第15話 目抜き通り
「待てったら!」
弦楽器を背にした黒髪の美青年は、セスをふり返りもせず、ゆったりと砂地を蹴っていく。
小柄なセスは、作業場のあちこちに落ちている木づちや測量器を回収しながらの追跡だ。長身の若者とは足の長さもまるで違う。
隼神の壁門に着いた頃には、若者の姿は大通りに消えていた。
「また来たら、とっちめてやる」
荒くれ者のような口調で吐き出すと、少しは胸がすっとした。
抱えた工具を落とさぬよう、壁門脇の詰所へ入る。
「よう、遅かったな」
見習い仲間のジェムとセルラは、すでに手入れを始めていた。
「早く片付けて帰ろうぜ。祭りの準備を手伝わないと、母さんにどやされる」
母親のげんこつを思い出したのか、セルラが首をすくめながら言った。
手入れは慣れたものだ。
汚れを拭きとり、必要ならば油をさす。
欠けてしまった工具は、修理屋に持ち込む籠に入れる。
それでも数を確認して詰所を出る頃には、陽はすっかり傾いていた。
ジェムとセルラに手を振り、営舎の前で分かれる。
通りを歩く人波に、黒髪の美しい後ろ姿を見かけて、セスはまたあの楽師のことを思い出した。
三白眼の鋭い目つきではあったけれど、悪党には見えなかった。
声音にも涼しさを感じたし、物腰も柔らかだった。
それでも、怪しいことに変わりはない。
ホル・エム・アケトの裏側で、何をしていたのだろう。
彼も、あの空洞を覗いていたのだろうか──。
(父さんに報告した方がいいかもしれない)
でも、どうやって?
ダクトは兵舎に寝泊まりしている。
家族の立ち入りは禁じられているし、いつ会えるかもわからない。
『父が偉大だからといって、息子もそうとは限らない』
あの言葉が、胸をざわつかせる。
普通に歩いているだけで、やけに人にぶつかってしまうのは、いつもより通りに人が多いせいだ。数日後に迫るハピ祭りの準備で、街はすでににぎわっている。
通りには、ハピ神の像まで並んでいた。
ハピは豊饒の神であり、ナイル川の化身だ。
手には水壺をもち、頭にはパピルスの冠をいただいている。
特徴的なのは、その身体の色。
ナイルの水面のように、全身が深緑色をしている。
ナイル川の氾濫は、エジプトに繁栄をもたらしてくれる。
土壌が肥沃になれば、作物がとれる。
豊作であれば、国力は増す。
ただ、同時に氾濫は人々の暮らしに脅威ももたらす。
荒れ狂う川を抑制してくれるよう、人々は畏怖の念をこめて毎年この増水期の時期には、ハピ神に祈りを捧げるのだ。
「……姉さん?」
人波の中に、ムトの姿を見つけた。
辺りは屋台が並ぶ目抜き通りで、かなりの人混みだ。
「姉さん!」
大声を張り上げ、セスはぶんぶんと手を振った。
ふり向いたムトの表情が、一瞬固まる──。
きょろきょろと周囲を見まわしたムトは、不安そうに微笑んだ。
そして、セスに向かって片手をあげた。
ムトの腕には編み籠がぶら下がっている。
駆け寄ったセスが覗き込むと、平たいパン(おそらく蜂蜜入りだ)が入っていた。
「夕食の買い出し?」
「え? ……そ、そうよ」
ムトが立っていたのは、護符をずらりと並べた屋台の前だったが。
「僕も付き合うよ。今日は魚がいいな」
そこから二人は、食材が並ぶ通りへと向かった。
ルカの体調はかなり落ち着いていて、今日は散歩もできたらしい。
物々交換は、交渉力が鍵だ。
セスの機転とムトの笑顔で、二個のパンが大きな魚に換わった。
「今日は、焼き魚にしようよ」
セスが、はしゃいだ。
つい昨日、特別報酬でもらった上等の亜麻布を少しばかり奮発して、クミンとコリアンダーに交換したばかりだ。香草をまぶしてカリッと焼けば……想像しただけで、舌なめずりしてしまう。
急ぎ足の帰り道。
末っ子のルカが待っている家には、すでに油皿ランプの灯火が揺れていた。
「ただいま! 帰ったよ! 今日は、でかい魚を──」
食卓に座っていたのは、ルカだけではなかった。
「父さん?!」
数週間ぶりのように感じる父の懐かしい顔に、以前と変わらぬ笑みが浮かんだ。




