第36話 胸の内
ビールが入っていた素焼きの壺には、まだ重みがあった。
クヌムに差し出すと、いらないと首を横に振る。
セスは、遠慮なく飲み干した。
参道にはね返っていた日差しが、ゆっくりと柔らかみを帯びてくる。
太陽が傾けば、一気に気温は下がる。
目の前を、数人の兵士が通り過ぎていった。
ちらりと視線を寄こしはするが、誰も声をかけてこない。
たかが見習いの少年と(一見すると娘に見える)楽師の二人だ。
屈強な兵士なら、赤子のひとひねり。
脅威にもならないと見ているのだろう。
腹は満たされた。
それでもセスは腰を下ろしたままだった。
クヌムも去る素振りがない。
ダクトたちの姿は、まだ参道に現れない──。
「……ルカから、どんな話を聞いてる?」
セスの声が沈黙を破った。
ルカとクヌムの関係が、気になっていた。
十歳のルカは、まだ子どもだ。
いくら無邪気とはいえ、神殿で出会った九つも年齢が離れた楽師に、いったいどんな打ち明け話をしたのだろう。
「家族の話とか悩みとか?」
「聞いていないこともない」
「ふぅん……」
「気になるか?」
セスは、口をすぼめた。
「別に」
「意地を張るな。顔に『気になる』と出ている」
癪に障るヤツだ。
「ルカは四人家族で、母君を早くに亡くしている。父であるダクトは石工監督官兼遺跡調査官で、一家はピラミッドタウンに住んでいる。見習い石工である兄は──お前のことだが──七歳から現場に入り、姉のムトはパン工房に勤めていたが、今はルカの看病をしながら家事をこなしている」
怖ろしいほど詳しい。
「それ、ルカが自分から話したのか?」
疑いをこめて眉間にしわを寄せるセスに、クヌムは深くうなずいた。
「もちろんだ」
「あれこれ詮索したんじゃ?」
「バカなことを言うな。戸籍官でもないのに聞いてどうする」
セスは肩をすくめてみせたが、真偽のほどは確認しようもない。
明後日、ルカに聞けばはっきりすることだ。
「あの日、お前がルカの兄だと気づいたのは、そういうわけだ」
クヌムの言葉に、セスも『あの日』を思い出した。
二人が出会ったホル・エム・アケトの崩落現場。
父親をメゾンと誤解され、セスはクヌムにこう叫んだのだ。
『僕の父さんはメゾンじゃない。遺跡調査官のダクトだ!』
クヌムの表情から皮肉な笑みが(一瞬)消えたのは、あの言葉でルカとセスのつながりに気づいたからか。
「ほかには、どんな話を聞いてる?」
「これは尋問か?」
「そうじゃないけど……」
「では、交換条件といこう」
「え?」
「第一の塔で何を調べた? 教えてくれたら私も教える」
なんて腐った性格だ。
「そんなの無理だよ。調査隊には決まりがあるんだ」
「そうか。つまらんな」
「……じゃ、質問にひとつ答えてよ。第一の塔の感想なら教えてあげてもいい」
セスが言うと、クヌムの口元が緩んだ。
「いいだろう。何が訊きたい」
「ルカは……」
口ごもる。
「どうした」
クヌムが、セスの顔をのぞき込む。
三白眼の瞳に見つめられるのも、これから口にする言葉にも腹が立って、セスはふんと横を向いた。陽光に光る石柱を睨みながら、心につっかえる言葉を吐きだす。
「ルカは、なにか不満を言ってた?」
クヌムと目が合った。
褐色の瞳は、少しも笑っていなかった。
笑うどころか、ためらっているように見える。
セスの胸が急にざわついた。
もしかしてルカは、病に冒された自分の身体を恨んでいるのだろうか。
頼りにならない兄のセスに失望しているのだろうか。
それとも──
「生まれてこなきゃよかったと言っていた」
(やっぱり、そうなのか?)
短刀が胸に突き刺さったように感じた。
『ベス神が家族の守り神なら……』
ルカの声が、耳にこだまする。
『毎日毎日、名前を書き続けたら呪いが解けるかな』
真夜中の激しい咳き込み。
ひゅーひゅーと鳴るルカの細い喉。
発作のたび血色を失っていく頬に、はらりと伝う涙──。
「冗談だ」
クヌムの声で、現実に戻った。
にこりともせず、褐色の瞳がセスをとらえている。
華奢なその背中を張り倒してやろうかと思ったが、我慢した。
背丈では負けるが、体力ならおそらく負けない。
感情的に振る舞えば、また十歳のようだと皮肉を言われるだろう。
「だったら、ルカは何て言ったんだよ」
「ちゃんと働きたいと言っていた」
「働きたい?」
「ああ。文字を学べばいいと勧めておいた」
驚いた。
ルカがクヌムに「働きたい」と言ったことも、病弱な少年に「だったら文字を学べ」と勧めたクヌムにもだ。エジプトの──エジプトに限った話ではないだろうが──労働社会では、生まれつきだろうと後天的だろうと、働き手になれない身体の弱い子どもは疎まれることが多い。
十歳になったルカは、子どものようで子どもではない。
薬ばかり飲んでいる自分に嫌気がさすこともあるはずだ。
クヌムの助言は、ルカをきっと喜ばせたに違いない。
「では、第一の塔について教えてくれ。感想でいい」
クヌムの催促に、セスの脳裏にあの赤色花崗岩が浮かんだ。
化粧石を割っていた時のダクトのやりきれない表情。
空にそびえる三大メルの神々しい光景──。
「……第一の塔は、そっとしておくべきだと思う」
「そっとしておくべき? その理由は?」
「言わない。感想だけでいいと言ったじゃないか」
クヌムは、わかったというように片手を上げた。
「それが、お前の感想なんだな?」
「正直いって、よくわからないんだ」
「何が?」
「どうして……」
三大メルのひとつを王墓に改築するのか。
だが、そんな風には言えない。
「どうして、第一の塔を調べることになったのか」
すると次の瞬間、
「王墓にするつもりなんだろう」
とクヌムが言った。
ぎょっとして、セスはクヌムの横顔を凝視する。
神の信託か?
なぜ、王墓という言葉が彼の口から飛び出す?
「どうした」
からかうように、褐色の瞳が揺れる。
「これは私の感想だ」
さてと、とクヌムは立ち上がった。
「木製パレットは、お前に託した。ちゃんと弟に渡せよ」
「え? ちょっと……」
待てよと言う間もなく、クヌムは背中の弦楽器を揺らしながら、参道の石畳を歩き去っていく。じゃあなと言うように片手を宙に泳がせ、セスの視線を感じているのかいないのか、石柱の影に消えていった──。
──あれ?
セスは、首を傾げた。
参道に現れたクヌムは、セスを待っていたと言った。
ルカが神殿に忘れていったという木製パレットを渡すために。
運搬用のソリにちょこんと乗っている木製パレットを見やる。
持ち歩けないほどではないが、懐に入れたままではかさばる大きさだ。
クヌムは知っていたのではないか?
セスが調査隊に入っていることも、第一の塔で作業していることも。
だから、木製パレットを持ってきたのではないか?
でも──彼は、なぜ知っていたのだろう。




