第44話 不穏な影
王宮の夜には、音が少ない。
バルコニーの下から聞こえてくる護衛兵たちの足音だけが、ずしんと沈み込む闇にこだましている。
クフ王は「妙だ」と言ったきり、黙り込んでいた。
手にしたままの杯を、口に運ぼうともしない。
「何を考えている?」
アンカフが訊くと、クフ王は下唇に人差し指をあてた。
深く考え込むときの彼の癖である。
十九という年齢には、大人と子どもが混在している。
現人神クフ王としてエジプトに君臨する青年だが、兄の前ではときおり少年の面影が見え隠れする。とりわけ思い悩むときには。
「あの鉱夫のことだが──」
少し間を置いて、クフ王は噛みしめるように言った。
「なぜ、視察のことを知っていた?」
「酒場で男に声をかけられたと言っていた。その男から聞いたのだろう」
「では、その酒場にいた男は、なぜ視察のことを知っていた? 視察の詳細を知っていたのは王宮の人間とメドジャイ部隊の幹部だけだ」
「ダシュル分隊長の話では、調査隊に視察のことを告げたのは前夜らしい」
「視察の話だけではない」
クフ王は眉間にしわを寄せた。
「酒場にいたという謎の男は、あの鉱夫にねらいを定めて近づいている」
「シェムウという鉱脈監督官に怪しい点がないとすれば……」
「情報に通じる造反者がいるのだ」
「だが、それを突き止める手立てがない」
クフ王は腹立たし気に、アカシア材の丸卓を拳でコツンと叩いた。
「勝手に処刑などしおって」
あの鉱夫は、ギザの地方官によって即日処刑され、ピラミッドタウンと聖域を隔てる隼神の壁門にその首をさらされていた。
王に弯刀を投げつけた男の犯行は、大勢が目撃しており、その重罪は言い逃れできるものでもない。即刻死刑は常識の範囲ではあるが、それにしても──とクフ王は不満なのだ。
「御身を守るために必要な措置と思ったのだろう」
「くだらん」
クフ王は言い捨てた。
「己の保身のために切り捨てただけのことだ。尋問は必然だった。黒幕を探る唯一の手がかりだったというのに」
どこかで虫が鳴いていた。
中庭の池に住みついたコオロギだろう。
か細く空気を震わせる細い音が、夜の静けさを際立たせていた。
油ランプの炎が揺れる。
「あの鉱夫は『生活苦から殺しを請け負った』と言ったが、本当とは思えぬ」
クフ王の言葉に、アンカフはうなずいた。
「妙と言えば、確かに妙だ。王の暗殺は未遂であろうと死刑になる」
「生活苦から殺しを請け負うのは、玄人であればわかる。だが、あの鉱夫はずぶの素人だ。暗殺が成功するわけもない」
「失敗すれば、残された家族は貧困から抜け出すどころか、奴婢に落ちて一生を卑しく生きる羽目になる」
「そのような愚かな仕事を請け負う奴がいるか?」
「脅されていた可能性もある」
「あの鉱夫がか?」
「ああ」
「あり得ない話ではないな」
「だが、暗殺の成功に関しては──」
アンカフの声が低くなる。
「失敗するとは言い切れぬところがある」
言いながら、アンカフは腰帯の袋から包みを取り出した。
幾重にも麻布が巻かれている。
包みをほどく指先が、やけに慎重だ。
「それは?」
「例の凶器だ」
布の下には、弯刀があった。
刃の根元に黒ずんだ樹脂のようなものがこびりついている。
「明日にしようと思ったが、話のついでだ。医官に調べさせた」
クフ王の手が伸びるのと同時に、アンカフが包みを遠ざけた。
「よせ。猛毒だ」
クフ王が、くんくんと臭いを嗅ぐ。
「ユーフォルビアの樹液?」
アンカフがうなずいた。
ユーフォルビアは、エジプト全土に自生している植物である。
手折れば白い液がにじみ出る。
その樹液は植物が身を守るためのものであるが、人の皮膚に触れれば激痛をともない、傷口に入れば壊死が進む。目や鼻に入れば障害を起こす怖ろしい猛毒だ。
アンカフは指先で樹脂の表面を示した。
ざらついた粉が混じっている。
「これは雄黄──ヒ素を含む鉱物だ。この粉末をユーフォルビアの樹液と混ぜれば、刃に塗れる。今日あの現場で負傷した兵士は手当てが遅れ、腕を切り落とすほどの重傷だった」
クフ王の眉がわずかに動いた。
「……素人の鉱夫でも、王を殺せるわけか」
「可能性はある」
「一介の鉱夫が扱うには、あまりに危険すぎる凶器だな」
アンカフは静かにうなずいた。
「だからこそ、黒幕の意図が透けて見えはしないか?」
「あの鉱夫は捨て駒だと?」
「そうだ。暗殺が未遂に終わっても構わない。王を確実に殺すための毒ではなく──混乱させるための毒だと言える」
「いったい何者が──?」
クフ王は赤ワインを飲み干し、空の杯を乱暴に置いた。
全身からあふれる憤りと怒りが、周囲の空気と炎を揺らす。
「目的は暗殺ではなく、威嚇か」
「あるいは、内部の誰かが“試した”可能性もある」
アンカフの低い声。
二人の間に沈黙が落ちた。
涼しい夜風がバルコニーから吹いてくる。
メドジャイ部隊のかけ声が、遠くに聞こえていた。
「ギザである噂を耳にした。シナイのアアム族が銅鉱山の権利をめぐって反発を抱いている気配がある」
アンカフが息を呑む。
「アアム族が?」
アアム族は遊牧の民だ。
彼らの実態は西セム語族の小集団である。
部族単位で移動しながら生活している民族だが、開発されたばかりの銅鉱山で働く者たちも中にはいた。彼らは銅をめぐって交易もする。
砂漠の神や嵐の神を祀る民族で、エジプトとは信仰も風習も異なる。
対立心を抱き、しばしばエジプトが管轄する銅鉱山を襲撃してもいた。
「われらに歯向かう理由は資源か、誰かの煽りによるものか」
「素人の鉱夫を使った暗殺には、確かにアアム族の介入を感じる」
クフ王は立ち上がり、闇の向こうを睨んだ。
「アアム族の背後に、王家の者がいないとは言い切れぬ」
クフ王の声は静かだった。
「どうやら悠長にはしておられぬようだな」
闇を睨んでいた三白眼が、アンカフに向けられる。
その目に潜む怒りには、燃えたぎる決意があった。
(二年前と同じ目だ)
アンカフの心が震える。
クフ王が、再び唇を開いた。
「エジプト全土に伝えよう。三大メルの第一の塔を王墓にすると」
(いよいよ来たか)
アンカフの背筋が伸びる。
クフ王が三大メルを王墓にと望んだ理由を、彼は知っていた。
その決意の裏に、権力との抗争が潜んでいることも──。
夜風が吹き、油ランプの炎が揺れる。
クフ王の胸の奥にある物言わぬ焔のように──。
「明日ギザに戻る。兄上、あとの事は頼む」
はっとして、アンカフは立ち上がる。
「よりによって──」
「止めても無駄だ。合意のうえのはず」
有無を言わさぬとばかりに、クフ王は片手でアンカフの言葉を制した。
「黒幕は、私をギザから追い払おうとしている。そうはいくか」
苦い顔をするアンカフに、クフ王は笑う。
「兄上、渋い顔の代わりに上等のワインを用意させてくれ。神官たちに渡すつもりでいた酒を、勢いで調査隊に下賜してしまった。これからしばらく世話になる以上、手ぶらで神殿には戻れまい」
奔放な弟の頑固なひと言に、兄は嘆息するしかなかった。
不穏な影が、闇に紛れている。
光に照らされた二人の姿を、じっと睨む影が──。




