第25話 臆病な心
ルカの言葉に、クヌムは眉をひそめた。
「やけに悲観的だな」
「だって……」
「生まれたことに不満があるのか?」
「そうじゃないけど……」
ルカは唇を尖らせた。
確かに過激な言葉だ。
こんな言葉を家族にぶつける勇気はない。
うっかり口にしようものなら、父や姉は叱るだろう。
兄のセスなら「なんだよ、急に」と嫌な顔をするかもしれない。
クヌムは否定もしないし、一笑に付しもしない。
近いようで遠い友だちだから、言える愚痴がある。
自己否定してしまうルカの感情は、もう臨界点を迎えていた。
「どうしても、そんな風に考えてしまうんだ」
吐き出さずにはいられなかった。
「僕は、薬ばかり飲んでる。どんなに飲んでも咳はなくならない。背だってちっとも伸びないし、食欲もない。お兄ちゃんは七歳で見習い石工になって、父さんと一緒に働いてるのに、十歳になる僕は仕事どころか買い物にも行けない。何の役にも立ってない」
いったん思いを言葉にすると、次から次にあふれてきた。
鼻の奥がじんと熱い。
「僕は、こんな風に生きたいんじゃないのに」
ルカは、両膝を抱えた。
涙がこぼれてしまいそうで、うつむいて顔を隠す。
河岸の風が、アカシアの葉を揺らしている。
うっすらと広がる芝の上に、木漏れ日がちらついていた。
久しぶりにオシリス神殿に来た。
レリーフを堪能し、クヌムの弦楽器も聴けた。
冷たい水で喉を潤し、砂の入っていないパンを味わえた。
楽しい会話にしたかったのに、泣き言を言うなんて──。
心の内を明かしたことを後悔しかけたその時、
「私もそんな風に考えることがある」
クヌムが、ぽつりと言った。
(え?)
ルカは驚いて、クヌムの横顔を見つめた。
「クヌムも、生まれてこなければよかったと思ってるの?」
ルカの言葉に、クヌムはふっと笑った。
「それはない。この世に生を得たことは奇跡だ。感謝して然りだと思っている。私が共感しているのは『こんな風に生きたいんじゃない』という言葉だよ」
「そんなに演奏が上手で、人を感動させられるのに?」
ゆっくりと首を振りながら、クヌムが笑った。
謙遜のようにも自嘲のようにも見える横顔だった。
クヌムが、天を仰ぐ。
ルカもつられて空を見る。
ナツメヤシの葉陰の向こうに、青い天界が広がっている。
「与えられた暮らしに不満はない。だが、望む人生かと問われたら、答えは否だ。私もきみと同じだよ。生まれた意味がわからない」
「そう、それだよ!」
ルカは激しくうなずく。
生まれた意味がわからない。
父や兄のように生きようとしても、それに耐えられる身体がない。
(僕は、家族の重荷でしかない)
それなのに──。
枯れたはずの涙が、またあふれてきた。
ルカは手の甲で、そっと涙をぬぐう。
「今朝……」
喉につかえる言葉がある。
吐き出す前に、ルカはひとつ深呼吸した。
「今朝、姉さんにひどいことをしたんだ」
クヌムの視線を感じる。
「煎じてくれた薬湯をひっくり返したうえに、こう言ったんだ。『僕の看病が大変だから、無理やり薬を飲ませようとしてる』って」
「かなり思い切った発言だ」
「それだけじゃないんだよ。『僕の気持ちなんてわかってない。考えようともしない』とも言った」
ムトの表情が、また脳裏に浮かんだ。
悲し気な落胆の表情──。
大好きな姉さんに、あんな顔をさせてしまった。
「だから、今日は一人で来たのか」
ルカはこくりと頷いた。
「僕は八つ当たりしたんだ。姉さんは少しも悪くないのに」
ため息交じりに言う。
足元に生えた雑草を指でもてあそんでいるうちに、これまで口にしたこともない言葉がふと胸をついて飛び出した。
「僕もちゃんと働きたい」
唐突に聞こえたかもしれないが、クヌムは笑わなかった。
「石工になりたいのか?」
「それは無理だよ。こんな身体だから」
苦笑しながら、ルカは肩をすくめてみせた。
「エジプトの少年なら父親の仕事を継ぐものだけど、僕にはとても石工の仕事は務まらない。だけど、何もしないで大人になるのが怖いんだ」
だから、書記官になろうと思ってる──。
心の中でつぶやく。
「文字を学んでみればいい」
クヌムが思いがけない言葉を口にした。
「え?」
意外な提案だった。ルカは目を丸くする。
「きみは神殿のレリーフが大好きで、飽きもしないで眺めている。古代文字やヒエログリフを学べば、書記官にも遺跡調査官にもなれる可能性がある」
「遺跡調査官?」
「ああ。きみのお父さんのようにだ」
クヌムの笑顔が優しい。
「遺跡調査官には石工はもちろん、測量士や鉱夫、歴史家もいる。遺跡を発掘すれば、古代文字を読み解く者が必要だ。研究した内容を記録するには、文字に詳しい者が欠かせない」
涙目だったルカに、笑みがこぼれた。
初めてだ。
家族以外で『文字を学べ』と応援してくれたのは。
「僕にできるかな」
すがるように身を乗り出して、ルカが訊いた。
「できるさ」
「遺跡調査官になれると思う?」
クヌムは、期待に反して首を横に振った。
「なれないかもしれない」
「ええ?!」
三白眼の目じりが、優しい曲線を描く。
「過程を楽しめばいい。挑戦してみればいい。しょせん私たちには生きている意味も運命もわかるわけがない。夢は生きがいになる。夢をもつべきだ」
「クヌムの夢は?」
ルカの問いに、端正な顔がにやりと笑った。
「彼女に心を開いてもらうことだ」
そう言うと、あご先で参道を示す。
視線の先にムトがいた。
すらりと細い足で必死に駆けて来る。
亜麻のラップドレスの裾を結んだ腰紐が、激しく揺れていた。
いつもは頭に巻いている薄い布はなく、長く柔らかそうな黒髪が、荒れ狂う波のように風にたなびいていた。
「……ルカ!」
足をもつれさせながら、ムトは駆けてきた。
芝から立ち上がり、呆然としているルカをその胸に抱きしめる。
「どうして……どうして……」
息を切らしながら、声にならない嗚咽が彼女の喉から漏れる。
ルカも、ムトを力いっぱい抱きしめた。
ナツメヤシの樹の下で、クヌムの優しいまなざしに包まれながら──。




