第17話 思わぬ召集
「帰ったよ」
いつものように、ダクトはそう言った。
いつもと違うのは、どこか暗さを感じる表情とその声である。
夕食の片付けをしていたセスとムトは、駆け寄ろうとして足を止めた。
父の後ろに、男が二人いる。
兵士長の青い腕章を付けた男と石板を抱えた書記だった。
太陽が沈んで暗くなった室内に、三人は無言で入って来た。
「ルカは?」
ダクトが聞いた。
後ろの二人を、一瞥もしない。
礼儀正しいダクトには、どこか似つかわしくない仕草だった。
不機嫌さが漂っている──。
セスとムトは、互いに顔を見合わせた。
「もう寝たわ。食事の途中で疲れたみたい」
増水期の季節は一日の温度差が激しく、ルカはよく体調を崩す。
今日も姉が止めるのも聞かず、文字の練習をしたのだろう。
豆のスープに口を付けただけで言葉少なになり、少し横になると言って隣の部屋に入ると、そのまま眠ってしまった。
「そうか。ちょうどよかった」
ダクトは言い、後ろにいた兵士長と書記をふり返る。
「どうぞ」
二人の訪問客に椅子をすすめた。
ムトが慌てて、食卓の上のパン籠を棚に片付ける。
油皿ランプの灯りが揺れた。
室内を見回していた兵士長は「いや、結構」と短く言い、戸口まで歩くと腕組みをして外を睨んだ。
──まるで見張り番のように。
書記の男は、促されるまま椅子に腰を下ろした。
その視線が食卓の脇に向けられている。
床の上には木箱があった。
中には、ルカが使っている木製のパレットと葦ペンが入っている。
木製パレットは、貴重なものだ。
そもそも数が多くない。
書記を目指す富裕層の子どもでも、石灰岩の欠片をよく使う。
貴重である理由は、エジプトに樹木が少ないことにある。
ビブロス(レバノン)の内陸まで行かなければ、針葉樹の広大な森はない。
だが、たとえ労働層であろうと、ベッドや棚や椅子といった木製品を手に入れる手段はあった。富裕層が家具調度品を注文すれば、厚板や木片の使い残しが多く生まれる。ピラミッドタウンの通りには、そういった木片を売る店も多かった。
手先の器用な男たちは、その切れ端で木工職人並みに棚や椅子などをこしらえたりもする。セスの家にあるほとんどの家具は、ダクトの手作りだ。
ルカが使っている木製パレットは、ダクトが家具を作って余った木切れを、セスが小刀でなめらかに仕上げた物だった。表面にはいくつかのくぼみがあり、白漆喰も塗ってあるので、書いた文字を水で消すこともできる。
書記の口端には、笑みが浮かんでいた。
(石工の家の息子が、木製パレットで遊ぶとは)
そんな声が聞こえた気がした。
ルカの夢は、確かに無謀かもしれない。
それでも、他人に笑ってほしくはなかった。
木箱を片付けてしまおうと、セスが足を踏み出したとき──
「見事だ」
書記がうなずきながら、そう言った。
「実に美しい」
セスと視線が重なった。
「きみの作品か?」
「え? ……いいえ」
「では──」
書記の視線が、ダクトに向けられる。
「末の息子です」
ダクトが答える。感情のない声だった。
「末の息子」
書記は、その言葉をくり返した。
ダクトの声と違い、噛みしめるような口調だった。
セスは、ルカの木製パレットを見つめた。
さまざまな鳥の形が並んでいる。
それぞれまったく異なる意味を表し、異なる音があるという。
何百もある文字を組み合わせることで、記念碑に刻む銘文になったり、作物の収穫量の記録になったり、医学文献になったりするのだ。
膨大な知識が求められる書記だからこそ、社会的な評価も高い。
そのため書記の中には、ほかの職業──泥にまみれて働く煉瓦工や生臭い臭いが消えない漁師、ブヨに刺されながら炎天下で働く農夫など──を、格下に見ておおっぴらに馬鹿にする者も多かった。
高慢ちきな書記。
セスがそう嫌うのは、彼らの鼻高々な態度をさんざん見てきたからである。ルカが病弱でさえなければ、「書記になりたい」という彼の夢を、なんとか止めようとしたかもしれない。
セスは、目の前に座っている書記の横顔を見つめた。
剃り上げた頭が、油皿ランプの炎にてらてらと光っている。
裕福な暮らしを象徴するかのように、指にはいくつも指輪がある。
ラピスラズリの大きな首飾りが、肉付きのよい首を飾っていた。
その視線は、まっすぐ木製パレットに注がれている──。
「本題に」
口を開いたのは、ダクトだった。
書記の視線が、木製パレットからセスに向けられる。
「そうだった。これは失礼」
書記は、懐からパピルス紙をとりだした。
「セスくん、ここへ来なさい」
名前を呼ばれて、セスは驚いてダクトを見た。
険しい表情のまま、ダクトはうなずく。
ゆっくりと、セスは書記の前に立った。
のっぺりとした顔の書記は、セスの全身を確認するかのように、視線を上から下まで滑らせては、何かをパピルスに書き留めていく──。
ムトの不安が、セスにも伝わってきた。
戸口では、相変わらず兵士長が薄闇の通りを睨んでいる──。
やっと、書記の手が止まった。
満足げにうなずくと、その目が再びセスに向けられた。
「私たちが、ここに来たのは王命によるものである。石工監督官であり遺跡調査官であるダクトの長男セスよ。王の『永遠なる家』の建設に、きみの力が求められている。調査隊に入り、名誉ある任務を遂行せよ」
──いったい、どういう事?
「任務の内容は現地で伝える。期間は四週間だ。任務に対応する時間には変動があるため、兵舎で寝泊まりしてもらう。守秘義務については承知しているな? また、きみの家族には特別報酬が与えられる」
ムトが息を呑む音が聞こえた。
「父さん……」
ダクトは答えない。
書記は、パピルスをくるくると丸め、また懐にしまった。
椅子から立ち上がると、ダクトに向き合う。
「息子さんと一緒に、明日の昼までに兵舎に入るように」
戸口で待機していた兵士長と肩を並べ、そのまま通りへ消えていった。




