの背後からクヌムの声がした。
うなずいた医者は、こほんと咳をして続けた。
「治療はできても完治は難しい。あの子の病状はかなり進行している。薬で苦痛を和らげることしかできないでしょう。……余命は半年あるかどうか」
かすれた笛のような悲鳴をあげ、ムトは両手で顔を覆った。




