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セスの刻紋 ── ピラミッドに落書きした少年 ──  作者: 鬼丸 千
第4章 葛藤と挑戦

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第25話 臆病な心

 ルカの言葉に、クヌムは眉をひそめた。


「やけに悲観的だな」

「だって……」

「生まれたことに不満があるのか?」

「そうじゃないけど……」


 ルカは唇を尖らせた。

 確かに過激な言葉だ。

 こんな言葉を家族にぶつける勇気はない。


 うっかり口にしようものなら、父や姉は叱るだろう。

 兄のセスなら「なんだよ、急に」と嫌な顔をするかもしれない。


 クヌムは否定もしないし、一笑に付しもしない。

 

 近いようで遠い友だちだから、言える愚痴がある。

 自己否定してしまうルカの感情は、もう臨界点を迎えていた。


「どうしても、そんな風に考えてしまうんだ」


 吐き出さずにはいられなかった。


「僕は、薬ばかり飲んでる。どんなに飲んでも咳はなくならない。背だってちっとも伸びないし、食欲もない。お兄ちゃんは七歳で見習い石工になって、父さんと一緒に働いてるのに、十歳になる僕は仕事どころか買い物にも行けない。何の役にも立ってない」


 いったん思いを言葉にすると、次から次にあふれてきた。

 鼻の奥がじんと熱い。


「僕は、こんな風に生きたいんじゃないのに」


 ルカは、両膝を抱えた。

 涙がこぼれてしまいそうで、うつむいて顔を隠す。


 河岸の風が、アカシアの葉を揺らしている。

 うっすらと広がる芝の上に、木漏れ日がちらついていた。


 久しぶりにオシリス神殿に来た。

 レリーフを堪能し、クヌムの弦楽器《リュート》も聴けた。

 冷たい水で喉を潤し、砂の入っていないパンを味わえた。

 楽しい会話にしたかったのに、泣き言を言うなんて──。


 心の内を明かしたことを後悔しかけたその時、


「私もそんな風に考えることがある」


 クヌムが、ぽつりと言った。

 

(え?)


 ルカは驚いて、クヌムの横顔を見つめた。

 

「クヌムも、生まれてこなければよかったと思ってるの?」


 ルカの言葉に、クヌムはふっと笑った。


「それはない。この世に生を得たことは奇跡だ。感謝して然りだと思っている。私が共感しているのは『こんな風に生きたいんじゃない』という言葉だよ」


「そんなに演奏が上手で、人を感動させられるのに?」


 ゆっくりと首を振りながら、クヌムが笑った。

 謙遜のようにも自嘲のようにも見える横顔だった。


 クヌムが、天を仰ぐ。

 ルカもつられて空を見る。

 ナツメヤシの葉陰の向こうに、青い天界が広がっている。


「与えられた暮らしに不満はない。だが、望む人生かと問われたら、答えは否だ。私もきみと同じだよ。生まれた意味がわからない」

「そう、それだよ!」


 ルカは激しくうなずく。


 生まれた意味がわからない。

 父や兄のように生きようとしても、それに耐えられる身体がない。

 

(僕は、家族の重荷でしかない)


 それなのに──。

 枯れたはずの涙が、またあふれてきた。

 ルカは手の甲で、そっと涙をぬぐう。


「今朝……」


 喉につかえる言葉がある。

 吐き出す前に、ルカはひとつ深呼吸した。


「今朝、姉さんにひどいことをしたんだ」


 クヌムの視線を感じる。


「煎じてくれた薬湯をひっくり返したうえに、こう言ったんだ。『僕の看病が大変だから、無理やり薬を飲ませようとしてる』って」


「かなり思い切った発言だ」


「それだけじゃないんだよ。『僕の気持ちなんてわかってない。考えようともしない』とも言った」


 ムトの表情が、また脳裏に浮かんだ。

 悲し気な落胆の表情──。

 大好きな姉さんに、あんな顔をさせてしまった。


「だから、今日は一人で来たのか」


 ルカはこくりと頷いた。


「僕は八つ当たりしたんだ。姉さんは少しも悪くないのに」


 ため息交じりに言う。

 足元に生えた雑草を指でもてあそんでいるうちに、これまで口にしたこともない言葉がふと胸をついて飛び出した。


「僕もちゃんと働きたい」


 唐突に聞こえたかもしれないが、クヌムは笑わなかった。


「石工になりたいのか?」


「それは無理だよ。こんな身体だから」


 苦笑しながら、ルカは肩をすくめてみせた。


「エジプトの少年なら父親の仕事を継ぐものだけど、僕にはとても石工の仕事は務まらない。だけど、何もしないで大人になるのが怖いんだ」


 だから、書記官になろうと思ってる──。

 心の中でつぶやく。

 

「文字を学んでみればいい」


 クヌムが思いがけない言葉を口にした。


「え?」


 意外な提案だった。ルカは目を丸くする。


「きみは神殿のレリーフが大好きで、飽きもしないで眺めている。古代文字やヒエログリフを学べば、書記官にも遺跡調査官にもなれる可能性がある」


「遺跡調査官?」


「ああ。きみのお父さんのようにだ」


 クヌムの笑顔が優しい。


「遺跡調査官には石工はもちろん、測量士や鉱夫、歴史家もいる。遺跡を発掘すれば、古代文字を読み解く者が必要だ。研究した内容を記録するには、文字に詳しい者が欠かせない」


 涙目だったルカに、笑みがこぼれた。

 初めてだ。

 家族以外で『文字を学べ』と応援してくれたのは。


「僕にできるかな」


 すがるように身を乗り出して、ルカが訊いた。


「できるさ」


「遺跡調査官になれると思う?」


 クヌムは、期待に反して首を横に振った。


「なれないかもしれない」


「ええ?!」


 三白眼の目じりが、優しい曲線を描く。


「過程を楽しめばいい。挑戦してみればいい。しょせん私たちには生きている意味も運命もわかるわけがない。夢は生きがいになる。夢をもつべきだ」


「クヌムの夢は?」


 ルカの問いに、端正な顔がにやりと笑った。


「彼女に心を開いてもらうことだ」


 そう言うと、あご先で参道を示す。

 視線の先にムトがいた。

 

 すらりと細い足で必死に駆けて来る。

 亜麻のラップドレスの裾を結んだ腰紐が、激しく揺れていた。

 いつもは頭に巻いている薄い布はなく、長く柔らかそうな黒髪が、荒れ狂う波のように風にたなびいていた。


「……ルカ!」


 足をもつれさせながら、ムトは駆けてきた。

 芝から立ち上がり、呆然としているルカをその胸に抱きしめる。

 

「どうして……どうして……」


 息を切らしながら、声にならない嗚咽が彼女の喉から漏れる。

 ルカも、ムトを力いっぱい抱きしめた。

 ナツメヤシの樹の下で、クヌムの優しいまなざしに包まれながら──。


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