第43話 王の兄弟
夜になって、王宮はようやく静けさを取り戻した。
回廊にはあまり人影もない。
クフ王は、三階のバルコニーから大前庭を見下ろしていた。
湯あみを済ませた身体から、香油の香りが漂っている。
大前庭にはナツメヤシの並木がある。
その緑の葉陰に、たいまつが煌々と揺れていた。
美しく彩色された巨大な柱列の間に、首都を守るメドジャイ部隊の兵士たちが整列しているのが見える。王宮護衛兵の姿もあった。
夜の巡回を始めるのだろう。
彼らの緊張は無理もない。
首都メンフィスから二イテル(20km)離れたギザ台地で、不覚にも王の暗殺未遂事件が起きたのだ。水路と陸路を半日かけて戻ったとき、王の不在を知らずにいた首都メンフィスは騒然となった。
お忍びでギザに滞在していたクフ王を襲ったのは、他部族の兵士でも刺客でもなく、エジプトで生まれ、エジプトで育った鉱夫の男であった。
犯行は大勢の兵士や書記に目撃され、男は現行犯で捕らえられた。
メンフィスまで連行された後、夕方には処刑されている。
「王はご無事か?!」
「お怪我はないのか?!」
暗殺未遂の報せを受けた大臣たちが次々に王宮へ駆けつけてきたが、些末なことと相手にしなかった。「疲れた。明日にせよ」と言い捨て、早々に王の居住区へ引き上げてきたのだが──
「お呼びでしょうか?」
背後から声がした。
近づいてくる足音には、いつもと変わらぬ悠然さがある。
クフ王は大前庭の兵士たちを見下ろしたまま、
「王妃からやっと解放されたところだ」
と言った。
「先ほど、メリタテス様と回廊ですれ違いました」
声が言う。
「精のつく薬湯を準備させると仰せでした。私がいてはお邪魔なのでは?」
メリタテスは、クフ王の第一王妃である。
五歳になるカワブ王子の母だ。
彼女の名を聞いたクフ王は嘆息し、やっと振り返った。
アンカフ大臣が、背筋を伸ばして立っている。
その端正な顔には微笑が浮かんでいた。
「兄上には、私をからかう余裕があると見える」
アンカフ大臣が、くすりと笑う。
クフ王は不満げに鼻を鳴らした。
二人は異母兄弟である。幼い頃より仲がよかった。
クフ王より六つ年上のアンカフは、王の巨大な宮廷を司るだけでなく、国政にも携わる重鎮だ。彼の左目は、生まれつき眼球がない。運命のいたずらか神の罰かと占星師は彼を玉座から退けるよう先代のスネフェル王に進言した。
そうでなければ、メリタテス王妃を娶り、赤冠と白冠をかぶって玉座に腰を下ろしていたのは先王の長子である彼であったかもしれない。
「薬湯ならカワブにやればよいのだ。今日も顔色が悪かった」
「王の御前で緊張しておられたのでしょう。お部屋に戻られた後は、侍女と追いかけっこをするほどお元気だったご様子」
「なるほど、王子はまだ私に慣れぬらしい」
「そのようですね」
カワブ王子は、クフ王の実子ではない。
三つ年上のメリタテス王妃は、前王であり父王でもあるスネフェル王の寵妃だった。メリタテスとは『父の最愛の人』の意である。
王位継承権をもつ彼女を妻にすることで、クフ王は王位に就いた。
父王の妻であった人を、無下にはできない。
何かと窮屈な夫婦関係である。
今日は彼女があまりに心配するので、それほど空腹でもなかったが、カワブ王子とともに久しぶりに食事をした。何かと世話を焼こうとするのを何とかなだめすかし、やっと寝室へ送り届けたばかりなのだ。
「私をお呼びになったわけは?」
アンカフ大臣が訊いた。
クフ王はうなずき、バルコニーを離れた。
回廊を歩き出すクフ王に、アンカフも黙って従う。
散策路ともなっている回廊の途中には、ゆったりとした中庭がある。
中央には儀式にも使われる池があり、今は月が水面に揺れていた。
池には、神聖さの象徴であるパピルスが風にそよいでいる。
青いスイレンが香しいばかりに咲いていた。
周囲には誰もいない。
「今日の騒ぎをどう見る?」
クフ王が訊いた。
「どうと仰いますと?」
「あの鉱夫の男を見たか?」
「私には片方の目しかありません。眺めた程度です」
「兄上の目はウジャトの目だ。片目であろうと、なにも見逃しはしない」
ウジャトの目とは、神話で伝えられる隼神の左目のことだ。
神話によれば──
はるか昔。
ホルスの父であるオシリスは、妬んだ弟セトに切り刻まれて殺されてしまう。父の仇を討つホルスだったが、卑劣なセトは彼が眠っている間に左目をえぐり出し、それを六つに切り刻んでナイル川に投げ込んでしまった。
月の満ち欠けを記録する神トトは、ホルスの目の欠片を見つけて修復しようとしたが、最後の欠片だけが見つからない。そこで欠けた部分を聖なる神の粒子で埋めたことにより、ホルスの目は神の目となり、目に見えるものの向こう側までも見ることができるようになった──という。
「兄上には、すべてを見通す力がある」
「怖れ多いことにございます」
手のひらを胸に当て、深々と頭を下げるアンカフ。
その姿にクフ王が舌打ちし、苛ついた口調で言った。
「ここにいるのは私たちだけだ。そのような仰々しい真似はよしてくれ。腹を割って話もできぬ」
その言葉に、アンカフの黒髪がぱさりと揺れた。
クフ王に向かって肩をすくめてみせ、
「わかった」
と軽く答える。
「それでよい」
と、クフ王は満足げだ。
二人は連れだって王の居室へと入っていった。
華美な装飾もない広いだけの部屋である。
黄金の輝きより素朴な木目の家具を好むクフ王は、背もたれの付いた長椅子に腰を下ろした。きめの細かい亜麻布がふわりと頭上を覆っている。
アンカフは、向かいの編み座の木椅子に静かに腰を下ろした。
磨き上げられたアカシア材の丸卓がある。
卓上には、デーツとブドウ、熟れたイチジクが美しく盛られたアラバスターの皿と油皿ランプがあった。
炎が揺れ、果実の影が丸卓の上に柔らかく伸びる。
バルコニーから夜風が吹けば、また静かに炎は揺れる。
アカシアの木目がゆらりと浮かび上がる。
どこか物憂げな兄弟の影も、静かに壁に伸びていく。
「腹を割って話すのではなかったか?」
黙ったままのクフ王に、アンカフが声をかけた。
丸卓の上の陶器の壺に手を伸ばす。
壺には赤ワインが入っている。
杯に注ぎ、そっとクフ王に差し出した。
油皿ランプの炎に、深紅の液体が燃えるように揺らめく──。
「妙だと思わぬか?」
杯を受け取り、クフ王がぽつりと呟いた。
三白眼のその瞳は、王宮のどこか遠くを彷徨ように揺れていた。




