第49話 ムトのハピ祭り
家族四人でハピ祭りの夜を楽しんだ翌日。
ムトはルカに頼まれ、オシリス神殿へと向かっていた。
「お兄ちゃんがくれた木製パレットを神殿に忘れてきちゃったんだ。僕はこんな体調だし、姉さんが取りに行ってくれない?」
昨日、ルカが深刻な顔でそう言った。
「失くしたと知ったら、お兄ちゃんが怒るかも」
両手をこすり合わせて、すがるような目をする。
オシリス神殿なら、さほど遠くもない。
買い物ついでに足を延ばせば、済むことだ。
置き忘れた場所が神殿なら、今頃あの木製パレットは供物の一部と勘違いされて誰かに持ち去られたか、焚火の薪にされてしまったかもしれない。
そうであれば、セスに頼んでまた作ってもらえばいい。
葦で編んだ籠を手に、オシリス神殿の参道を歩く。
ハピ祭りは三日にわたって行われる。
そのせいか、今日はあまり参拝する人々の姿もない。
天高くそびえる塔門が近づいた。
本殿の入り口には、美しいレリーフが刻まれている。
塔門の奥は吹き抜けの中庭だ。
見上げれば、青い空が広がっていた。
聖域と俗世を隔てる空間には、静寂しかない。
列柱室は、ルカのお気に入りの場所だ。
柱に刻まれたレリーフを、いつもルカは飽きることなく眺める。
ムトは、今日も手製のパンを持ってきていた。
籠から取り出し、供物台にそっと置く。
(どうか、ルカが元気になりますように……)
目を閉じ、冥界の神オシリスに祈った。
あの子をお召しにならないでください──と。
「久しぶりに会えた」
思いがけない近さから声が聞こえた。
はっとして目を開けた。声の主はわかっている。
いつの間にか音もなく背後に立っている。
ふり返ると、その人が見下ろしていた。
吸い込まれそうな褐色の瞳に、またどきりと胸が鳴る。
ムトは慌てて視線をそらした。
つややかな黒髪を束ねた長身の若者は、いつも弦楽器を背負っている。
ルカが友だちと呼んでいる楽師のクヌムだ。
立ち去ろうとして、はたとルカの言葉を思い出した。
『クヌムに聞いてみて。僕の木製パレットを見たことがあるから』
歩きかけた足が止まる。
立ち止まり、ゆるやかな勾配の石畳を所在なく見つめた。
「どうした?」
顔を上げると、クヌムが首をかしげて見つめている。
三白眼の瞳に冷ややかさをたたえながら、ときおり彼はこんな風にあどけない子どものような仕草を見せる。そのアンバランスさが、ムトの心をざわつかせる。
彼と出会ったのは、このオシリス神殿だった。
レリーフの文字を端から端まで模写していたルカを、不審に思った神官の一人が「お前の名前は? 許可は得たのか?」と厳しい口調で詰め寄ってきたとき、間に入ってくれたのが、彼だった。
──いや、最初は彼女だと思っていた。
神殿の中庭で弦楽器を演奏している姿を何度か見かけた。
美しい音色に心が洗われた。
何度か目が合ったこともある。
心が通じるような気がして、そのたびムトは笑顔で返した。
子どものルカにまで容赦なく詰め寄る神官に「私が許可を出したのです」と彼が歩みよったとき、その低い声を聞いてはじめて、ムトは勘違いに気が付いた。
それからは、彼と目が合っても笑顔を返さなくなった。
だが──
何度も顔を合わせるうちに、クヌムの態度が変わっていった。
よそよそしかった視線が優しさを帯びてきた。
そして、増水期に入る前の春の日、「好きだ」と言われた。
心惹かれてはいけない。
油断してはいけない。
期待を裏切られることほど、絶望を感じることはない。
クヌムに声をかけられるたび、避けてきたのだが──
「相変わらず、そのような目で見る」
クヌムが苦笑した。
「声をかけただけだ。睨まずとも──」
「ルカの木製パレットを見ませんでした?」
ムトは構わず聞いた。
こうなったら用件を済ませてしまう方がいい。
「木製パレット?」
「ルカが使っているのを見たことがあるでしょう?」
そう問われたクヌムは、柔らかく弧を描く眉をひそめる。
「それなら、セスに渡した」
「え?」
「作業場で会ったのだ。ルカに返すよう伝えたのだが?」
「……セスに?」
ムトはわけがわからない。
「でも、ルカは何も言わなかったわ」
「セスが渡し忘れたか、兵舎に置いて帰ったか……。しようのない奴だ」
強い言葉を使っても、クヌムの物腰にはどこか気品を感じさせるものがある。異国の雰囲気がただようせいか、中性的な美しさが際立つせいか──。
「帰って聞いてみるわ」
ムトが踵を返そうとすると、
「待ってくれ」
慌てたようにクヌムが言った。
「さっきは祈りの邪魔をしてしまった。続きを」
ムトは首を振る。
「いいのよ。祈りなら済んだわ」
「何を祈った?」
「……あなたには関係ないことでしょう?」
「ルカのことか?」
どきりとした。
ルカが言っていた。
『何も言わなくても、クヌムにはお見通しなんだ』
三白眼の瞳は、心のわだかまりを容易に見抜いてしまう。
「具合でも悪いのか?」
「……」
「だから、今日はきみ一人で?」
「……薬が効かないの」
「薬?」
「咳止めの薬よ。だんだん効果が薄れてる」
「昨夜もまた発作が出たのか?」
ムトは首を振った。
「発作は三日に一度くらい」
「それでも大変だ。体力を奪われる」
ムトはうなずく。
「少し歩くだけで、かなり疲れるみたい」
「それでもルカのことだ。文字の練習は欠かさないのだろう?」
クヌムには、すべてお見通しなのだ。
ごまかす必要がないというのは、こんなに気持ちが楽になるのか。
「収穫期になれば、養成学校の入学試験がある……。あの子は何が何でも合格するんだと言って、休もうとしないの」
クヌムは、下唇にそっと人差し指をあてた。
空を仰ぐようにして、何やら考え込んでいる──。
「ここに連れてこれるか?」
クヌムが訊いた。
「ここに? ルカを?」
「そうだ」
「どうして?」
「いい医者を知っている。つれて来るのが無理であれば、家を教えてくれ」
ムトは慌てた。クヌムに家を教えるなど、とんでもない。
「治療代なんて払えないわ」
クヌムが、ムトの腕の籠を指差した。
「それを味見させてくれればいい」
ムトの籠の中には、手製のパンが入っている。
「これは……、食材と交換するためのパンだわ」
「ひとつでいい」
「でも……」
「前に会った護符の屋台で落ち合おう。明後日で大丈夫か?」
ラワシュ先生の治療では治せないことは、ムトにもわかっていた。
試験まであと三月。
もし、クヌムが紹介してくれる医者に頼れるなら──。
ムトは小さくため息をつき、形のよいパンを選んだ。
ひとつ取り出し、ためらいがちに差し出す。
「ありがとう」
クヌムの顔に花が咲く。
いかにも嬉しそうに受け取り、
「きみのパンを食べてみたいと思っていた」
そのまま、がぶりと頬張った。
「うまい」
その笑顔に、ムトの表情も思わずほころぶ。
「それに──」
クヌムが自分の耳たぶをつまんだ。
「似合っている。素敵だ」
ターコイズの耳飾りが、ムトの耳で揺れた。
彼女の胸に、ふわりと温かな風が吹く。
心惹かれてはいけない。
油断してはいけない。
期待を裏切られることほど、絶望を感じることはない。
外界を封じてきた心の扉が、温かな風に今にも開いてしまいそうで、ムトは思わず身震いした。




