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透明街の人喰い獏 (第二幕)  作者: 葉里ノイ


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203-後始末①


 薄暗い宵の空が見下ろし赤い酸漿提灯が並ぶ馴染みの石段に、疲労を全身に浮かべた四人の獣が現れた。

 少し謝罪と調査をするだけのつもりが、何年も滞在をしていたかのような疲れる遠征だった。

 花街(はなまち)から漸く宵街(よいまち)に帰還できた。一人は片腕を失い、二人は負傷し、もう一人も連れ回されて疲弊している。

饕餮(とうてつ)は病院に行っていいよ。窮奇(きゅうき)も付いて行っていい」

「言われなくてもそのつもりだ。科刑所なんか行きたくねーからな」

蒲牢(ほろう)(にい)は?」

「俺は科刑所。狴犴(へいかん)に報告しておく。後で病院に行く」

「蒲牢兄の腕……たくさん生やしてもらえるといいな。ちょっと無くなっても不便じゃないように」

「片側だけ重くなるから一本ずつでいい……」

「阿呆言ってないで行くぞ」

 窮奇は饕餮の襟首を掴んで石段を下っていく。彼女は花街の診療所で蒲牢が歩けるまで回復するのを待つ間、カトブレパスにもう一度丁寧に診察してもらった。アイトワラスの模倣は所詮模倣であり、獣を仕留めるには威力が足りなかった。元のカトブレパスの能力よりも劣っている。それは彼女には幸いなことで、衝撃は大きかったが内臓に殆ど損傷も無く回復が早かった。

「行こう、獏」

「僕も病院で……」

「傷が痛むか? それなら病院で待ってていいけど……お面のことは言わなくていいのか?」

「あっ……新しいお面は欲しい……」

 苦渋の表情を険しく歪め、獏は渋々蒲牢に従った。お面が壊れた詳細を蒲牢は知らない。獏が説明するしかない。蒲牢の氷が直撃して壊れたと。

 暗い石段をとぼとぼと上がり、何処でも蔓延る蔦を踏んで科刑所へ入る。獏は気が重く、暗い顔で陰気な廊下を歩く。何度訪れても罪人には気が滅入る場所だ。

 隻腕でも不自由な素振りは見せず、蒲牢は獏の前に立って狴犴の部屋の扉を開けた。その瞬間に、中から幼い少女が飛び出した。

「っ!」

「良かった……自分の足で帰って来られて」

 飛び付いて抱き締めたのは桃色の髪の幼い少女だ。頭頂部を見下ろし、蒲牢は微かに眉間に皺を寄せる。その微かな表情の変化に、ソファに座っていた贔屓(ひき)は苦笑した。

鴟吻(しふん)、蒲牢はまだ傷が癒えていないんじゃないか?」

「あっ……ごめんなさい。思い切り抱き締めてしまったわ」

「大丈夫……もう傷口は開かないと思うから」

 痩せ我慢ではなく、花街を出る時にカトブレパスに確認したのだ。まだ痛みはあるが、縫い合わせないといけない程の傷口は開かないと。

 鴟吻は名残惜しそうに手を離し、蒲牢の何も無い腕を見る。千切れた袖はそのままで、断面を隠すように布が結ばれている。

 視線を感じ、蒲牢は鴟吻が何か言い出す前に口を開いた。

「腕は花街の医者が生やしてくれるって言ってた。ラクタに相談して決める」

「花街の……そう……信用できるならいいんじゃないかしら」

「うん。信用は無いけど腕は確かだ」

「え? 心配だわ……変な腕でも付けられないかしら?」

 そう言われると蒲牢も途端に心配になってきた。腕を生やすと言うのだから、当然元の自分の腕が生えると思っていた。もし猫の腕が生えてきたら何も掴めない。

「饕餮と一緒に窮奇も病院に行ったみたいだけど、窮奇も怪我をしたの?」

「してない」

「他の皆は傷だらけなのに? 窮奇は逃げるのが上手いの? それとも彼を庇ったの?」

「? ……ああ……窮奇は傍観してたから。フェルニゲシュとは戦ってないよ」

「え……? ロタの作戦では蒲牢と共闘、若しくは援護って……」

「気が乗らなかったみたいだ。索敵はしてくれたけど。焚き付けることはできるけど、俺も、饕餮を護ってもらう方がいいと思ったから。変転人も来たし」

「そう……じゃあ蒲牢は一人で? 不満はあるけど、蒲牢が納得してるならこれ以上は言わないわ。生きて帰ってきてくれて本当に良かった……」

 窮奇が共闘してくれていれば蒲牢の傷も少なく済んだのではないかと考えてしまうが、結果など誰にもわからない。意識を失っていた饕餮と変転人を置いて共闘することで、悪い結果になったかもしれない。今は過去をどうこうと言うより、目の前に生きて戻ってきてくれたことを喜ぶべきだ。鴟吻はそう溜飲を下げる。

「……花街のことを報告に来たんだけど、獏もここに入っていいか?」

 腕と作戦のことは一先ず横に置き、扉の前で人形のような顔で立ち尽くす獏を振り返る。狴犴の部屋には罪人を立ち入らせない隠し(いん)が施されている。

「ああ。印は解除している。鴟吻に千里眼で見てもらっていたからな。来ることはわかっていた」

 奥の自席で再会の遣り取りが終わるのを待っていた狴犴は、漸く口を開いた。獏と聞き、置物のように静かに傍らに立っていた灰色海月(クラゲ)も頭を下げる。変転人は獣の会話に割って入れない。千里眼で帰還を見ていた鴟吻に呼ばれて、監視役の彼女も科刑所で獏の帰りを待っていた。

 獏は灰色海月に微笑んで小さく手を振りながら恐る恐る爪先を出し、後ろから勢い良く突き飛ばされて部屋に飛び込んだ。

「ちょっ……心の準備!」

「何でこんな所に突っ立ってるんだ……? ――鴟吻、これ」

「ありがとう、ロタ」

 鴟吻の護衛の黒種草(クロタネソウ)は大きく膨れたビニル袋を彼女に手渡す。鴟吻に頼まれて急いで買って来た物だ。全速力は急には止まれない。扉の前に立ち止まっている者がいるとは思わず、衝突してしまった。

「これは蒲牢にと思って。こんなに傷付いて……何も力になれなくてごめんなさい」

「鴟吻はチョコレートをくれただろ。作戦は失敗したけど、作戦が無かったら変転人の避難も碌に……駄菓子がたくさん入ってる。これ全部俺に?」

「労い、御褒美……何でもいいわ。とにかくお疲れ様、蒲牢」

「獏にもあげる。お疲れ様。どれがいい?」

 片手でビニル袋の口を広げて覗き込み、蒲牢は真っ先に獏へ差し出した。

 鴟吻が千里眼で花街圏を覗けたのはほんの一瞬だ。出来事の殆どを知らない鴟吻と贔屓は目を丸くした。蒲牢が好きな菓子を独り占めせず先に選ばせるとは、稀有な光景だ。

「蒲牢が貰ったんだから君が先に選んでよ。僕はここで貰っても落ち着かないし……」

 そう言われると無理に押し付けることはできない。罪人は科刑所で寛げない。蒲牢は再びビニル袋を覗き込んだ。

「随分仲良くなったんだな。初詣に行っていた時から気になってはいたが」

「獏がいなかったら俺は死んでた。労いなら獏が受け取るべきだ」

「作戦は失敗したと言っていたが……」

「フェルニゲシュの力は圧倒的だった。だから作戦が悪かったわけじゃない。俺が戦わなかったら被害はもっと酷くなってたし、作戦が無かったら俺は戦ってなかったかもしれない。作戦があったから、皆協力してた」

 黒種草が考えた作戦は、龍属には龍属を、蒲牢が前へ出てフェルニゲシュと戦い、窮奇が援護をするというものだった。龍属同士の戦闘は激しいものになるだろう、そう考えて城下町の一部を捨てることにした。家はまた建てれば良い。棲んでいる変転人は避難させた。弱者は強者に頼る、そういう作戦だった。

「そうか……蒲牢の負担が大きい作戦だとは思っていたが。勝算のある確実な作戦を提案できなくてすまなかった」

「フェルニゲシュの攻撃は実際に見ないと威力の凄まじさが伝わらないよ」

「ああ……鴟吻が、ノートに大きな海老の天麩羅が描かれていると言っていたが」

「それはエビフライ」

「違うよフェルの攻撃だよ! 贔屓はわかって言ってるよね? 話の流れからして……」

 獏の疑念の目から顔を逸らし、贔屓は口元に笑みを浮かべた。察した上で獏の描いた絵を海老だと言っている。

「雑談はそれくらいにして、報告が聞きたいんだが」

 黒種草が提案した作戦がどう失敗したのか、いつ話し出すかと狴犴は待っていたが、このまま雑談が続きそうなので割り込んだ。

「報告書は提出してもらうが、蒲牢はその腕では難しいか? 贔屓が聞き取って、書いてもらうか?」

「それでいい。贔屓に任せる。獏の分もか?」

「獏は両腕があるだろう。自分の分は書け」

「じゃあまたお面だけ作ってあげてよ。獏にお面が無いと表情がころころ変わり過ぎて笑いそう」

「……また壊したのか。頑丈に作っているはずなんだがな」

 発言者の言葉に合わせて眉尻を下げたり威嚇したり表情を忙しくしていた獏はぴたりと真顔になった。そこまで表情がころころと変化しているなんて、自覚が無い。

「ねえ、狴犴。そのお面に印は仕込んでない?」

 エーデルワイスにも指摘され、獏は頭の隅にそのことを置いていた。気になっていたのだ。変な印でも施されてはいないかと。

「……。程々に頑丈に作っているだけだが」

「何? 今の沈黙!」

「先に報告だ。私達はフェルニゲシュがどうなったのか、どれ程の被害が出たのか、何も知らないんだ。悠長にしている間に死傷者が出ないなら、少しの雑談なら構わないが」

「獏、先に報告しよう。肩の荷が下りる」

 細長い袋に入った水色の弾力のあるゼリーを咥えながら蒲牢は獏を宥める。一気に緊張感が無くなってしまった。我慢できなかったらしい。

 鴟吻は疲れている二人をソファに座らせ、報告の態勢を作る。

 傷がまだ完治していない二人を休ませながら、宵街は長い報告を聞くことになった。


     * * *


 誰もいない常夜の小さな街に、ぽつんと明かりの灯る古物店がある。

 妖しい動物面を被った黒衣の獣は、置棚から持って来た古書を読んでいた。机上には獏が留守の間に灰色海月が拵えたマレーバクのぬいぐるみが四つ脚で立っている。あまり複雑な形はまだ縫えないので、ボールのように丸い体だ。

 花街から戻って彼此一ヶ月は経っただろうか。負った傷もすっかり完治した。科刑所で報告して以来、獏は花街の話を聞いていない。罪人に逐一情報は流れない。

 徐ろに店のドアが開き、隙間からちりちりとベルが鳴る。願い事の手紙を拾いに人間の街に行っていた灰色海月が戻ってきたようだ。店の奥とは言え一階に居るのにベルを鳴らすとは珍しい。獏は古書を閉じ、ドアの隙間から覗く彼女の許へ急いだ。

「どうしたの?」

 人間の街で何かまた変なものを拾ってしまったのだろうか。獏は警戒を強めてドアを開け、彼女の背後に控える人物を視界に入れて目を丸くした。

「アルさん、ベルさん! ……カトブレパス!? アルさん大丈夫!? 脅されてない!?」

「初めて聞く挨拶だ」

 両目を黒い包帯で覆った白藍(しらあい)色の髪の青年は心外だと腕を組む。大荷物を提げたアルペンローゼは慌てて説明に出た。

「先生は僕達とは別の用で、医者として同行してるんです。脅されてませんよ。僕は謝罪に来ました」

「謝罪?」

「もっと早くに来るべきだったんですが、城下町の復興や城の掃除など仕事が山積みで……漸く時間を得られました。ヴイーヴル様も同行予定だったんですが、面倒……殺気の件があるので今回は見送りました。僕が城を代表して、此度の混乱の謝罪を言い付かりました。宵街も謝罪にいらしてたんですよね」

 騒動が終わった後にヴイーヴルが、宵街に行くのは面倒だと言っていたことを獏は思い出す。もう花街から誰も来る気は無いのだと思っていたが、やはり謝罪に行くべきだと思い直したようだ。窮奇が庭を吹き飛ばした件などで、獏も謝罪に同行させられた。大方、その相手をしたズラトロクが謝罪に行くべきだと言い出したのだろう。

「……あ、そのブローチ……」

 アルペンローゼは赤黒い外套(マント)に白い石のブローチを留めていた。城に棲む獣が装着している大公の証だ。

「これは……大公の席に穴が空いてしまって審判の鐘を鳴らすことができないので、一時的に預かってるんです。大公の代役なんて身に余りますが」

「つまり地位だけ見ると、カトブレパスよりアルさんの方が上なんだね」

「飽くまで一時的なので……」

 一時的でも獣の上に立つのは重圧がある。アルペンローゼはゲンチアナの気持ちが今更わかった気がした。

「ここへ先に来たのは、宵街へ転送する許可が得られるか確認していただきたくて来たんです。宵街にはとても迷惑を掛けてしまったので。それに見慣れない獣もとなると警戒しますよね」

「カトブレパスはそうだね。クラゲさん、確認してくれる?」

「はい」

「ああ、白い獣も呼んでおけ」

「白い……? 蒲牢かな」

「貴重な素材を貰ったからな。このままでは治療と釣り合わない」

「わかりました」

 灰色海月は直ぐ様灰色の傘をくるりと回して姿を消す。

 宵街でカトブレパスの顔を知る者はまだ少ない。両目を覆い隠して如何にも不審な獣は、変転人に恐怖を与えてしまう。最近は宵街で暴れる獣が多く、変転人も敏感になっている。

「あの、宵街では罪人への差し入れは可能でしょうか?」

「え? 咎められたことはないから大丈夫だよ」

 アルペンローゼは提げていた袋から厚い紙箱を取り出して獏へと差し出した。

「ではこちらを。数が必要だったので人間の街でお詫びの品を買うのは断念して、僕が作ることになり、カヌレを焼きました。ヴイーヴル様がマカロンのようにカラフルな方が可愛いと言いまして……果物などを使用してカラフルにさせていただきました」

 罪人にも詫びがあるとは、獏は目を輝かせた。今まで食べたアルペンローゼ手製の菓子や料理はどれも絶品だった。

「わあ、色んな味を作ったんだね。嬉しいよ。クラゲさんと食べるね」

「獏さんにはお詫びと言うより、大変御世話になりました、と言うべきですね」

 アルペンローゼとベラドンナの大荷物は大量の詫びの品のようだ。カトブレパスは荷物持ちを一切手伝う気が無い。

「あ、そうだ。アルさんの怪我はもう治ったの?」

「はい。御陰様で。ロク様の御怪我も完治したんですが、角を生やす治療は最近始めたので、ワイスが興味津々で毎日成長観察日記を付けてます」

「ふふ。ワイスさんも元気そうだね。あんなに獣を嫌ってたのに」

「それはどうでしょう? ロク様を殺すまで死なないと言ってるので」

「ズラトロクが死ぬよりワイスさんが生き続ける方が想像できる……」

 だがエーデルワイスは変転人の寿命に足を踏み入れている。いつ死んでもおかしくない年齢だ。変転人は外見が殆ど変わらず身体能力も老いないが、死が近くなると漸く微かに変化が現れる。彼女にはまだその兆候は無いが、その瞬間は近い。人間には老衰があり徐々に弱っていくが、変転人はある日突然、電池が切れたように死ぬ。

「ワイスには今は城の片付けを手伝ってもらってますが、一段落すれば以前のように城の仕事は僕とミモザで負います。ロク様はワイスが死ぬまで面倒を見てやると言っているので、甘えてもらうことにします」

「そっか……そう言えば声は出せるようになったの?」

「はい。治療を受けて、先日漸く。まだ慣れないようで紙に文字を書くことが多いですが」

「それを聞いて安心したよ」

 ズラトロクとエーデルワイスは何だかんだ大丈夫そうだ。悲嘆に暮れているエーデルワイスをズラトロクが今までと同じように守っている。同じように大切な人を喪ってしまった者同士、理解できる気持ちがある。

「……海月さんがまだ戻らないのでもう一つ。先生は苧環(オダマキ)さんに会いたいそうなんですが、宵街にいらっしゃるでしょうか?」

「え!? 何でまた……?」

 アルペンローゼはカトブレパスを振り返る。両目を覆って視覚が制限されているはずの彼は視線を感じて簡潔に述べる。

「治療中に白い獣から聞いたんだ。変転人が稀に種を残すことは既知だが、全く同じ容姿でしかも記憶まで有する個体が生まれる例は聞いたことがない。話を聞いてみたい。そして解剖したい」

「狴犴に解剖なんて言い出したら宵街から追い出されて二度と入れなくなるよ」

「……。解剖はまたの機会にする」

「と言うか蒲牢は何でそんな話を君に?」

「ゲンチアナの件だ。先代以前はこんな大事にならなかったからな。今代は余りに未練が見える。普段視覚を遮断している分、僕は敏感なんだ。宵街に特殊な変転人がいるか尋ねた。麻酔で寝惚けている時だから簡単に話してくれたよ」

「たぶんそれ、蒲牢は無自覚だよね……? 花街で一番危険なのは君な気がしてきたよ……」

「お前の第一声で苧環は宵街にいることはわかった。後は僕が探す」

「勝手な行動をすると狴犴に怒られるんだからね……」

 今回は蒲牢の口から情報が漏れたので獏は咎められないだろうが、狴犴は罪人が嫌いだ。何を言われるかわからず、獏は釘を刺した。

 やや時間は掛かったが、灰色海月が戻ると獏は菓子箱を店内に置いた。花街の者達を自由に歩かせるわけにはいかず、獏も同行することになった。

「宵街に入る許可は出ましたが、変転人を怯えさせる行動を取った場合、その場で始末するか地下牢へ放り込む、とのことです」

「やはり以前より警戒されましたね。ですが許可をいただけて良かったです。門前払いも覚悟していたので」

 アルペンローゼは纏う空気を引き締め、灰色海月に頭を下げた。

 灰色海月は獏に冷たい首輪を装着し、くるりと灰色の傘を回す。一同は薄暗い宵街へ降り立ち、彼女の先導で上層の科刑所へ向かった。宵街を初めて訪れたカトブレパスとベラドンナは、石段を登りながら珍しそうに暗い周囲を見回す。

「花街と全然違う……」

 思わず声が漏れてしまったベラドンナを、獏は微笑みながら振り返る。最初は皆同じ感想を抱く。

「獏さん、僕が宵街の長と話す間、ベルを預かってもらってもいいですか? ベルはまだあの空気に慣れないでしょう。花街の騒動で、すっかり怯えてしまって。宵街に移住させてもらうことも考えてるんです」

「それは構わないけど、そっか……やっぱりあれは怖かったよね。変転人なら狴犴も歓迎してくれるよ」

 ベラドンナは目を伏せ頭を下げる。生まれて一年も経たない内に圧倒的な絶望感を植え付けられた。目の前で親しい人が跡形も無く吹き飛ばされ、一瞬で瓦礫の山となった光景を忘れることはできないだろう。そのままあの場所で暮らし続けるのは難しい。

「壊滅した城下町はその後どう? 家が無くなった変転人も多いよね」

「壊滅した区画に棲んでいた変転人はほぼ全滅です。フェル様と交戦した区画で破壊された家は急ぎ建設してます。その間、家を失った変転人にはテントを貸し出し、無事な区画で待ってもらってます。それと……城下町が凍らされた時に屋外にいた四人が凍傷、一人が運悪く死亡しました」

「えっ、蒲牢の氷で死者が出たの?」

「はい。治療が間に合わず。ですが殆どの変転人は屋内で避難していたので無傷です。氷はドアや窓を閉めていれば、中まで入らなかったようですね」

「凍ったのは僕の責任もあると思う。謝罪した方がいいかな」

「いえ。此度の件は城が全て責任を負うことになりました。フェル様を止めるために尽力してくださった宵街に、責任を負わせるわけにはいかないです。フェル様が暴走していたことは秘密ですが」

「そこは秘密なんだね。王様があれだけ破壊してたって知ったらもう棲むのは怖いもんね」

 話しながら獏はベラドンナを一瞥する。城に従事する者以外では、彼は唯一、王の恐ろしさを知る側になった。今回宵街を訪れたのは彼のためでもある。ついでではない。

 科刑所は平素の通り暗く、廊下には淡い光が落ちる。誰もいない科刑所を上がり、灰色海月が代表して狴犴が待つ部屋の扉を開けた。

 中には常のように狴犴が席に座り、傍らには白花苧環、そしてソファに贔屓と鴟吻、蒲牢、ラクタヴィージャまでいる。黒種草はソファから離れ、壁を背に立っていた。

「獏は下がっていい」

 最初に口を開いたのは狴犴だった。獏が部屋に入ろうか逡巡している間に入室を制する。

「だったらベルさんも下がっていい? ベルさんは只の荷物持ちで、こんなに獣がいたら怖いからね」

「荷物はそこの机に置いていい。苧環、付いてやってくれ」

「はい」

 言われるままベラドンナはソファに挟まれた低い机に荷物を置く。獣に囲まれて居心地が悪い。

 (めい)を授かった、長い前髪が片目を覆う花貌の白い少年は前へ出、今度はカトブレパスが制止の声を掛けた。

「君が苧環か。君はここにいてほしい」

「?」

 面識があっただろうかと白花苧環は狴犴へ視線を送る。記憶を手繰っても、黒い包帯で両目を覆う獣に覚えは無かった。死んで生まれ変わる前に顔を合わせていたのだろうか。

 視線を向けられた狴犴は微かに眉を寄せた。

「何故だ?」

「苧環にも話を聞いてもらいたい。話を聞くくらい構わないだろ?」

 無知であるよりは情報を知っている方が良い。だが知らない獣から言われると警戒が先に立つ。話を聞く以上の何か、いや聞くだけで何らかの攻撃となるかもしれない。

「……先生、このままでは支障が出ます。これから和平を行おうと言うのにこれでは……」

「呼び止めないと出て行くだろ」

 謝罪に来ただけのアルペンローゼはどうしたものかとカトブレパスを見上げる。カトブレパスは腕を組み、譲ろうとしない。

 花街側の者が何を言っても怪しまれる。助け舟が欲しいとアルペンローゼは獏を一瞥し、罪人が出しゃ張ると拗れそうなので獏は蒲牢へ視線を向けた。視線のパスを受けた蒲牢は小首を傾げながらも汲み取る。

「カトブレパスは目を隠してる間は能力を使えないらしい。だから警戒しなくていい」

「花街には知れ渡っていることとは言え、宵街にまで知れ渡らせるつもりは無いんだが」

 悪怯れずに他人の弱点を述べた蒲牢に贔屓は苦笑した。狴犴は真顔になった。

「蒲牢が言うなら信じよう。灰色海月、獏と共にその変転人を頼む」

「は、はい」

 油断していた灰色海月はびくりと背筋を伸ばした。獏がにこやかに手招くので、ベラドンナも頭を下げて息が詰まりそうな部屋を後にした。

「助かりました。あのままあそこにいたら内臓が捻り潰される所でした」

「そ、そんなに……。これはもう命を救ったと言っても過言じゃないね」

 身の軽くなったベラドンナは灰色海月と獏に続く。騒動の深い所に関わってしまったためにこんな遠方まで来ることになってしまったベラドンナは、長旅の所為もあるが顔に疲労を浮かべながら科刑所を後にした。



 ここからが本題だ。アルペンローゼも荷物を置き、床に片膝を突く。最初に宵街を訪れた時は膝を突かなかったが、今の宵街は花街に手を貸してくれた恩人である。恩人に対して礼儀を欠くことはできない。

「花街の城を代表し、謝罪に伺いました。共に深甚なる謝意も。王や獣の大公ではなく変転人であることをお許しください」

 問題の余りの大きさに遜るアルペンローゼに、部屋の中の変転人達は目を丸くした。変転人は敬語を使用する者が多いが、ここまで丁寧に述べる者は宵街にはいないだろう。

「……おい、こんな奴らにそんな畏まらなくていいぞ。もっと気さくな感じで」

「ロタ」

 鴟吻に嗜められても黒種草は気にせず吐き捨てる。彼女の兄弟、特に狴犴と贔屓はいけ好かない。変転人はよく頭を下げるが、その必要も無いと思っている。

 二人を見て贔屓は苦笑する。

「確かに少し固いか。もう少し肩の力を抜いてもいいよ。謝罪と言っていたが、凄い量の荷物だな」

 固いと言われるとアルペンローゼもどうすべきか途惑う。宵街では畏まる必要が無いのか、そう規則で定められているのか。

「あの……謝罪の気持ちをと、御菓子を作りました。人間の店に発注するのは目立つので……。御口に合えばいいのですが」

「それは気を遣わせてしまったね。君の作る料理や菓子は評判だと聞いている。皆喜ぶだろう」

「それなら幸いです」

「では……話を聞かせてもらおうかな。帰還した者達に大方の話は聞いているんだが、その後のことも聞きたい。フェルニゲシュや虫の脅威は完全に払拭されたのか、とかね」

「はい。御話しします」

 アルペンローゼは言葉を崩しながらも膝は突いたままで姿勢は崩さず、視線を贔屓から狴犴へ移した。狴犴の代わりに贔屓が対話をしているが、語る相手は宵街の統治者だ。

「フェルニゲシュ様は元のように穏やかになりました。とても安定しています。宵街に御迷惑をお掛けすることはもう無いです。虫の件は少々複雑ですが、虫の発案は城の大公であるアイトワラス様が、その虫を創り出したのがこちらのカトブレパス先生です。先生はアイトワラス様に条件を出され……結託しました」

「結託とまではいかない。少し協力しただけだ。アルペンローゼを解……検査させてもらえると条件を出され、断ることができなかった」

 解剖と言いそうになった口をすぐに閉じ、カトブレパスは淡々と言い直した。

「首謀者のアイトワラス様は死刑が確定していますが、現在は仕事の引き継ぎや諸々の処理を行っていてまだ生かされています。もし宵街からもアイトワラス様に質問などありましたら、今なら伝えることができます。先生は花街の貴重な医者なので死刑は保留にしていますが、何かしらの罰は受けることになります。問題の虫は花街内では根絶しましたが、宵街圏への旅行者の中にはまだ寄生されている者がいるかもしれません。その対策など、虫の詳細は先生からお願いします」

「ああ、後でな」

 淡白に遇われ、説明を待つつもりだったアルペンローゼは次の言葉が遅れた。

「……簡潔な報告になってしまいますが、首謀者と先生の刑には納得していただけたでしょうか?」

 虫の詳細はアルペンローゼでは説明し切れない。こんな穴だらけの報告で宵街は納得するのだろうかと冷汗を抑えながら反応を待つ。

「フェルニゲシュに罰は無いのか?」

「……ありません。謹慎処分にはしましたが、死刑にはしません。抵抗されると今度こそ花街が焼け野原になります。フェルニゲシュ様を圧倒できる獣がいないんです」

 対等に戦える獣と言うとフェルニゲシュと同じ龍属のヴイーヴルが思い浮かぶが、彼女は怖気付いてしまった。彼女の他に対等に戦える獣が花街にいない。花街の戦力はその程度だと明かしてしまうのは躊躇したが、ヴイーヴルが城では怯えているということを宵街はもう知っている。

「そうか。詳細は後程聞かせてもらうが、宵街としては残りの虫の処理を最優先に、そして花街は再発防止に努めてほしい」

 宵街からも罰をと言い出される覚悟もしていたが、アルペンローゼは宵街の思考が読めずに首を捻る。

(フェル様の謹慎処分を甘いとも言わない……。全ての報告を終えた後に纏めて罰を言い渡されるのか? 油断せずにいよう……。僕も宵街の変転人を傷付けた罰を受けることになるかもしれない)

 アルペンローゼは緊張から小さく息を吸い、脳へ酸素を送る。

「承知しました」

「花街は謝罪や虫より、ここに捕らえている獣の方に用があるのではないか?」

「!」

「次はその話にしよう。スコルとハティ……と言ったか。二人は宵街を脅かし、変転人に死傷者を複数出した。ハティは即刻始末し、亡骸は当時のまま保管している。スコルは地下牢に収容しているが、連日殺せと要求している。もし引き渡しを求めるなら持って行っても構わないが、殺せと言うならこちらで始末する」

「はい。ハティ様の死は把握しています。スコル様の処分は話をしてからと予定してましたが、話ができる状態ですか?」

「難しいだろうな。だが花街の者が話し掛ければ、会話が成立するかもしれない」

「そうですか……僕にも難しいかもしれませんね。会話の成立に拘らず、宵街との関係悪化を招いた御二人は罪人となるので、僕は死刑執行の(めい)を受けています。これ以上、宵街の手は煩わせられません」

「そうか。花街では変転人が獣の死刑を執行するのか」

「本来の死刑執行人は獣ですが、今回は特別です。大公も変転人も数が減ってしまったので、手の空いた者が穴を埋めています」

「死刑を執行した際は労おう」

「ありがとうございます」

「お前達はどれほど宵街に逗留するんだ?」

「許可を頂けるなら数日滞在して、まだ潜んでいる虫がいれば駆除に協力したいと考えてます」

「そうか。時間があるならいい。聞きたいことは、まだ山程ある。一日では終わらない」

「……そうですね。承知しました」

 当分、解放はされないだろう。それだけのことを花街はしてしまった。アルペンローゼは白いブローチを預かった身として、何日でも語る覚悟をした。

「……それなら先に、一つ構わないでしょうか?」

「何だ?」

「此度は大変な粗相を致してしまいました。宵街の協力に感謝して、友好の印として、城の庭園に咲く蔓薔薇を受け取っていただきたいのです」

 膝を上げ、大量の荷物の中から、桃色の花を咲かせる蔓薔薇の鉢を取り出す。城の庭園は獣の能力や虫に荒らされて多くの花が命を散らしてしまったが、生き残っている中からヴイーヴルがお気に入りのそれを選んだ。

「謹慎中のフェルニゲシュ様に代わって、ヴイーヴル様からの御言葉をそのままお伝えします。――庭はそっちの獣が吹き飛ばした所為もあって滅茶苦茶だけど、私の一番好きな可愛いピンクの薔薇は無事だったの。その幸運としぶとさを宵街に分けてあげる! ……以上です」

 声を張り、一言一句違わず伝えたアルペンローゼは最後に一つ小さく咳払いをした。

 吹き飛ばしたと聞いて、宵街も気不味くなる。窮奇の顔が頭に浮かんだ。吹き飛ばしたのは窮奇の風だ。その謝罪には行かせたが、有耶無耶になっている。

「花には水が必要です。窮屈な思いをさせて萎れさせてしまうわけにはいかないので、先に受け取っていただければと」

「……ああ。苧環、受け取って水を」

「わかりました」

 白花苧環は重そうな鉢を両手で受け取って下がる。小振りな花だが、元気に咲いている。

「虫は付いてませんか?」

「寄生虫ですか? そんな恩を仇で返すようなことはしませんよ」

「いえ。小さな蠅でも煩わしく思う人はいるので」

 花街に遠征して(しん)がズラトロクから受け取った薔薇から小さな虫が出現し、狻猊(さんげい)が工房で暴れたことは白花苧環の耳にも入っている。植物系変転人は植物の頃に受粉を手伝ってもらったことから虫には概ね好意的だが、喰おうとする虫は倦厭する。特に無色は毒と言う殺意を持っている。余計な虫は持ち込んでほしくない。

「虫と言えば……ロク様は無関係なんですが、ロク様が宵街の獣に差し出した花にアイト様が偵察虫を付着させて、宵街の転送座標を調べたと言ってましたね。その偵察虫の情報でスコル様とハティ様は宵街の中へ入ることができました」

「その偵察虫と言うのは……」

 白花苧環はまさかとカトブレパスを一瞥する。カトブレパスはふんと黒い包帯で覆われた目を細めた。

「僕の診療所から勝手に持ち出されただけだ。そこの蔓薔薇には何も付いていない」

 協力者なのか被害者なのか、カトブレパスの立ち位置が判然としない。だが彼の創り出す物は脅威であることは明白であり、今後は利用されないよう管理を徹底してもらいたい。

「……アルペンローゼはソファに座っていろ。カトブレパスから話を聞く」

「…………」

 カトブレパスは心底面倒臭そうな顔をした。彼に矛先が向くのは時間の問題だったが、予想よりも早かった。

 統治者の指示なら従うしかない。アルペンローゼは一旦ソファに腰掛けた。

 ここからは罪人の一人、カトブレパスへの尋問だ。変転人のアルペンローゼには優しく接していたが、獣に遠慮はいらない。宵街の獣達は瞳から感情を消した。


     * * *


 ベラドンナを連れて宵街の下層を案内していた獏達は、酸漿提灯の並ぶ石段沿いにある店の一つでクレープを頬張っていた。

「宵街は食べ物の店ばかりなんですね」

「皆、美味しい物には目が無いからね。生物最大の欲だよ、食欲は」

「こんな花束みたいなクレープは初めてです」

「花街にもクレープはあるよね?」

「ありますが、こんなに具材が中に詰まった物は無いです」

「そうなの? 苦手だったりする?」

「いえ。美味しいです。緑の粉は少し苦いですが……」

「抹茶だからね。僕の苺チョコスペシャル、一口食べていいよ」

「滅相も無いです」

 知らない物に興味を示して抹茶チョコ味を選んだベラドンナだったが、クレープに突き刺さっているチョコレートケーキはともかく緑色の粉を舐めると苦くて眉を寄せる。だが一緒に食べると程良くて美味しい。

「私のプリンスペシャルはあげません」

「何も言ってない……」

 プリンアラモードを意識した小型のプリンが鎮座するクレープを守りながら、灰色海月は表情が乏しいながらも幸せそうだ。メニューのクレープに『スペシャル』を付けると、載せられるだけトッピングを増量してもらえる。

「ベルさん、宵街に移住するかもって言ってたけど、どう? 棲む?」

「……少し考えさせてください。花街とこんなに違うとは思わなくて……」

「宵街は暗いし狭いもんね。旅行だと思って暫く宵街に留まって考えるといいよ」

「はい。でも花街に戻ったら、嫌なことが戻って来そうで……人が目の前で死んだら、どうやって切り替えて生きていけばいいんですか? 目の前の花が枯れても何も思わなかったのに、人が死ぬとこんなに混乱するなんて」

「うーん……獣は死に無頓着な人が多いからね。同じ変転人に聞く方がいいかも。最年長も最年少もいる場所に連れて行ってあげるよ」

「いいんですか? 最年少はもしや、去年生まれた俺より年下ですか?」

「うん。今年生まれたばかりの年下だよ。四人もいる」

「初めての後輩……是非会いたいです」

 クレープを頬張りながら石段を少し上がり、横道の茂みを通って図書園へと抜け出す。穴の空いていた図書園もすっかり元通りだ。一度は腕が落ちた黒色蛍も、退院を許されて図書園の管理として再び顔を出している。まだ通院はしているが、繋げた手でぎこちなくも本を持つことができるようになった。

 図書園の中は天井から紫の花が垂れ下がり、ジャングルのように植物が茂っている。出入口からは遮る葉は無く、奥のカウンターが見える。そこに座っていた管理人の小柄な少年は来園者に気付き、読んでいた本からフード頭を上げた。

「獏さん、灰色海月さん……と?」

「宵街の見学に来たベラドンナさん。ベルさんだよ」

 紹介されたベラドンナは頭を下げる。黒色蛍も頭を下げるが、挨拶よりもまずは気になる物を指摘することにした。

「皆さんが手に持っている物は何ですか?」

「クレープだよ」

「図書園では飲食禁止だと御存知ないですか?」

「あ……」

「今後は入口の目立つ所に注意書きをしておきます。今回は特別に、本を見る間、ここで預かっておいてあげます。溶けた場合の責任は持てませんが」

「教育中の皆に会いに来ただけなんだけど……そう言えば姿が見えないね」

 図書園に入った時点で違和感があった。机と椅子は綺麗に元通りに並べられ、黒板も無い。黒色蛍以外の気配が無かった。

「もしかして卒業した?」

「新人さん達の様子を見に来たんですか? それならここじゃなくて、新しく建設中の施設の方へ移動しましたよ。図書園は復旧して人が来るようになったので」

「新しい施設? どんな施設なの?」

「まだ中は伽藍堂です。どんな施設にするか案が纏まってないようですね。最近は色々と……大変だったので」

 黒色蛍は目を伏せ、一度は切り離された腕を摩る。腕は繋がったが、時々この腕は本当に自分の腕なのだろうかとわからなくなる時がある。

「まだ痛む?」

「い、いえ、勝手に落ちないかと時々不安になるだけで、痛みはもう無いです。まだ少し動きは鈍いですが」

「それならいいけど」

 黒色蛍は頭を下げ、獏は手を振り、灰色海月も頭を下げる。花街でも頭を下げることはあるが、宵街はそれよりも多く頭を下げるのだなとベラドンナはクレープを食べながら思う。花街では先輩や目上の者に何かを頼む時や願う時に頭を下げ、地位の高い獣には片膝を突く。ベラドンナはジギタリスにそう教わった。

 新しい施設とやらの場所を教わり、獏達は石段を横切ってその施設を目指した。まだ中身は出来上がっていないようだが、どんな施設になるのか獏も楽しみだ。

 茂みに覆われた薄暗い路地を、壁に打ち付けられた形の異なる灯りが照らす。ベラドンナは知らない変な場所へ迷い込んでしまったような錯覚を覚える。

「ここ……かな?」

 いつもは下層で見掛けない地霊が、頑固に蔓延る蔦を切っていた。その向こうに四角い箱が積まれたような大きな石の塊がある。個人の家にしては大きいため、新しい施設で間違い無いだろう。

 足音に気付いた地霊は円らな目が付いた黒い顔を上げ、鼻をひくつかせる。頭には兎のような長い耳が、ずんぐりと大きな黒い体に土竜のような爪を持つ手が生えている。

「ツチブタ……?」

 長い耳を見て呟き、ベラドンナは一歩後退した。土豚のようで、土竜のようでもある。

「地霊だよ。大人しい下級精霊だから、安心して」

「ちれい……? 獣の一種ですか?」

「うん。家を建ててくれるんだよ」

「人型じゃない獣は初めて見ました」

「ふふ。初めて見るとびっくりするよね」

 地霊は鼻をひくつかせながら道を譲る。足を掛けないよう蔦を除いてくれている。

 道を通すと地霊は再び地面に視線を落とした。ベラドンナは人型でない獣が気になり、度々後ろを振り向きながら進んだ。

「……宵街は未知のものばかりです。馬鹿だと思われてませんか? 俺」

「え? 無知は馬鹿とは言わないよ。覚えてる最中に馬鹿になんかしないよ」

「成程……」

「この獏は口が上手いので、よく人を喰い物にします。なので言葉には説得力があります」

「どういう意味だ……?」

 灰色海月の言葉でベラドンナは混乱した。灰色海月は、獏は言葉で惑わすと言いたいのだろう。

 真新しい施設の扉を開け、獏はひょこりと中を覗く。黒色蛍の言った通り伽藍堂で、図書園から借りた本が積まれている机と椅子と黒板以外は本当に何も無い。図書園はたくさんの植物に囲まれて頭上には清流のような藤が下がり、書架が並んでいたが、ここには何も無い。あまりに殺風景で何かの実験場か広い牢獄のようだった。

 獣の来訪に一人前の変転人達はすぐに気付いて頭を下げる。黒葉菫(クロバスミレ)は腕の包帯を外し、金瘡小草(キランソウ)も退院していた。

「机の前に座ってるこっちの四人が君より年下だよ」

 机の前には新人の花韮(ハナニラ)野襤褸菊(ノボロギク)燈台草(トウダイグサ)蝮草(マムシグサ)白実柘榴(シロミザクロ)が背を向けて座っている。白実柘榴以外は今春に生まれたばかりだ。

 先輩変転人の空気が変わったことで、新人達も振り返った。見たことのあるマレーバクの面にはっとするが、それよりも手に持っている物の方に気を取られた。

「何それ……松明?」

 花韮が代表して眉を寄せながら問う。赤い苺が盛られているクレープは確かに松明のようだ。

「これはクレープって言う御菓子だよ。御菓子は初めてかな? 甘くて美味しいんだよ」

「甘くて……? それは花蜜よりも?」

「糖度は正確にはわからないけど、この甘さは花蜜じゃなくて砂糖だよ。一口くらいなら食べさせてあげるよ」

 獣が食べ物を差し出した所で、変転人は遠慮するものだ。特に一口だけ分け与えるなど、それはもう食べないと拒否をするか、小鳥が嘴で啄むが如く小さな一口にしなければならない。とても神経が磨り減る。

 だが新人は遠慮を知らなかった。花韮は興味津々で席を立ち、獏の苺チョコスペシャルに喰い付いた。平均的な一口の二倍ほどを攫った。

 獏は大きく欠けてしまったクレープを見下ろし、静かに唇を引き結んだ。これは落ち込んで眉尻を下げている。一人前の変転人達はそう察した。獣を落ち込ませるなど血の気が引く行為だ。

「何これ……花蜜とは違う甘さ……確かに甘い。美味しい……もう一口いい? そっちの二人でもいいわ」

「花韮!」

 落ち込む獣に遠慮無く畳み掛ける彼女に、一人前の変転人達は慌てて制止した。

「限度ってものがあるでしょ!」

「一口食べただけよ」

「あの、新しいクレープ買って来ます」

 金瘡小草が代表して前に出て嗜め、黒葉菫はクレープを買いに走ろうと腰を浮かせる。苺チョコスペシャルを売っている店なら知っている。

「いいよ……大丈夫……頭は無くなっちゃったけど、中にも苺が入ってるから……」

「クレープのメインって、頭の部分じゃない……?」

 洋種山牛蒡(ヨウシュヤマゴボウ)はこそこそと黒葉菫に囁く。聞こえていた灰色海月とベラドンナはそれぞれ自分のクレープに載っている果物と半分に割ったチョコレートケーキを獏のクレープに差した。

「大丈夫……クレープのメインは皮だから……」

「その形態のクレープだと、痩せ我慢にしか聞こえないですよ……」

 獏との付き合いが長い黒葉菫は、獏の性格も理解している。動物面で顔が覆われているが、かなり落ち込んでいる。牢の中では灰色海月が作る菓子しか食べられない獏は、彼女が作ることはない菓子を久し振りに口にして喜んでいた。

「それより、ベルさんが皆に訊きたいことがあるんだ。答えられそうなら答えてあげてほしいんだけど」

「ベル……? 新しい変転人ですか?」

 この中には彼と面識のある変転人はいない。洋種山牛蒡の指摘に獏ははっとした。落ち込んでいて失念していた。

「彼はベラドンナさん。愛称がベルさんだよ。花街から来たんだ。宵街を見学して、良い所なら移住するみたい」

「! 花街……そうですか。科刑所の許可は下りてますか?」

 脅威は去ったとは言え、花街と言う言葉にはまだ警戒してしまう。白所属の最年長である金瘡小草は表情を引き締めた。

「うん。その科刑所から来たんだよ」

「それなら私がとやかく言うことではないですね。質問とは何でしょう?」

 無色の最年長である黒色蟹も壁の隅に居るが、彼は浅葱斑(アサギマダラ)と休憩をしているため、白の最年長である金瘡小草が引き続き対応する。

 率先して話す彼女がきっと最年長だろうと、ベラドンナは勘違いをしながら質問を投げた。

「目の前で人が死んだ時、どう切り替えて生きればいい?」

「!」

 誰も想像していなかった重い問いだ。ベラドンナは無表情で、まだ若い変転人だ。それ故に死を嚥下するのは難しい。動物ならともかく、植物が死を理解するには感情がもっと育たないと困難だ。命が尽きると動物は『死ぬ』と言うが、植物は『枯れる』と表現するのだから。

「花街では多くの犠牲者が出たと聞いてる。それをすぐに切り替えるのは難しいと思う。時間を掛けてゆっくりと、慌てずに起き上がって」

「ゆっくり……」

「貴方は花街に頼れる人はいる? 仲の良い人、気を許せる人、支えてくれる人。何でもいいよ」

「俺はまだあんまり人と喋ったことがない。一番良くしてくれた先輩が死んだ。これからどうすればいいかわからない」

 金瘡小草は助けを求めるように獏へ目を遣った。白の中では最年長である彼女にも助言が難しいようだ。

「ベルさんは去年変転人になったばかりなんだ」

「そうだったんですね……。宵街には一人で来たんですか?」

「アルさん……変転人と、花街の医者の獣と来たよ」

「その変転人とは親密ではないんですか?」

「アルさんは城の従者だからね……」

「成程。ならベラドンナも城で働かせてもらえばいいのでは?」

「お城が騒動の元凶だって、ベルさんは知ってるよ。巻き込まれたからね。元凶で仕事って、心労で倒れちゃいそうだよ」

「そうですか……。ごめんなさい、ベラドンナ」

「いえ……」

 無知は馬鹿ではない。況して悪ではない。つい先程、獏が教えてくれたことだ。だが無知は人を傷付けることもある。

 あまりに多くの犠牲を見たベラドンナに、金瘡小草も掛ける言葉を迷ってしまう。彼女も多くの死を見てきたが、一度にではない。もし一度に多くの死を突き付けられたら自分は平静を保てるのか、自信が無かった。

 その暗鬱とした空気を裂くように、音を立てて椅子から立ち上がる者がいた。

「――辛気臭いの! 黒が暗いのは色だけにするの!」

 小学生のような幼い容姿の少女、白実柘榴である。

「お前が幾ら落ち込もうと死者は戻らないの」

「落ち込むと言うか、これから誰に仕事を聞けばいいのかと」

「仕事が無かったら自由に遊んでていいの! 自由を謳歌するために私達は根を足にして変転人になったの!」

「! 自由……。彼女はもしや、大ベテランの変転人ですか?」

「う、ううん……たぶん君と同じくらいの時期に変転人になったばかりだよ……」

 何やら感銘を受けたようだが、彼に必要だったのはベテランの言葉ではなく歳の近い変転人の軽い言葉だったようだ。

「この足はもう根じゃない……土の上を歩いてもいいんですよね。遊びはまだわからないので追い追いになりますが」

「気持ちが晴れたようで良かったよ。歳が近いし、ザクロさんなら良い友達になれるんじゃないかな」

「この人とはたぶん合わないのでいいです」

「ふっ、怖気付いたの」

 白実柘榴は不敵に笑う。ベラドンナは猛毒ゆえか突然切れ味を見せてきた。

「おい、ベラドンナ。お前の武器は何だ?」

 会話も暗い空気も漸く途切れたので、蝮草は気になっていたことを尋ねた。初めて武器を生成したのが当日やら三日やら、同じ日に変転人になった仲間にも一人先を越されて、彼は焦りがあった。

「護身用にナイフはある。でも生成する方はまだ決めてない」

「こんなに癒される言葉を聞いたのは久し振りだ」

「百年くらい生きた奴みたいなこと言ってるの……」

「武器を生成できないと戦闘に駆り出されることはないんだろ? 皆、そんなに戦いたいものなのか?」

 武器を考え倦ねていたのは事実だが、城下町が吹き飛んだことを受けて、ベラドンナは戦う気持ちが薄れてしまった。一介の植物が何故手足を動かして戦わねばならないのか、理解ができない。

「教育に悪影響……」

 新人達が武器の生成を放棄してしまったら、新しい無色の変転人を作り出した意味が無い。それは由々しき事態だ。金瘡小草は渋い顔をしながら獏を一瞥し、獏も汲み取った。

「ベルさん、他の所にも行ってみようよ。カフェとか」

「本当に食べ物の店ばっかりだな」

「じゃあさっきの図書園でもいいよ。クレープを食べてからね」

 どれほど強力な毒を有していても、血の気が多いかは別の話のようだ。三人は急がずのんびりとクレープを頬張り、教育中の一部の変転人は羨ましそうにそれを見詰めた。


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