第42話 手柄とワイン
「セス!」
中庭で石工の七つ道具を磨いていると、ダクトが駆け寄ってきた。
王の暗殺未遂があった後だ。
緊急事態と知り、第二班は作業を早めに切り上げたらしい。
「父さん」
はっとした表情で駆けよったダクトは、長身をかがめ、セスの背中や腕をあちこち確認しながら「お前、その血は──」と声を上ずらせた。
きょとんとした顔で脇腹を見ると、血のりがついている。
汚れていたことに、セスははじめて気が付いた。
「これは兵士の血だよ。僕のじゃない。水を運んだ時についたのかも」
ほっとしたようなダクトの顔が、すぐ真剣な面差しに変わる。
「王は、ご無事だと聞いた」
セスはうなずいた。
「うん。切られたのは護衛兵だけ」
「信じられない話だ。王の命をねらうとは」
「僕もびっくりしたよ。あんな武器を使うなんて」
「弯刀だったそうだな」
ダクトが顔をしかめ、首を振る。
「王もお前も無事でよかった」
鐘が三回、続けて鳴った。
共同部屋に集まれという指示だ。
二人は連れだって通路へと向かった。
ぞろぞろと職人たちが集まってくる。
共同部屋に入ると、長椅子には大勢が腰を下ろしていた。
座る席は、今やほとんど固定している。
「兄貴、こっちこっち」
石工の先輩たちが、ダクトとセスに向かって手を振った。
腰を下ろしたセスの耳に、コソコソ話が聞こえてきた。
「休暇は帳消しになるんじゃないか?」
「やっぱり、そうかな」
「あんな事件の後だからなぁ」
「王の暗殺未遂だ。休暇どころじゃない」
「参った。せっかくのハピ祭りだっていうのに」
「鉱夫の男だったとか」
「ああ、弯刀を使ったらしい」
事情はすでに兵舎内に広まっているようだ。
セスは、シェムウの姿を探した。
向かいの席で、うなだれて座っている。
元気づけようと話しかけている石工や鉱夫の声も、耳に入らない様子だ。
こほん、とダクトが咳払いした。
「静かに」
槍のように突き刺さる声だった。
「余計な話は控えておくべきだ」
指摘された男たちは、きまり悪そうに口を閉じた。
「お疲れだった!」
そこへ、やけに朗らかな声でダシュル分隊長が現れた。
左の頬は赤黒く腫れあがったままだ。
暗殺未遂事件のことは知っていても、罰のことまでは聞いていない第二班の作業員たちは、シェムウとダシュル分隊長の左頬を見比べ、こそこそ小声で話し始めた。
(二人とも頬が腫れてるぞ)
(シェムウ監督官の頬の腫れは、作業中にできた傷のせいかと)
(殴り合いでもしたのか?)
どうなっているんだという表情が、顔面に貼り付いている。
ダシュル分隊長は意に介さず、
「配ってくれ!」
と、通路に向かって声を張り上げた。
五人の兵士たちが、ぞろぞろと入ってくる。
何事かとぎょっとする調査員たち。
兵士たちは、いくつもの杯が乗った盆を抱えていた。
あっけにとられている調査員たちの前に、兵士が杯を置いていく。
「ワイン?!」
鼻をくんくん鳴らし、石工の先輩たちが目を丸くした。
セスの前にも杯が置かれた。
覗いてみると、芳醇なブドウの香りが鼻をくすぐった。
「どうしてワインが?」
「ダシュル分隊長、これは……」
調査隊の男たちは、喜ぶより先に不安そうな顔だ。
それもそのはず。
ワインは、ブドウさえあれば簡単に醸造できる酒ではあるが、そもそもエジプトの土壌と気候はブドウ栽培に向かない。それでも王や貴族に献上するため、ナイル川から水を引いて人工的に環境を作った農園もあるにはあった。
だが、生産量が格段に少ないため希少価値が高く、庶民には一生に一度飲めるか飲めないかわからないほどの高級品なのである。
「王から賜った酒だ。今日はしっかり休んで休養をとってくれ」
ついさっき、コソコソ話をしていた男たちが肩を落とす。
(今日はしっかり休んでということは……)
(やっぱり休暇は取り消しになったらしい)
(明日もまた作業場だ)
「セスくん!」
ダシュル分隊長が、叫ぶように言った。
声の勢いに気圧されて、セスは反射的に立ち上がる。
「は……はいっ」
「きみのおかげで、ハピ祭りの休暇が一日長くなったぞ」
(は?)
きょとんとしているセスの顔を見て、ダシュル分隊長が豪快に笑った。
「きみが『あぶない!』と叫んだおかげで、王を守りきれたのだからな」
調査隊の面々から「おおっ!」と感嘆の声が上がる。
「シェムウ監督官もお疲れだったな。あまり気に病まず、今の調子で仕事を続けてくれればいい。調査隊にはきみの力が必要だ」
ダシュル分隊長の声に、シェムウはまた涙している。
四方八方からぽんぽんと肩や背中を叩かれている。
セスの胸が熱くなった──。
ダシュル分隊長が「さあ!」と杯を掲げた。
「ハピ祭りの後は本格的に工事が始まる。家族のもとで二日間、しっかり身体を休めてくれ。……もちろん、メドジャイ部隊に休みはないがな。羨ましい限りだ」
「分隊長、大丈夫です!」
お調子者の冶金師のおじさんだ。
「休暇明けには、酒のつまみを土産に戻ります!」
屈託のない笑いが起こる。
「乾杯!」
「セスくん、ありがとよ!」
「ダシュル分隊長、お疲れ様です!」
「シェムウ親方がいなきゃダメだ!」
「お疲れさん!」
杯がかさなり、男たちがワインの味を堪能する。
夕食の匂いが厨房から漂ってきていた。
はじめて味わうワインが食前酒になるとは、なんと贅沢なことか。
ダクトが飲み干すのを見て、セスもおそるおそる杯に唇をつけた。
鼻孔に広がるのは芳醇なブドウの香りだ。
ごくりと飲んでみる。
強烈な酸味と渋味が舌を刺激する。
思いきり顔をしかめるセスを見て、ダクトが豪快に笑った。
明日はピラミッドタウンに帰れる。
ルカとムトが待っている日干しレンガの家に──。




