第23話 河岸神殿
エジプトには、神が多い。
神の家である神殿の数も多い。
人々は、あらゆるものを崇拝する。
太陽や月はもちろん、山や河といった自然、人間の力を超越した動物──たとえば、威厳あるライオンや、凶暴で荒々しいカバやワニ、空高く飛べる鳥など──にも神性を感じ、神が宿ると考える。エジプトは八百万の神が住まう社会なのだ。
書記をめざす養成学校に入るには、神話も勉強しなければならない。
識字率が、人口のわずか1%にも満たない社会だ。
ルカが文字の練習に使っているオストラコン(陶器や石の破片)も、それほど出回っているわけではないし、パピルスの巻物は値が張り過ぎて教科書にできない。
そこで、ルカは体調と天気の良い日は神殿へ通った。
神殿の壁や柱にはレリーフがある。
習いたてのヒエログリフ(神聖文字)やヒエラティック(神官文字)を復習し、記憶するには、またとない環境だ。
容赦ない陽ざしに疲れを覚えながらも、通りを歩く。
喉が渇いてきたけれど、この周囲に井戸はない。
神殿に着くまで、我慢するしかなかった。
突然、ルカの後ろで泣き声がした。
振り返ると、五歳くらいの少年が地面に手をついている。
転んだらしい。
面立ちのよく似た少女が駆け寄り、膝の砂をはらってやっている。
二人は手をつなぎ、路地を曲がって見えなくなった。
姉と弟だったのだろうか。
彼女もきっと優しい姉なのに違いない。
ムトに投げつけた言葉が、またルカの心を締め付ける。
ふり払うように、ルカは歩き始めた。
めざすは、オシリス神を祀る河岸神殿だ。
(オシリス神は──)
ルカは反芻する。
オシリス神は、大地の神ゲブと天空の神ヌウトから生まれた。
妻は、妹でもあるイシス女神。
イシスは、豊かさと王座の守り神だ。
もともとは、オシリスが豊饒をつかさどる神だった。
ところが、彼の成功を妬んだ暴力の神である弟セトによって殺害され、遺体をばらばらにされてしまう。妻のイシスが遺体を探し、身体をつなぎ合わせてくれたおかげでミイラとして復活するものの、不完全な身体となってしまったオシリスは現世に戻れず、冥界の王となった──。
暗唱している間に、お目当ての河岸神殿に着いた。
ナイル川にほど近い場所にあり、周囲は緑も美しい場所だ。
建物をぐるりと囲むのは、日干しレンガの塀である。
神殿に続く参道は、参拝に訪れた人々であふれていた。
異国の民族衣装を着た人々の姿も、ちらほらある。
遠方からエジプトを訪れた旅人たちか。
神殿の中には、格式の高いものもある。
王が特別な儀式を行うために建立された神殿には兵士が常駐し、出入りも厳しく制限されるため、庶民が容易に立ち入ることはできない。
だが、人々の心の拠りどころとして神を祀った施設であれば、神殿の内部であろうと──もっとも神聖な場所である至聖所は別だが──エジプト人に限らず、国外の民であれ、神官の指示にさえ従えば自由に出入りできた。
参道に敷かれた石畳を歩きながら、父と兄を思う。
今頃、二人は何をしているのだろう。
王から与えられた任務を、立派に果たしているだろうか。
誇らしい父と、頼もしい兄。
ルカにとっては身近な存在であると同時に、手の届かない存在でもある。
この身体さえ健康なら、と何度思っただろう。
過酷な石切り場であろうと、親子三人で力を合わせられた。
何の迷いもなく、ルカは石工の道を歩んだはずだ。
寝不足のせいか、否定的なことばかり考える。
こんな時こそ、神殿で心の洗濯をしないと。
塔門が、天高くそびえている。
本殿の入り口だ。
美しいレリーフが刻まれている。
王権の象徴である杖と竿を手にしたオシリス神の彫刻。
エジプト最初の王として君臨した彼の功績をたたえる銘文。
ヒエログリフを目に焼き付ける。
参拝に来た者たちは、立ち止まったルカを次々に追い越していく。
ひととおり銘文を読み、ルカは塔門の奥にある中庭へと入った。
吹き抜けの中庭は、聖域と俗世を隔てる空間とされている。
大声を出すことは許されない。
足元はゆるやかな勾配となっていて、奥に行くほど床面が高い。
列柱室に入った。
ルカのお気に入りの場所だ。
巨大な石柱が、一定間隔で並んでいる。
すべての柱に刻まれたレリーフは、圧巻と言うほかない。
石柱の間には供物台があり、季節の果物や護符、装飾品から子どもの衣服まで、さまざまな品が乗っている。
生前は農耕と豊饒の神だったオシリス神は、死して冥界の王となった。
人々は再生の神として、彼を崇めている。
──再生。
ルカがこの河岸神殿に通うのは、ヒエログリフを学ぶ目的だけでなく、オシリスが死と再生を司る神だからでもあった。
肺が破れてしまいそうなほどの激しい咳は、もう何年も続いている。
発作に襲われるたび、ルカは命が削られる感覚を味わってきた。
死を、覚悟したことさえある。
死ぬのは怖い。
母のキラは四年前、ルカが六歳でこの世を去った。
難産に苦しみ、叫び続けていた母の声は今でも耳から離れない。
六歳のルカは必死に耳を塞ぎながら、母の無事を願った。
叶わぬ願いだった。
死とは、あんなに苦しいものなのか。
気丈だった母を叫ばせるほど、怖ろしいものなのか。
どこからか弦楽器の音色が響いてきた。
(彼だ)
ルカは周囲を見回した。
神官たちが列をなし、至聖所から姿を現した。
音色はその奥から流れてくる。
神像が置かれた聖なる場所から。




