第40話 ねらわれる命
王の黄金の輿は、陽光にきらめいていた。
四人の兵士が、左右に伸びる担ぎ棒を肩で支えている。
輿には正方形の屋根が付いていた。
頂点で反射しているのは、金箔の隼神像だろう。
風通しのよさそうな純白の亜麻布が、輿の屋根からふわりと垂れていた。
亜麻布が揺れると、その奥に黄金の椅子がちらりと見える。
座しているのは、現人神クフ王その人に違いなかった。
「みんな、集まれ!」
ダシュル分隊長が叫んだ。
久しぶりに聞く大地を揺るがすほどの声量だ。
「集まれ!」
現場責任者のシェムウも声を張った。
いつになく緊張のこもった声に、空気がぴりりと冷える。
セスは一輪車を脇に置き、天幕へ駆けた。
天幕の前では、すでに数人が座礼の姿勢をとっていた。
調査員の証である腕章を付けていない者もいる。
掘削工事に加勢しに来た石工や鉱夫たちだ。
調査員の数を増やす予定は、着実に進んでいるらしい。
腕を認められただけのことはあり、働きぶりは熱心な男たちだが、さすがに王の御前となると持ち前の男気も委縮するようである。
大人に叱られた子どものように縮こまっている彼らの横で、セスも両手をつき、おでこを砂地に付けて王を迎える座礼をとった。
太陽に照らされた砂が、熱い。
(クフ王は、いったいどんな方なのだろう)
緊張のなか、セスは思った。
王は二年前、セスが十二歳の時に即位している。
即位式も即位を祝う祭りも、エジプト全土をあげて盛大に開かれたが、庶民がクフ王の晴れ姿を見る機会はまったくなかった。
現人神である王は、めったに宮殿の外にお出ましにならない。お出ましになる機会があるとしても、祭礼や視察では厳重な警衛が敷かれ、庶民は立ち姿さえ拝むことができないのが通例である。
そのため、多くのエジプトの民は王の尊容を知らぬまま生きている。
王がどのような相貌であったかは、神殿や葬祭殿に刻まれたレリーフを拝んではじめて知ることができるのだ。
神官の詠唱がこだまする。
──王は地上に生きる神
──宇宙の秩序と正義なり
──民よ その目を伏せておけ
──心を鎮めよ 声を閉じよ
詠唱に従うまでもなく、誰もが息を詰めている。
痛いほどの沈黙を、砂丘の風が包み込む。
灼熱の太陽が、じりじりとセスの首筋を焼く──。
伏したままのセスの視界に、兵士たちのサンダルが入った。
王の輿は、もうすぐそこにある!
顔を上げてはならない。
セスは、さらに砂地におでこを押し付けた。
「停めよ」
セスの真上で、涼やかな声がした。
兵士たちが静かに歩みを止める。
歩みが止まるのと同時に、神官の詠唱もぴたりと止んだ。
声の主は、セスの手が届くほどの場所に立っていた。
気付かれない程度に頭をもたげ、セスは上目遣いでその足元を盗み見る。
ヤシの茎で編んだサンダルだ。
美しく編み込まれており、緑色の繊維糸で装飾されている。
足首には傷ひとつなく、爪もきれいに手入れされている。
王の側近か。
かなり身分の高い官僚に違いない。
「到着いたしました」
涼やかであると同時に、落ち着きのある声だ。
「みなの者、クフ王のお出ましである」
その声に、
「偉大なる王よ!」
「偉大なる王よ!」
「偉大なる王よ!」
王を称える声が空気を震わせた。
「ダシュル分隊長」
先ほどの涼やかな声だ。
「はい、アンカフ大臣」
「調査員たちに作業の続きを命じよ」
「はっ!」
ダシュル分隊長は威勢のよい声で返事をした。
「選ばれし職人たちよ!」
腹に響く声で叫ぶ。
「それぞれの持ち場へ戻れ!」
砂地に伏していた者たちは一斉に「はい!」と叫び、立ち上がった。
セスもそれに倣う。視線は伏せたままだ。
王の尊顔を見つめれば、どんな罰を受けるかわからない。
でも、少し離れた位置なら──?
十四歳の好奇心が頭をもたげる。
一輪車まで一気に駆け、セスはそっとふり返ってみた。
王の輿は、砂地の上で静止したまま動いていない。
純白の亜麻布の奥に、人影が曖昧に揺れている。
黄金の椅子に座したまま、クフ王は作業を見つめているのだろうか。
輿の脇に立っている青年は、アンカフ大臣と呼ばれていた。
涼やかな声だった。
肩にかかる黒髪、すらりと伸びた背筋──。
王の代わりに言葉を発することを許された唯一の人間。
「作業を続けよ!」
ダシュル分隊長の号令が響く。
セスは、一輪車をぐいと押した。
石置き場まで運ぶ石灰岩は、まだ山ほどある。
ホル・エム・アケトの空洞から、再び工具の音が響き始めていた。
槌の打撃、縄の軋み、砂を掘る音──。
もはや、王の輿を意識する者はいない。
いったん仕事に取りかかれば、職人たちは命がけだ。
己のすべきことに没頭し、集中し、献身するだけ。
石置き場に石灰岩の破片を落とし、セスは再び空洞に向かう。
輿の脇を通り過ぎようとしたとき──
「そこの者」
涼やかな声が背後から飛んだ。
アンカフ大臣の声だ。
どきりと心臓が鳴る。
一輪車を押すのをやめ、セスは立ち止まった。
「僕……でしょうか?」
「そう、きみだ」
心臓が早鐘のように鳴りだす。
アンカフ大臣は、砂を踏みしめながら近づいてきた。
(何だろう。どうして──?)
セスは一輪車を脇に置き、両手を腰の前で組んで首を垂れた。
動揺のあまり、思考が回らない。
アンカフ大臣が、ふわりとセスの前に立った。
純白の腰布を身につけ、上半身には薄い衣を羽織っている。
その衣服から焚き染められた高貴な香りが漂っていた。
「作業場に子どもがいるとは驚いた。年齢は?」
「じ……十四です」
「腕章を付けているということは、きみも調査隊の一員なのか?」
「は、はい」
「名前は?」
聞かれて、セスは顔を上げた。
「セス……」
「です」と言おうとしたセスの唇が固まった。
アンカフ大臣の顔から視線が離せない。
若く端正なその顔には──片目がなかった。
左の眼孔は、深く深く落ちくぼんでいた。
あるべき場所に眼球がない。
病で失ったのか、えぐり取られたのか。
しわだらけのまぶたが、そこだけ異様に老いて見えた。
セスの目が宙に揺れる。
青年の左目から、視線が外せない──。
「この目が怖いか」
セスはおののいた。
自分はどんな表情をしていたのだろう。
無礼にもほどがある。
ひざまずこうとしたセスの腕を、柔らかな手が制した。
「気にすることはない。慣れている」
涼やかな声には、怒りも動揺もなかった。
顔を上げたセスの目に、アンカフ大臣の背後を歩く鉱夫の男が映った。
見慣れない顔の鉱夫だった。
青ざめていた。
やけに周囲を見回している。
手には、石灰岩を砕くための工具──斧が握りしめられていた。
(……妙だ)
アンカフ大臣が、セスの視線に気づいて振り返る。
鉱夫が、意を決したように斧を振りかざした。
いや、斧ではない。
戦闘用の弯刀だ!
「あぶないっ」
セスは叫んだ。
作業に気をとられていた人々の視線が、セスの視線の先に集まる。
鉱夫の男は弯刀を握りしめていた。
斧の柄の内部に、細身の弯刀を隠し持っていたのだ。
鉱夫は歯を食いしばり、王の輿めがけてその暗器を投げつけた。
護衛兵が二人、砂を蹴って飛び込んだ。
ひとりの肩に弯刀が突き刺さる。
鋭い刃先は剃刀のように、護衛兵の肩肉をさっくりと裂いた!
「何をする!」
ダシュル分隊長の身体が宙を飛んだ。
石火電光の動きで鉱夫をつかみ、その頬を拳で横殴る。「ぐへっ」と潰れたような声をあげた鉱夫は、そのまま砂地に倒れ込んだ。兵士たちが槍の柄で鉱夫の腕をはね上げ、砂地に押し倒す。
鉱夫の腰布からごろりと転がり出たのは……細身の短剣だった。
「王をお守りしろ!」
アンカフ大臣が叫んだ。
王の輿のまわりを兵士たちがぐるりと取り囲む。
神官たちは恐怖に青ざめ、震えながらも義務を果たしている。
「なんということだ!」
「この男は……?」
「刺客だったのか?!」
作業場は騒然となった。
兵士に押さえつけられた鉱夫の男は、苦しげにうめいていたが、観念したようで抵抗する様子はなかった。
「王に刃を向けるとは──」
セスは輿をふり返った。
命をねらわれた輿の上のクフ王は、ひと言も発しない。
黄金の椅子の上で微動だにもしなかった。




