第18話 兵舎へ
書記と兵士が去ると、どんよりとした空気だけが残った。
隣の部屋からは、ルカの寝息が聞こえている──。
「参った」
ついに、ダクトがため息をついて椅子に腰を下ろした。
「ムト、ビールを頼むよ」
弾けるようにムトが走り、壺と杯を持ってきた。
なみなみと注いだビールを一気に飲み干し、頭をかく。
「王命とあっては逆らえない。セス、明日は早めに家を出るぞ」
セスは無言でうなずいた。
納得しきれないのか、ダクトは険しい表情でビールをあおる。
心配そうにセスを見るムトの長いまつげが、落ち着きなく揺れた。
ふと、彼女は何かに気づいたようにセスの顔をのぞき込む。
「なんだか……嬉しそう」
その言葉に、胸がドキリと鳴った。
心の声が顔に出ていたらしい。
微妙に吊り上がっていたかもしれない口角を、セスは引き締めた。
姉はするどい。
自分でもあやふやだった心の高揚を、見事に言い当てた。
『きみの力が求められている』
あの書記の言葉には、見習い石工の少年を奮い立たせる何かがあった。
ダクトが調査隊に選ばれた日。
胸の奥に芽生えたのは、父と離れる不安だけではない。
『僕も選ばれたい』
そんな思いが湧いていた。
時代を超える石造物には、思いが宿ると父は言う。
石工として生きる運命なら、三大メルの謎と真実に挑戦したい。
挑戦するべきだ。
ホル・エム・アケトの裏側に見つけた空洞。
あの三白眼の楽師の言葉。
『お前も、遺跡調査官になりたいのか?』
『父親のようになるのが夢か?』
『空洞に興味があるのだろう?』
ある。
今回の王命は思いがけない幸運だと、セスは思った。
「セスが選ばれるなんて、どうして……」
ひとり言のように、ムトが言った。
考えてみれば、確かに不思議だ。
何千何万といるエジプトの民の中から、どういった経緯で十四歳の少年が抜擢されることになったのか。
ダクトの表情からして、セスを推したのは別人だろう。
調査隊に派遣されたほかの石工たちかもしれない。
それにしても、たかだか十四歳の少年に与えられる任務とは──。
「書記の人が、何かを書き留めてた」
誰に聞くでもなしに、またムトがつぶやいた。
「セスの身元を明らかにする記録だろう」
意外にも答えが返ってきた。
「父さんも兵舎に入る前には、背丈や身体の特徴を確認されたからな」
身元を明らかにするのは、逃亡を阻止するためか。
庶民は入れない兵舎に寝泊まりするのだ。
厳しい規則があるのだろう。
「セスが呼ばれるなんて驚きだけど、考えようによってはいい事だわ」
そう言って、セスの肩をぽんと叩く。
「父さんがいなくなった作業場で、セスに何かあったらと気が気じゃなかったもの。どんな任務であれ、メドジャイ部隊もついているんだし、父さんとセスが一緒にいてくれれば、私もルカも安心できる」
自分を納得させるかのように、ダクトも小さくうなずいた。
「セス、しっかりね。身体に気をつけて」
「大丈夫だよ。姉さんもしっかりね」
ムトにおでこを小突かれ、セスが笑う。
湯皿ランプの灯りが、戸口からの風にゆらりと揺れた──。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
短い夜が明けた。
目を覚ましたルカは、ダクトがいると知って大はしゃぎ。
ところが、セスも兵舎に寝泊まりすると聞き、笑顔が消えた。
食欲まで失ったようで、牛乳に浸したパン粥には目も向けない。
ムトが差し出すイチジクにすら、手を伸ばそうとしなかった。
あまりの落ち込みように、セスも戸惑った。
ルカは今にも泣きだしそうだ。
「どうしたんだよ。寂しいのか?」
「ケンカ相手がいなくなって、せいせいするだろ?」
「四週間たったら、嫌でも戻ってくるから」
何を言おうと、ルカの視線は床に落ちたきりだ。
たいして言葉も交わさぬまま、ダクトとセスは日干しレンガの家を後にした。
ふり返るたび、ムトが手を振っているのが見えた。
ルカは──とうとう戸口まで現れなかった。
「さあ、行こう」
以前のように、ダクトと大通りを歩く。
営舎から現れる石工たちの波にもまれながら、隼神の壁門をくぐった。
作業道を歩いていると、
「ダクトの兄貴だ!」
石工たちが数人、二人に向かって駆けてきた。
ダクトの作業班──今ではメゾンの作業班だが──にいるテスという男が、先頭を切っている。
「兄貴、いつになったら戻るんだ? メゾンにはもううんざりだ」
口をとがらせる。
「今年の任務は、ホル・エム・アケトの彫刻と河岸神殿の増築だけだったのに、北の像は崩れるわ、解体になるわ、参道の軌道も変更とかで滅茶苦茶だ」
「そうだよ。メゾンの奴じゃ作業がまとまらない」
「兄貴がいないとダメだ」
口々に不平をこぼす。
ダクトは、しきりに頭をかいていた。
三人の石工たちは、セスも作業班を離れると知って驚いていた。
ホル・エム・アケト崩落の原因を探るのが任務だと思っている彼らは──三大メルを王墓に改築する計画はまだ知らない──、用心しろよとセスを励まし、持ち場へ戻っていった。
ダクトとセスは、作業道をさらに北へと歩く。
さらに、兵士の数が多くなってきた。
三大メルが、想像を絶する迫力で目の前にある。
この世のものとは思えない威圧感。
ここまで三大メルに近づいたのは、生まれて初めてのことだ。
歪みもない直線が、空に屹立する四角錐を形作っている。
良質な石灰岩で覆われた表面には、亀裂すらない。
陽光を浴びれば、人の目を射ぬくほどの光で周囲を照らし、月光を浴びれば、神秘の白光を放って闇に浮かび上がる神の遺構──。
「まずは兵舎に入ろう」
思わず足が止まっていた。
ダクトの背中を追い、セスは小走りになる。
日干しレンガ造りの平屋の建物が見えてきた。
最北に位置するメルの東側に、規則正しく並んでいる。
十棟以上はあるだろうか。
屈強な兵士たちが、常に忙しなく出入りしていた。
彼らは昼夜を問わず、交替で三大メルの周辺を巡回しているのだ。
ダクトは、迷いなく茶色い壁にはさまれた路地を歩いていく。
兵士たちの好奇の視線が痛い。
平然を装いつつ、セスは父の背中を追った。




