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セスの刻紋 ── ピラミッドに落書きした少年 ──  作者: 鬼丸 千
第9章 突破口を探して

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第52話 過去のしがらみ

 翌朝、二日ぶりに早起きをしたセスが、寝ぼけまなこでホル・エム・アケトの空洞をシェムウ監督官と見下ろしていた頃──。


 ムトはルカをつれてピラミッドタウンの南通りを歩いていた。

 クヌムと待ち合わせているのは、護符を売る屋台だ。


 以前、ルカに留守番をさせて食材の買い物に出たとき、ばったりクヌムと出会ったことがある。あいさつだけで別れるつもりが、彼はムトの後をついてきた。

 

 にぎわう通りを歩きながら『好みの色は?』『好物は何だ?』と、クヌムはあれこれ訊いてくる。「ついてこないで」といくら言っても、意に介さない。閉口しているうちに護符の屋台の前を通りかかった。


 店番をしていた老婆が「お二人さん」と声をかけてきたのは、その時である。


「これは珍しい相性だ。おもしろい」


 その言葉にクヌムが乗らないわけがない。

 

「そうか? どんな相性と見る?」


 老婆は「そうさねぇ」と目を開けたり閉じたりした。


「ありえるはずのなかった縁とでも言えようか」


 そして、クヌムを指差した。


「お前さんには大きな試練がある。望まぬ人生のかたちに抗してもいる。それでいて責任感は強く、逃げることを忌み嫌う。厄介なお人のようだ」


 折れ曲がった枯れ枝のような指が、今度はムトを指す。


「お前さんには形がない。いかようにも変われるが、その力がない。過去のしがらみに捕らわれておるようじゃ。それでいて光を持っておる。人を引き寄せる光が」


 木枯らしのような声で、ひゃひゃっと笑う。


「この若者も引き寄せられたようじゃの」


 その直後、セスの大声が響いた。


「姉さん!」


 はっとして顔を上げると、手を振りながらセスが駆けてくる。


(彼といるところを見られるなんて!)


 慌てて振り向くと、そこに──クヌムの姿はなかった。

 きょろきょろと周囲を見まわすが、影もない。


「夕食の買い出し?」

 

 駆けてきたセスが訊く。


「え? ……そ、そうよ」


 セスはクヌムに気づかなかったようだ。

 それにしても、なぜ消えたのか。

 彼も、二人でいるところを見られたくなかったのか──。


(待ち合わせるなら、別の場所にすればよかった)


 ルカの歩調に合わせて歩きながら、ムトは後悔していた。


(あのお婆さんに、また変なことを言われてしまうかも)

 

 だが、その後悔は懸念に終わった。

 屋台が見えるより先に、


「来たか」


 クヌムが足早に近づいてきたのである。


「あ、クヌム!」


 ルカは嬉しそうに叫んだが、その声に張りはない。

 南通りまでのわずかな距離で、かなり足にきているようだ。

 気が緩んだのか、ルカがよろけた。

 ムトが慌てて細い弟の腕をとり、支える。


「大丈夫?」


 ルカは力なくうなずいた。


「少し休みたい」


 ムトは周囲を見回した。

 日干しレンガの建物が立ち並ぶ南通りには、日差しをさける場所がない。


 ピラミッドタウンは国家事業のための労働者都市だ。

 一般の旅人が立ち入る場所ではない。

 そのため宿屋もなければ休憩所もない。

 クヌムがいなければ、道端にしゃがみ込むところなのだが──。


 すっ、とクヌムが近づいた。

 一陣の風のように流れのある動きで、ルカをひょいと抱きかかえる。


「うわっ」


 ルカが驚きとも歓声ともとれる声を上げた。

 あっという間に、ルカはクヌムの背中にいた。

 居心地よく収まっている。


「クヌム、すごい!」


 ムトも驚いた。

 女楽師に見まがうほど華奢な体格のどこに、そんな力があるのか。

 父ダクトがそうしたように、軽々とルカを背負っている。

 ムトは唖然として、クヌムの横顔を見つめた。


「気分はどうだ? 苦しいか?」


 クヌムはわずかに首を傾げ、背中のルカに訊く。


「平気だよ。ちょっと疲れただけだから。久しぶりだね、クヌム」

「ああ。今日はゆっくり話せそうだ」


 クヌムが歩き出す。

 護符の屋台から遠ざかるのに気づいて、ルカが慌てた。

 クヌムの肩をぽんぽんと叩きながら、 


「クヌム、そっちじゃないよ。お守りを買いに行くんだ。逆方向だよ」


 クヌムが、ちらりとムトを見た。

 視線をそらすムト。


「あとにしよう。まずはオシリス神殿で参拝だ」

「神殿に行くの?」

「そうだ。久しぶりだろう?」

「うん! やったぁ!」


 ──その感激が、やがて恨み節に変わる。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 オシリス神殿の聖池の脇には、神官たちの管理棟があった。

 日干しレンガの壁は、午後の陽ざしで白く輝いている。


 ルカは奥の部屋で医師の診断を受けていた。


 空の青さを吸い込んだかのような聖池には、蓮花が浮かんでいる。

 風に揺れる純白の花びらを、ムトはぼんやり眺めていた。


 クヌムは、少し離れた列柱にもたれてムトを見ている。

 彼女の横顔にある「訝《いぶか》しさ」の色を、彼は敏感に感じ取っていた。 

 

 風の音が聞こえる。

 それほど、静かだった。


 やがて、クヌムが低い声で言った。


「心配するな。あの医者の腕は確かだ」


 振り向きもせず、ムトは首を振った。


「心配なんてしていません」


 クヌムは眉をひそめた。


「では、なぜ浮かない顔をする」


 また、沈黙が訪れた。

 クヌムもムトも動かない──。

 神殿のどこかから祈りの声が響いていた。

 

 薄情に思えるほど、辺りは平和だった。

 南から吹く風が、聖池の水面に薄い波を立てていく。

 クヌムは黙っている。

 ムトの心に、さざ波が立つ。


「なぜ、私たちに構うんです?」


 ムトの言葉に、クヌムが苦笑する。


「まるで出会った頃のように、よそよそしい口調だ」

「答えてください。なぜなんです?」


 クヌムの足音が聞こえた。

 ムトの背後に立つ。


「何度も言ったはずだ」


 ムトはふり向いた。

 憂いをたたえた褐色の瞳が、意味をもってムトを見つめている。


「ご存じないのでしょうが、私は一度嫁いだ身です」


 自分の唇がわずかに震えているのを、ムトは感じていた。

 クヌムの三白眼に変化はない。


「十三で嫁ぎ、十五で夫から離縁されました。私はあなたが思うような無垢な娘ではありません」

「私には妻子がいる」


 クヌムが吐きだすように言った。


(妻子がいる……。妻子……?)


「私も隠しはしない。十七になった年に、私は父の妻だった人を娶っている。三つ年上の彼女は、父との間に子をなし、その子は今年六歳になる」

「それって──」

「古来よりの習わしだ。したがって、私が選んだ婚姻ではない。私もきみのように過去のしがらみに捕らわれている」


 息すら飲み込むことを忘れたムトに、クヌムはさらに言葉を重ねる。

  

「亡き父の愛妻だった彼女に触れたことはない。触れるつもりもない。彼女との結婚は形式的なものだ。互いに情けはあれど愛はない」


「……あなたは本当に楽師なの?」


 ムトがささやくように訊いた。


 神官たちの祈りの声が再びこだまする。

 ほのかに香の匂いが漂っていた。

 祈りの声は、途切れることなく続く。

 わだかまりを吐き出せと急き立てるかのように──。


「あなたに対するお医者さまの態度は、まるで……」


 そのとき、クヌムの肩越しに医者が見えた。

 ルカの診察を終えて管理棟から出てきたのだ。


 ムトが弾かれたように駆けよった。


「どうでしょう。弟の具合は……」


 医者は、ムトの背後にいるクヌムをちらりと見た。

 わずかにうなずき、心得たとばかりに視線をムトに移す。


「よい薬がある。咳は収まるだろう。ただ──」


 医者は口ごもった。

 困り顔で、ムトとクヌムと青空に視線を泳がせる。


「正直に話してもらえますか。隠す必要はありません」


 ムトの背後からクヌムの声がした。

 うなずいた医者は、こほんと咳をして続けた。


「治療はできても完治は難しい。あの子の病状はかなり進行している。薬で苦痛を和らげることしかできないでしょう。……余命は半年あるかどうか」


 かすれた笛のような悲鳴をあげ、ムトは両手で顔を覆った。


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