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セスの刻紋 ── ピラミッドに落書きした少年 ──  作者: 鬼丸 千
第5章 謎に迫る人々

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第29話 小さな冒険者

 起床を告げる太鼓の音で、セスは目を覚ました。

 今日は、いよいよ空洞を探索する日だ。


 小窓から見える空は、まだほのかな群青色に染まっている。

 ダクトの表情も、空のように暗い。

 一人であの空洞に降りることになる息子が、気がかりなのだろう。

 昨夜からずっと口数が少なかった。


 ダクトの憂いをよそに、セスはいつものように朝食をぺろりと平らげた。兵舎の内装は味気ないが、食事はなかなかに豪華だ。体力勝負の兵士を養う兵舎だから、配給される食材は質も量も豊かである。


 兵舎には調理担当兵がいて、朝夕二回の食事を用意してくれた。


 鳥肉だけでなく、魚もおかずに供される。

 ビールは樽ごと置いてある。

 兵舎の中庭にはヤギがいて、ミルクも飲み放題だ。

 主食のパンは、ゆうに十種類を超える。

 中庭にはタマネギやにんにく、レタスやきゅうりが栽培されていて、小腹がすいたら自由に食べていいと言われている。


 食事をする場所は自由だった。


 静けさを好む歴史家や、苦手な冶金師《やきんし》を避けたい天文学者は、それぞれの寝室で食事をし、人の良い測量士や、食器の上げ下げが面倒だと愚痴る鉱夫たちは、にぎやかな共同部屋で食事を楽しんだ。


「どうせならイセレの花を見ながら食いたい」と、意外に繊細なことを言う石工の先輩たちは、「粋なことを言うねぇ」と意気投合した冶金師《やきんし》らとともに、中庭で花見しながら腹を満たすことを好んだが、さすがに今朝の食事は共同部屋で済ませていた。


 朝食の片付けを終えた後、簡単な打ち合わせをした。


 初日の調査となる今日は、新たに書記官三名と医師が二名、守衛兵四名が加わることになっていた。それぞれ顔合わせをし、ダシュル分隊長を先頭に調査隊の一行は器材を抱えて崩落現場へと向かった。


 その数、二十九名。

 作業道をぞろぞろと歩いていく。 


 現場に到着すると、周囲に張り巡らされていた規制線は撤去されていた。

 すでに大きな天幕がふた張り、近くに設置してある。

 兵士たちが用意したものらしい。

 作業机と椅子が並べてあった。


「打ち合わせどおり持ち場についてくれ。熱くなる前に作業を始めよう」


 調査は、午前中の限られた時間にしかできない。

 炎天下の日中はあまりに苛酷な環境であるし、夕方になればサソリや毒蛇などの危険な夜行性生物が出没するからだ。


 ダシュル分隊長が号令をかけた。

 それぞれ無駄のない動きで、作業の準備に取り掛かる。


 天幕に入ったのは、ダシュル分隊長とダクト、セスと歴史家二人、それから医師二人だ。作業机に資料や地図を並べたり、万が一のための医療用具を整えていく。

 

 空洞のまわりでは、石工や測量士、鉱夫や冶金師《やきんし》たちが、それぞれの機材を設置していた。四名の守衛兵が、周囲の警備にあたる。


 手際のよい作業で、すぐに準備が整った。


「それでは最終確認をしよう」


 天幕の前に、全員が集まった。


「これから、セスくんが空洞に入る。知ってのとおり、この空洞はきわめて狭い。セスくんのわずかな動きも見逃さないよう、しっかり作業にあたってくれ」


「はい!」

「わかりました!」

「了解です!」


「さあ、命綱をつけるぞ」


 はじめての会議で顔に煤を付けたまま現れた鉱夫のおじさんが、セスの腰に太い綱を慎重に結わえてくれた。


「安心していい。これは、もやい結びだ。絶対にほどけないからな」

「はい」


 大人たちの視線がセスに集まっている。

 セスは胸を張った。

 子どもだからと心配されたり、同情されるのは嫌だ。


 今日のセスのいでたちは、長い厚手の粗布の上下衣だ。

 袖は手首まである。

 腰には丈夫な革ベルト、そこに先ほどの命綱と小袋が結わえられていた。

 栗色の髪には布を巻いている。


 空洞は、大人では身動きが制限されるほどの狭さだ。

 砂地の下には、ダクトが言っていたように、頑丈な岩盤と石灰岩累層が走っている。石灰岩は表面が粗い。肌を傷つけてしまわないよう、できるだけ防護しておく必要があった。


 丈夫な革のサンダルに履き替えたセスに、ダクトが近づいた。


「セス」

 

 眉間の皴《しわ》が、ダクトの葛藤を示している。

 

「ここの地盤は固い。崩れる心配はないが、油断はするな」


 セスは、無言でうなずいた。


「段取りは打ち合わせどおりだ。まず──」


 二人の隣に立っていた鉱夫のおじさんが、太い縄梯子をひょいと抱える。


「この縄梯子で下まで降りる。王肘尺《ロイヤルキュビット》で表せば、六つ分(約3.15m)ほどだ。そこから空洞は北西の方向へと平行に伸びている。しばらくは四つん這いで進めるが、やがて急に狭くなる。ほふく前進するしかない」


「わかった」


「少しでも異常を感じたら、この命綱を力いっぱい引け。父さん達が助け出す」


「わかった」


「いいな。絶対に無理はするな」


「うん」


 石工の先輩たちが集まってきた。


「心配するな、セス」

「怖くなったら、すぐに知らせろ」

「無理して奥まで行こうとするなよ」

「調査は明日もあるんだから」

 

 見習い石工だった頃、これほど注目してもらったことはなかった。

 勝手に作業に加わることは許されず、指示があるまで待機させられ、やっと仕事を任せてもらえても切り出した石の運搬か、測量の手伝い、作業の後の片付けくらいしかできなかった。

 

「ありがとうございます! 行ってきます!」


 空洞の脇には、ダシュル分隊長が待機している。

 セスは履き慣れない厚手の革のサンダルで砂地を踏みしめ、歩いていった。

 

「おい、見ろよ」


 石工の先輩の声が、後ろから聞こえた。


「まったく怖がってない。冒険に行くような表情だ」


 ゆっくりと東の空が白みを帯びていく。

 ナイル川の向こうでは、太陽が顔を出しているだろう。

 意気揚々と空洞へ向かう小さな冒険者。

 ダクトにとっては、長い一日が始まろうとしていた。

 


注釈:「王肘尺」は古代エジプトの長さの単位、約52.5cm


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