第48話 セスのハピ祭り
兵舎のように、ゴーンゴーンと鐘で起こされることもない。
翌朝、セスの目覚めは穏やかだった。
快晴である。
「いってきます」
パネプと『神輿を見よう』と約束していたセスは、一人で家を出た。
暑さが苦手なルカは、ダクトとお留守番である。
通りに出ると、飾りやゴミが散らばっていた。
昨夜は遅くまで酔狂する人々の声が路地にまで響いていたが、久しぶりのわが家でぐっすり眠れた。ルカの発作も起きなかった。
「セス!」
南通りの角で、パネプが待っていた。
細身のセスと違って、パネプはずんぐりむっくりだ。
腰巻きから出ているのは、短くも筋肉質のたくましい足である。
「お供え物がそろそろ配られるみたいだよ」
「行こう!」
二人は駆けだした。
めざすは、ハピ神を祀る神殿である。
ナイル川の化身とされるハピ神は水の主だ。
すべての魚と鳥の長としても崇められている。ハピ神殿はナイル川流域に点在しているが、ピラミッドタウンの近くにも二か所あった。
パネプは昨日、一緒に神輿を見に行こうとセスを誘ったが、それはその場に双方の親がいたからである。本来の目的はそれだけではない。
祝祭では、神に捧げられた食べ物や飲み物が民衆に配られる。
普段ならめったに庶民の口に入らないようなご馳走──牛肉や羊肉の炙り、純度の高い蜂蜜やオイルをふんだんに使った料理、四十種類を超えるパン、うまくいけばワインまでご相伴にあやかれるのだ。
ハピ神殿の手前には、すでに人だかりができていた。
セスとパネプは身軽な身体を利用し、人波をくぐり抜けていく。
多少の力を受けようとも、ひるまない。
石灰岩を山ほど積んだ一輪車を押し慣れている見習い石工と、水車を回したり、収穫した農作物を山ほど抱えて往復する農夫の子どもだ。
ずんずん神殿の塔門をくぐり、中庭へと入り込んでいく。
規則正しく並んだ列柱は、六本あった。
柱の上部には、精巧なパピルスの装飾が施されている。
柱と柱の間には障壁があり、そこにはハピ神の物語や王の栄光を称えるレリーフが刻まれていた。列柱室の前には、巨大なハピ神が悠然と屹立している。
だが、目的は何と言ってもお供え物である。
列柱室の奥から神官たちが姿を現すと、祭りの興奮は最高潮を迎える。
集まった人々は、ひとつでも多くのお供え物を手に入れようと決意の拳を握りしめ、「ハピ神よ、恵みたまえ」と熱狂的に叫ぶのだった──。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「牛肉は、やっぱり最高だよ!」
「ニンニクのペースト、あれは反則だよな。旨すぎる」
「ピクルスも美味しかったよね。家じゃ食べられないよ」
「ワインは薄かったけど、ブドウが食べられたからいいや!」
パネプがお腹をさすりながら、名残惜しそうに指に残った肉汁を舐める。
神殿を二か所も回った二人の胃袋は、もうはち切れそうだ。
ナイル川の岸辺では、釣りに興じる人々の姿があった。
大漁をハピ神に祈った人たちかもしれない。
「遊びに行こう!」
「うん!」
二人は、北通りへと戻った。
向かう途中で、農耕儀礼の舞いを踊る一団がいた。
タンバリンや太鼓を鳴らし、大地を踏みしめている──。
豊穣を祈願する農夫の舞いだ。
物珍しくてセスが立ち止まると、
「僕はもう見飽きたよ。ゲームをしに行こう!」
パネプが言うので、仕方なくついていく。
北通りの一画には、娯楽場が設けられていた。
これも祭りならではの光景だ。
エジプトには祝祭が多い。そのたびに様々な娯楽場が生まれる。
異国の音楽を奏でる楽師隊もいれば、創作物語を披露する語り手もいて、どちらも子どもから大人まで自由に楽しめた。
レスリングに興じる者もいれば、その勝負に賭ける者たちもいる。
セスとパネプが向かったのは、ボードゲームの会場だ。
すでに大勢が集まって、それぞれに楽しんでいた。
人気があるのは、セネトゲームだ。
十個のマス目が三列並ぶ盤の上で、五つの駒を進めて勝敗を競う。
ほかにも、四角い穴が開いた円盤を使うゲームや、とぐろを巻いた蛇が描かれたボードを使うメヘンというボードゲームもある。先端に犬の頭が彫ってあるスティックを使うゲーム盤も最近になって出てきたが、セスもパネプも遊び方を知らないので、観戦するだけにした。見ているだけでも面白いものだ。
投げ輪をして、吹き矢をして──と遊んでいるうちに小腹が空いた。
二人の足は南通りへと向かう。
神殿からもらった布切れを鳥の串焼き三本とビールに交換した後、二人は空き地に腰を下ろした。空は気持ちよく晴れている。
「セスはいいよな」
串焼きの肉を咀嚼しながら、パネプが言った。
「なんだよ、急に」
「農夫なんてイヤだよ。損な役回りばかりだ」
口をとがらせている。
「どうして?」
「父ちゃんがいつも文句を言ってる。農業は役人に牛耳られてるから大変だって。苦労して作物を育てても、ほとんど税で持っていかれる。天気が悪くて収穫が少なければ罰を受ける。おかしいよ」
エジプトには、農民が多い。
徴税によって成り立つ社会だから、耕地面積や収穫量は(高慢ちきな)書記が事細かに記録し、管理していた。なかなか制約の多い職業ではある。
「それだけじゃないよ。戦争になれば、駆り出されるのは僕たち農民だ。慣れない武器を持たされて、僕は敵と戦わないといけない」
「パネプも?」
「もちろんだよ! もう十四歳だ」
「でも、戦争なんてどこにもないよ」
その言葉に、パネプの表情が硬くなった。
口の中の肉をごくんと飲み込み、
「そうとも言い切れない」
乾いた口調で言った。
「え? 戦争が起きるの?」
パネプが慌てて、唇の前に人差し指を立てる。
「声が大きいよ」
「ごめん……」
「父さんが言ってた」
前かがみになったパネプが、小声で言う。
「戦争になるかもって」
「……本当?」
訊きながら、セスは思った。
パネプのお父さんは、嘘をつくような人じゃない。
「うちの母ちゃんが言ってただろ? ここ最近、何隻もの舟がナイル川を行ったり来たりしてるって。デルタの漁民だって母ちゃんは言ってたけど──」
パネプが、亀のように首をすくめて言う。
「その舟には特徴がないんだって。魚を獲っている気配もないらしい」
「じゃ、その舟は……」
──獲っているのは魚ではなく、情報なのだろうか。




