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セスの刻紋 ── ピラミッドに落書きした少年 ──  作者: 鬼丸 千
第3章 出現

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第18話 兵舎へ

 書記と兵士が去ると、どんよりとした空気だけが残った。

 隣の部屋からは、ルカの寝息が聞こえている──。


「参った」


 ついに、ダクトがため息をついて椅子に腰を下ろした。


「ムト、ビールを頼むよ」


 弾けるようにムトが走り、壺と杯を持ってきた。

 なみなみと注いだビールを一気に飲み干し、頭をかく。


「王命とあっては逆らえない。セス、明日は早めに家を出るぞ」


 セスは無言でうなずいた。

 納得しきれないのか、ダクトは険しい表情でビールをあおる。


 心配そうにセスを見るムトの長いまつげが、落ち着きなく揺れた。

 ふと、彼女は何かに気づいたようにセスの顔をのぞき込む。 


「なんだか……嬉しそう」


 その言葉に、胸がドキリと鳴った。

 心の声が顔に出ていたらしい。

 微妙に吊り上がっていたかもしれない口角を、セスは引き締めた。

 

 姉はするどい。

 自分でもあやふやだった心の高揚を、見事に言い当てた。

 

『きみの力が求められている』

 あの書記の言葉には、見習い石工の少年を奮い立たせる何かがあった。


 ダクトが調査隊に選ばれた日。

 胸の奥に芽生えたのは、父と離れる不安だけではない。

 

『僕も選ばれたい』

 そんな思いが湧いていた。

 

 時代を超える石造物には、思いが宿ると父は言う。

 石工として生きる運命なら、三大メルの謎と真実に挑戦したい。

 挑戦するべきだ。

 

 ホル・エム・アケトの裏側に見つけた空洞。

 あの三白眼の楽師の言葉。


『お前も、遺跡調査官になりたいのか?』

『父親のようになるのが夢か?』

『空洞に興味があるのだろう?』


 ある。

 今回の王命は思いがけない幸運だと、セスは思った。


「セスが選ばれるなんて、どうして……」


 ひとり言のように、ムトが言った。


 考えてみれば、確かに不思議だ。

 何千何万といるエジプトの民の中から、どういった経緯で十四歳の少年が抜擢されることになったのか。


 ダクトの表情からして、セスを推したのは別人だろう。

 調査隊に派遣されたほかの石工たちかもしれない。

 それにしても、たかだか十四歳の少年に与えられる任務とは──。


「書記の人が、何かを書き留めてた」

 

 誰に聞くでもなしに、またムトがつぶやいた。

 

「セスの身元を明らかにする記録だろう」


 意外にも答えが返ってきた。

 

「父さんも兵舎に入る前には、背丈や身体の特徴を確認されたからな」


 身元を明らかにするのは、逃亡を阻止するためか。

 庶民は入れない兵舎に寝泊まりするのだ。

 厳しい規則があるのだろう。


「セスが呼ばれるなんて驚きだけど、考えようによってはいい事だわ」

 

 そう言って、セスの肩をぽんと叩く。


「父さんがいなくなった作業場で、セスに何かあったらと気が気じゃなかったもの。どんな任務であれ、メドジャイ部隊もついているんだし、父さんとセスが一緒にいてくれれば、私もルカも安心できる」


 自分を納得させるかのように、ダクトも小さくうなずいた。

 

「セス、しっかりね。身体に気をつけて」


「大丈夫だよ。姉さんもしっかりね」


 ムトにおでこを小突かれ、セスが笑う。

 湯皿ランプの灯りが、戸口からの風にゆらりと揺れた──。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


 短い夜が明けた。

 目を覚ましたルカは、ダクトがいると知って大はしゃぎ。

 ところが、セスも兵舎に寝泊まりすると聞き、笑顔が消えた。

 食欲まで失ったようで、牛乳に浸したパン粥には目も向けない。

 ムトが差し出すイチジクにすら、手を伸ばそうとしなかった。


 あまりの落ち込みように、セスも戸惑った。

 ルカは今にも泣きだしそうだ。


「どうしたんだよ。寂しいのか?」

「ケンカ相手がいなくなって、せいせいするだろ?」

「四週間たったら、嫌でも戻ってくるから」


 何を言おうと、ルカの視線は床に落ちたきりだ。

 たいして言葉も交わさぬまま、ダクトとセスは日干しレンガの家を後にした。


 ふり返るたび、ムトが手を振っているのが見えた。

 ルカは──とうとう戸口まで現れなかった。


「さあ、行こう」


 以前のように、ダクトと大通りを歩く。

 営舎から現れる石工たちの波にもまれながら、隼神《ホルス》の壁門をくぐった。


 作業道を歩いていると、


「ダクトの兄貴だ!」


 石工たちが数人、二人に向かって駆けてきた。

 ダクトの作業班《ギャング》──今ではメゾンの作業班《ギャング》だが──にいるテスという男が、先頭を切っている。


「兄貴、いつになったら戻るんだ? メゾンにはもううんざりだ」


 口をとがらせる。


「今年の任務は、ホル・エム・アケトの彫刻と河岸神殿の増築だけだったのに、北の像は崩れるわ、解体になるわ、参道の軌道も変更とかで滅茶苦茶だ」

「そうだよ。メゾンの奴じゃ作業がまとまらない」

「兄貴がいないとダメだ」


 口々に不平をこぼす。

 ダクトは、しきりに頭をかいていた。

 

 三人の石工たちは、セスも作業班《ギャング》を離れると知って驚いていた。

 ホル・エム・アケト崩落の原因を探るのが任務だと思っている彼らは──三大メルを王墓に改築する計画はまだ知らない──、用心しろよとセスを励まし、持ち場へ戻っていった。

 ダクトとセスは、作業道をさらに北へと歩く。


 さらに、兵士の数が多くなってきた。

  

 三大メルが、想像を絶する迫力で目の前にある。

 この世のものとは思えない威圧感。

 ここまで三大メルに近づいたのは、生まれて初めてのことだ。


 歪みもない直線が、空に屹立する四角錐を形作っている。

 良質な石灰岩で覆われた表面には、亀裂すらない。

 陽光を浴びれば、人の目を射ぬくほどの光で周囲を照らし、月光を浴びれば、神秘の白光を放って闇に浮かび上がる神の遺構──。


「まずは兵舎に入ろう」


 思わず足が止まっていた。

 ダクトの背中を追い、セスは小走りになる。


 日干しレンガ造りの平屋の建物が見えてきた。

 最北に位置するメルの東側に、規則正しく並んでいる。

 十棟以上はあるだろうか。

 屈強な兵士たちが、常に忙しなく出入りしていた。

 彼らは昼夜を問わず、交替で三大メルの周辺を巡回しているのだ。


 ダクトは、迷いなく茶色い壁にはさまれた路地を歩いていく。

 兵士たちの好奇の視線が痛い。

 平然を装いつつ、セスは父の背中を追った。


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