第45話 ナイルを滑る舟
ギザに朝が訪れた。
まばゆい太陽が、神の遺跡三大メルを白く染めあげていく。
その中でもっとも巨大なメル──通称『第一の塔』のふもとにある兵舎から、次々と職人たちが姿を現した。誰もが笑顔で包みを抱えている。調査隊に入って初めての休暇だ。しかも二泊!
セスとダクトも家路へと向かった。
いざ、ピラミッドタウンへ──。
「父さん、市場に寄ろうよ」
セスが言う。
「もう腹が減ったか?」
ダクトがからかうように訊いた。
「違うよ。ルカのお土産を買いたいんだ」
書記をめざしているルカのために、カルトゥーシュ(王名を記した象形文字を囲む楕円形の枠)のお手本を買ってあげようと決めていた。調査隊にいる書記官のおじさんから、使い古しだが質の良い品を取り扱う手頃な屋台を教えてもらったのだ。
「そうか。では、父さんも何か見つくろって帰ろう」
砂丘を越え、作業道を下る。
ピラミッドタウンと聖域を隔てる隼神の壁が近づいた。
不自然な人だかりがある。誰もが上を見上げていた。
何かがぶら下がっているようだ。
はっと気づいて、セスは視線をそらした。
クフ王に戦闘用の弯刀を投げつけた、あの鉱夫の首だった。
処刑され、さらし首になったと聞いてはいたが──。
ざわざわと聞こえる話し声。
吐き気がして、言葉ひとつひとつを聞きとる余裕がない。
作業場の事故で死体を見た記憶がよみがえる。
セスの脇の下を汗が流れた。
「行こう」
ダクトの大きな手が背中を押す。
「……うん」
セスはうつむいたまま、城門の先にある大通りへと歩いた。
ピラミッドタウンの中に入ると、一気に空気が変わる。
静から動へ。
死から生へ。
ピラミッドタウンは、祭り一色だった。
豊饒の神であり、ナイル川の化身であるハピ神。
大通りには、深緑色をした聖なる像がずらりと並んでいる。
ぎっしりと屋台が並ぶ通りで、子ども達が歓声をあげている。
きらびやかな神の輿が大通りを練り歩く祭りだ。
活気に満ちた光景に、セスの呼吸も楽になった。
「ルカの土産に、何を買うんだ?」
「カルトゥーシュのお手本だよ」
「買えるのか?」
「これと交換してもらうんだ」
そう言って、セスは腰帯の小袋から油壺を取り出した。
「どこで手に入れた?」
「兵舎だよ。書記官のおじさんからもらったんだ」
セスは得意げである。
「王名を練習するお手本を書いたいと言ったら、油壺をくれたんだよ。書記は筆記具の手入れに油を使うから交換してくれるはずだって」
驚くダクト。
「その油壷を、ただでもらったのか?」
「まさか! アイシャドウの原料を潰すのに使う化粧板を作ってあげたんだよ。書記官のおじさんの奥さんは、お化粧が好きなんだって。お土産にいいと思いますよと言ったら喜んでくれたよ」
のほほんと答えるセス。
「たいしたものだ。大人と交渉までするようになったか」
「うまく立ち回るコツだよ」
呆れるべきか、感心するべきか。
ダクトは苦笑した。
北通りには、サンダルや腰巻きなどの衣料品や耳飾りなどの装飾品を売る店、染料や顔料を売る店が並んでいる。
書記官のおじさんが教えてくれた屋台は、通りの端にあった。
息子が書記だという腰の曲がったお婆さんが、セスの油壺を気に入って、あれこれ見せてくれた。
「僕も文字を習った方がいいと思う?」
そうセスが訊くと、
「知識は、誰にも奪われない財産だ。学べば、可能性が広がる」
ダクトが答えた。
知識は、誰にも奪われない財産──。
セスの胸にすっと沁みた。
自分の可能性は自分でもわからない。
だから、信じて備えておくことが大事なんだ。
養成学校の受験にはこれがいいというお婆さんの勧めを信じて、セスはオストラコン(陶片・石片)をいくつか手に入れた。
赤い枠と黒い文字で描かれたカルトゥーシュが美しい。
「ムトには、これがいいか?」
と、ダクトは支給品の布切れと耳飾りを交換した。
「南通りへ行こう。食材を手に入れるぞ」
ダクトが言った。
南通りは、幼なじみのパネプの家族が屋台を開いている通りだ。
「うん!」
二人はにぎやかな大通りを南へと進んだ。
路肩には屋台が建ち並んでいる。
南通りは食材を扱う店が多い。
小麦の束を売る店。
さばいた野鳥の肉を天干ししている店。
焼き立てのパンの匂い。
豆の煮込みの匂い。
焼き魚の香ばしい匂いも、風に乗って流れてくる。
兵舎では、いつものように朝食をお代わりしたセスだったのに、懐かしい香りに思わず舌なめずりが出る。ダクトが笑った。
「セス! おじちゃん!」
少年の声が、大通りの喧騒を抜けて届く。
セスの幼なじみのパネプだ。
畑が水没する増水期の期間、パネプの父親は農夫でなく漁師になる。夫が釣った魚を妻が調理し、子どものパネプは幼い妹と店の手伝いをしながら生計を立てているのだ。
「久しぶりだね」
パネプの母親が魚をさばきながら、ダクトに声をかけた。
「早い時間だけど、昼飯にするかい?」
「いや、今日は魚をもらおうかな」
パネプが言う。
「子ども達と家で食べるよ」
「そうかい?」
パネプの母親が申し訳なさそうな顔になった。
「漁でひと悶着あってね、いい魚がないんだけど」
「ひと悶着?」
「そうなんだよ」
肉付きのよい柔和な表情が曇る。
「ここ最近、どこの連中か知らないけど、何隻も舟を浮かべてナイル川を行ったり来たりしてるんだってさ。おかげで魚が逃げちまって大変らしい」
ダクトとセスは顔を見合わせた。
「通報は?」
「したともさ。デルタの漁民らしいんだけどね、兵士には『つまらん縄張り争いで余計なもめごとを起こすな』って、こっちが叱られたようだよ」
漁師をしているパネプの父親の気持ちはわからないでもないが、ナイル川の往来に規制はない。運航を禁じたり、漁民を締め出すことは、現実的に不可能だ。
デルタの漁民がギザ近くに来るのは普通のことであり、兵士としても取り締まりの対象ではない。ナイル川は 国全体の交通路なのだから。
異民族や異邦人であれ、彼らの舟は昼夜を問わず水面を滑っていく──。
上流で採れるナイルパーチは手に入らなかったので、ダクトは代わりにナイルティラピア三匹を支給パンと交換した。パネプの母親はいつものように「おまけだよ」とウナギナマズをくれたので、豪華な食事にありつけそうだ。
「明日は一緒に神の輿を見に行こうよ!」
パネプが言った。
ダクトをふり返ると、笑顔でうなずいている。
二人は両手いっぱいに土産を抱え、家路についた。




