第35話 呪いなんてあるもんか
あの楽師だ。
数歩先の石柱に、もたれるようにして立っている。
改めて見る彼は、かなり華奢な体型だった。
薄い肩の線から流れるように伸びた腕を胸の前で組み、長い脚の片方を石柱の土台に引っかけている。背中から、弦楽器が顔を出していた。どこに行くにも肌身離さず持ち歩いているらしい。
セスがしかめ面をしていると、彼はうっすらと笑った。
そして、まるで舞うように軽やかに歩いてきた。
もとから第一印象の悪い相手だ。
セスは身構えた。
(絶対に怪しい)
神に仕える身を装った他国の密偵かもしれない。
ホル・エム・アケトで会った時もそうだが、音もなく現れる。
さっきまで、まるで気配を感じなかった。
第一の塔の参道を歩く者は、ほとんどいない。
トト神殿やオシリス神殿のように、庶民が祈願に訪れることのない場所だからだ。セスの前後を歩いていたのは、巡回に出かける兵士くらいのものである。
若者は、素焼きの壺をぶら下げていた。
中身は何だろう。毒かもしれない。
「そんなに警戒するな」
若者が言った。
「一介の楽師だ。よからぬ者ではない」
「名前を名乗らない人間なんて、信用できるもんか」
セスが叩きつけるように言うと、
「クヌムだ」
若者は、あっさりと答えた。
「クヌム?」
「ああ」
セスは思わず、くすっと笑った。
「なんだ? おかしいか」
「クヌム神が由来?」
クヌム神は、羊の頭に人間の身体をもった男神だ。
水平に伸びた角をもち、粘土をこねて人間を作り上げたとされる創造の神である。ナイル川と水源を管理する偉大な神でもあるが──
「怒れば、洪水で僕たちを呑み込んでしまう神様だ」
「そのとおり。用心しろ」
若者の口調に、怒りはない。
どこか楽しんでいるように聞こえる。
本名かどうかはともかく、彼は名乗った。
メドジャイ部隊のダシュル分隊長にも、彼は顔を見せている。
暗躍するような悪者ではないのだろう……きっと。
「調査隊に入ったのか」
三白眼の瞳が、セスの引く運搬用のソリをちらりと見た。
「希望が叶って、なによりだ」
セスは、ふんと鼻を鳴らした。
「『父が偉大だからといって、息子もそうとは限らない』けどね」
作業場で彼が放った言葉を、そのまま投げ返す。
覚えていたのかどうか、若者──クヌムはわずかに笑った。
白い八重歯がちらりと見えた。
「こんな所で、何してたんだよ」
怒ることでもないのだが、なぜか彼に対しては苛立った口調になる。
「もちろん、お前を待っていた」
「僕を? どうして?」
腕組みを解いたクヌムは、懐から木製パレットを取り出した。
どこかで見たような──
「それ……、僕が作った木製パレットじゃないか!」
ダクトが家具を作って余った木切れを再利用し、セスが小刀で仕上げた木製パレットだ。ルカにあげた物なのに、どうしてそれを──?
「お前の弟が神殿に忘れていった。返してやれ」
ぽかんとしているセスの鼻先に、ぐいと突き出す。
奪うようにしてセスは受け取った。
「明後日はハピ祭りだ。家に帰るのだろう?」
「弟を知ってるのか? どうして──」
「ルカは私の友達だ」
「……はぁ?!」
「出会ったのは、もう半年以上も前になる。お前の姉さんとも顔なじみだ。つい最近もオシリス神殿で会った」
セスにとっては初耳だ。
「食うか?」
クヌムが、腰に下げた袋からパンを取り出した。
コプトパンだ。
途端にセスの胃袋が唸りだす。
焦ってお腹を押さえたが、音はしっかり漏れたらしい。
白い八重歯を見せて、またクヌムが笑った。
ぶら下げていた素焼きの壺を、ひょいと掲げる。
「さっきの礼にビールをもらった。私はいらない。やるよ」
言いながら、石柱の脇をあごでくいっと示す。
座って食えということか。
言いなりになるのは癪に障るし、食べ物で釣られるようで嫌だが、ここで軽食をとりながら父を待つのも悪くないだろう。
木製パレットを運搬用のソリに乗せ、石敷きの参道をゴロゴロと引く。
セスが石柱の土台に座ると、クヌムも横に座った。
その距離が意外に近くて、セスは少し離れて座りなおす。
クヌムが差し出すパンを、セスは遠慮なく受け取った。
素焼きの壺も、ひょいと手渡してくる。
やけに気前のいい男だ。
お礼を言うべきだろうが、どこか気恥ずかしい。
ありがとうの代わりに、質問攻めにすることにした。
「いくつ?」
「ひとつしか持ち合わせはない」
「コプトパンの話じゃない。クヌムの年齢だよ」
ああと苦笑して、クヌムは視線を落とした。
「十九だ」
「……ルカは十歳だよ」
「そうだな」
「九つも年が離れてるのに、友達になれる?」
クヌムは怪訝な顔をする。
「友情に年齢制限はないだろう」
「だって、話が合わないはずだよ」
「合わないから、話すたびに新たな発見がある」
「そんなもんかな」
「そういうものだ」
ふっ、とクヌムが笑う。
「お前の方が、よほど十歳に見える」
セスがふくれ面をすると、また八重歯を見せて笑った。
あっという間にコプトパンはセスの胃袋に消えた。
ビールを飲んで、やっと人心地つく。
参道の先を見やる。
まだ、ダクトの姿は見えない──。
「あのさ……」
「なんだ?」
「奉納の舞をすれば、本当に神様は守ってくれるの?」
神に仕える者に対して、まったく非常識な質問だ。
だが、クヌムがどう答えるのか興味があった。
「祈らなければ、神は祟る」
セスの胸が、どきりと鳴った。
──祟る? 呪うということ?
「神は荒ぶるものだ。クヌム神も洪水を起こす。守り神にもなれば、災いをもたらす厄神にもなる。だからこそ祀る必要がある」
ふと、弟の姿が目に浮かんだ。
病気がちなのは呪いのせいだと信じ、家庭の守り神であるベス神の名前を必死に書きつけていた姿が──。
「呪いなんてあるもんか!」
口をついて出た言葉は、叫びに近かった。
思いがけない大声に、セス本人がはっとなる。
「心配するな。神は呪わぬ」
クヌムの声は冷静だった。
「神の祟りとは、人間の行為を咎めるものだ。悪とされる行動に対する報いとも言える。呪いというのは人の念だ。神聖さなどまるでない」
セスは、クヌムの横顔を見つめた。
長いまつげが頬に影を落としている。
その瞳の焦点は、どこか遠くにある気がした。
クヌムは、ルカの木製パレットを持ってきた。ルカと話すたび「新たな発見がある」とも言っていた。もしかしたら、ルカは九つ上の友達であるクヌムに、兄には言えない悩みを打ち明けているのかもしれない。
ふと、そう思った。




