第22話 売り言葉に買い言葉
ダクトとセスが兵舎へと向かった後──。
戸口で二人を見送ったムトは、室内をふり返ってため息をついた。
食卓には、ルカの牛乳粥が、ふきんをかぶったまま残っている。
奥の部屋からは物音ひとつしない。
ルカは、部屋にこもったままだ。
足音をたてないようにして、そっと覗いてみた。
ルカは、背中をこちらに向けてベッドに横になっている。
眠っているのかもしれない。
今日のパンを焼く前に、薬湯の準備にとりかかることにした。
咳を緩和する薬としてラワシュ先生に処方してもらったのは、メリロータスとギンバイカだ。どちらも細かくすり潰し、釜の中で煮出した後、丁寧に裏ごししてから服用させなければならない。
午後の外気が、戸口から入ってくる。
日干しレンガの家は断熱性があるとはいえ、円形の土製かまどからあふれる熱気と合わさり、室内はかなりの温度だ。
汗だくになりながらルカの薬を煎じ終え、ムトは奥の部屋へと入った。
ルカはベッドに腰を下ろしていた。
ぼんやりと床を見つめている。
「起きてたのね」
あえて明るい声を出した。
父と兄の不在を悲しく思い出させないように。
「薬を煎じたわ。飲めるようなら、温かいうちに飲んで。お腹が空いているなら、もう一度お粥を作ってあげる」
「いらない」
ルカが吐き出すように言った。
「できれば何か食べないと」
「ほしくない」
そっぽを向く。
まるで幼い子供のようだ。
ルカの目の下には、黒いくまがある。
昨日も真夜中を過ぎた頃、咳の発作に襲われた。
夜間は咳が悪化しやすいとわかっているので、寝るときの姿勢や湿度に気を付けているつもりだが、横になるとどうしても気道が狭くなってしまう。
朝方になってやっと浅い眠りについたルカが、目を覚ましてダクトの姿を目にした時、滑稽なくらい大はしゃぎしたのは、睡眠不足のせいで情緒が不安定になっていたせいかもしれない。
「じゃ、薬湯だけでも飲んで」
器を差し出したムトの手を、ルカが何気なくはらった。
「あっ!」
ムトの手から器が飛んでいく。
ほんのりと温かい薬湯が、ベッドとルカの脛にこぼれた。
「ちょっと!」
叫んで、ムトははっとした。
ルカの小さな目が、大きく見開かれている。
「……だ、大丈夫?!」
怒鳴ってしまった自分に驚きつつ、ムトはルカの前にかがんだ。
脛に飛び散った薬湯のせいで、皮膚が赤くなっている。
「痛む? 薬を──」
「ほっといてよ!」
いきなり、ルカが叫んだ。
ムトの動きが止まる。
唇をゆがめたルカの表情を、探るように見つめる。
「ルカ?」
「……いらないって言ってるのに」
ルカの声が震えていた。
「飲みたくないと言ってるのに、姉さんはいつも無理に飲ませる」
「飲まないと発作がひどくなるわ。ルカの身体のためを思って──」
「ちがう!」
ルカは、ムトを睨みつけた。
「姉さんは自分のために飲ませてるんだ。看病が大変だから」
ムトは息を呑んだ。
まさか、そんなことを言われるなんて──。
(どうして?)
憧れていた結婚生活は破綻した。
パン工房でも、嫌味ばかり言われて過ごした。
幸せになりたくて、幸せになってほしくて、手探りしながら努力しているのに砂を噛む思いを味わわされてばかり──。
「姉さんは、僕の気持ちなんてわかってない。考えようともしないんだ」
その言葉に、箍が外れた。
ムトは、足元に転がった器を乱暴に拾い上げた。
「だったら、好きにすれば?」
懸命に表情を抑えた視線を、ルカに突き刺す。
「お節介だと思ってるなら、やめてあげる」
そして、そのまま部屋を出た。
目頭が熱くなった。
鼻の奥がじんと痛む。
声に出して泣いてしまいそうで、ムトは赤い唇をきつく噛みしめた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
……あんなことを言うつもりじゃなかった。
大好きな姉さんに、あんなひどい言葉を投げてしまうなんて。
ルカは泣いていた。
ベッドに突っ伏して、声を殺して泣いていた。
ムトが部屋に入ってきて、いつものように優しい笑顔を向けてくれたら、「ごめんね」と言うつもりだった。──でも、ムトは来なかった。
どれくらい突っ伏していただろう。
涙が出なくなった頃、そっと顔を上げて耳を澄ました。
隣の部屋からは物音ひとつしない。
朝から何も飲んでいないのに、急に尿意を覚えた。
ますます情けない気分になる。
ベッドの下から砂を敷き詰めた壺を取り出し、用を済ませた。
こぼれた薬湯の青臭いニオイとからまって、息が詰まりそうだ。
濡れたむしろと腰巻が、肌にまとわりついて気持ち悪い。
外に行きたい。
風に当たりたい。
歩きたい。
ルカは立ち上がり、隣の部屋をそっと覗いた。
やはり、ムトの姿はない。
戸外から往来を行く人の声が聞こえる。
売り子の声が混ざる。
ムトは買い物に行ったのかもしれない。
家に一人だとわかっていながら、忍び足で戸口へと歩く。
無断で外出すると、いつも叱られてきた。
戸外に顔を出すと、むっとする熱気が肌を刺す。
表通りには、思ったより人の姿がなかった。
よく軒下で話し込んでいる向かいのメヒ婆さんと、その隣に住んでいるマトナおばさんの姿もない。ルカは足早に家を出た。
午後の通りに、灼熱の陽ざしが突き刺さる。
大通りを進むルカの足が、自然と河岸へ向かっていた。
あまり外出したことのないルカにとって、唯一なじみのある場所だ。
神聖なる文字──ヒエログリフを眺めたくなった。
神と対話する聖なる文字は見ているだけで、心が洗われる。
(そうだ。神殿に行こう)
ルカは迷いなく歩いていった。




