202-残されたもの
部屋の中に張り付いていた霜が溶けて水溜りが広がる頃、蒲牢の瞼はゆっくりと持ち上がった。彼は蔓の蔓延る天井をぼんやりと見上げる。
目覚めたことを部屋に居た獣の少女も気付き、蒲牢から抜けた二本の角を自分の頭に立てて覗き込む。カトブレパスに付き添っている獣だ。角を手にした者は何故同じことをするのか。蒲牢はぼんやりと瞬きをする。
「先生、白いのが起きた」
「角のことを訊いておいてくれ」
壁を隔てた向こうから男の声が聞こえる。薄い壁のようだ。
「白いの。この角、貰っていい? 治療代」
「治療代……ってことは、治療されたのか……」
「治療したのは先生だけど」
麻酔はよく効いて、治療中の記憶が全く無い。今は感覚が鈍い。体を起こすことはできないようだ。会話はできるが思考も鈍い。
「角は別にいいけど……俺が寝てる間、どうなった……?」
「知らない」
「…………」
「氷は溶けた」
獣の少女は角を片手に纏めて持ち、ドアを開ける。
「先生、角は別にいいって」
「よし」
暫くはまた無言の時間が過ぎ、呼ばれたカトブレパスは漸く手を離した。両目を覆っていた黒い包帯が無いことに蒲牢は気付いたが、思考が鈍く、警戒心が出なかった。
「動けるか?」
「無理そう……」
一言だけ問い掛け、カトブレパスは背後のドアから向こうへ顔を出した。この診療所は奥に小さな部屋が幾つもある。サンルームを経由する奥の部屋は増築を重ねた物だ。
「獏、白い獣が覚醒した」
「えっ、本当!?」
薬の材料が入った瓶と植物の鉢に囲まれた部屋の中で、指示された幾つかの木の実や根などを擦り潰していた獏はぱっと輝く顔を上げる。カトブレパスに頼まれ、蒲牢が目覚めるまで薬の調合を手伝っていたのだ。
「手を離してるってことは、ズラトロクの内臓パズルも終わったの?」
「ああ。もう二度としたくない。臓肥桃で足りない治療はしたくない。腸を短くしてやりたかったが、何とか詰められた」
「短くならなくて良かったよ……トイレが近くなる所だった」
カトブレパスの後に続き、獏も蒲牢のいる部屋を覗く。途中の部屋に黒いカーテンが引かれた場所があり、ズラトロクが寝ているのだろうと察する。
蒲牢はぼんやりと天井を見ていたが、獏が部屋に入るとぴくりと肩が動いた。動くのはそれだけで、起き上がることはできない。
「蒲牢、もう痛くない?」
「わからない……体の感覚が薄くて。手も動かせない」
「まだ麻酔が効いてるんだね。腕は一本無いままだよ。話せるなら大丈夫そう」
その言葉で、蒲牢は片腕を失っていたことを思い出した。
「動けるようになるまでここに居ていいよね?」
確認のために獏は背後のカトブレパスを振り返る。彼は二人の方など微塵も見ずに蒲牢の抜けた角を興味深く見回していた。白珊瑚のような形で、白翡翠のような半透明の美しい角だ。
「ああ、良い代金を貰ったからな。鹿の角はいつでも採集できるが、龍の角は今後もう得る機会は無いかもしれない」
「鹿と同じにするなよ」
医者は何故龍を鹿に例えようとするのか。蒲牢は不満だ。
「鹿の角は再生能力があり、定期的に抜けて生える。一部の欠けを治す部分再生ならともかく、多くの龍属にそんな能力は無い。だがお前の角は抜け落ち、この獏が言うにはまた生えるそうだな。鹿に近い」
「鹿に……近い……」
獣と只の動物を同列に語られ、カトブレパスの説明を脳が拒絶しようとする。
「龍属なら鹿の能力より優れているはずだ。ズラトロクの折れた角の再生に役立つ」
「……? あいつ、角が折れたのか?」
蒲牢はズラトロクが診療所に運ばれたことを知らない。隣室にいることにも気付いていない。
「仕方無いな。恩を売っておいてやるか」
「治療するのは僕だが」
蒲牢ができるのは角の提供だけだ。カトブレパスは視線を上げ補足した。
「お前の失った腕は、再生させたいならさせてやる。激痛を我慢できるなら、だが」
「激痛なんて聞いてない」
「当然だ。言っていないからな。完全再生能力を持つ生物を参考に作り出した薬――再生を促進する物質と多能性幹細胞を投与する。……何も理解していない顔をしているな」
「知らない言葉が出て来たとは思ってるけど、顔は元からこうだから」
幹細胞は人間の再生医療でも利用されているが、カトブレパスはそれに倣ったわけではない。そもそも人間の治療法を獣にそのまま利用することはできない。参考にはできても、獣に効果があるかはわからないのだ。
「もう少し噛み砕く。獣は元々治癒能力が優秀だからそれを利用し、再生日数が比較的短いプラナリアやウミウシを参考に人型に適合させ、更に力業で短期間で再生させる。形容し難い激痛が襲うはずだ。変転人だと耐えられない。実験例は少ないから正確な痛みの程度は言えないが、獣でも情け無く泣き叫ぶかもしれない」
「真面目な説明かと思ったのに、急に力業……。痛いのは絶対力業の所為だろ。絶対泣かない」
「一時的に再生を促すだけだから、次に腕を失った場合もまた自然に生える、なんてことは無い。一度切りだ。イモリやメキシコサンショウウオの内臓再生能力を買ってズラトロクの内臓も再生しているが、あいつの麻酔が切れる頃が楽しみだな」
「……麻酔が切れないようにすればいいのに」
「残念だが、麻酔の効果は永遠じゃない。再生速度はそこまで速くない。再生途中で麻酔の効果は切れる。アルペンローゼの治癒能力を調べれば速度の飛躍が期待できるのに。あの部分再生能力の高さは素晴らしい。解剖したい」
「…………」
「無知な奴にもわかりやすく説明したつもりだが、もっと専門的で詳細な解説を聞きたいか?」
「疲れたから遠慮する」
「ふむ」
ヴイーヴルに言われたことを気にしているのだろう。カトブレパスは簡潔に述べて角に興味を戻した。
傍で聞いていた獏は、激痛とはどの程度のものなのかと身震いする。獣が泣き叫ぶなど尋常ではない。
「再生速度を低下させるなら痛みも緩和されるが、何日……いや何ヶ月掛かるかわからない。……この角、鹿とは比較にならないほど硬いな。刃が毀れそうだ」
説明に飽きたカトブレパスは蒲牢の白珊瑚のような角を摩りながら部屋を出て行く。アリスも素材に夢中の彼に付いて行った。代わりに獏が雲間から顔を出す月のように覗く。
「一日は安静にして、その後に腕の返事をすればいいって言ってたよ。ラクタも腕を生やせるかもしれないし、宵街に戻ってから決めてもいいと思う」
「ありがとう、獏……。獏の怪我は?」
「してもらったよ。特大の絆創膏を貼られて包帯を巻かれた」
「そう……無事で良かった。他の皆はどうなった? 動転した時の氷で怪我してないといいんだけど」
「蒲牢とズラトロクのことで一杯一杯で、外には出てないんだよね。ワイスさんはアルさんの所に行ったよ。アルさんは妖精の所に一人ぼっちのはずだから」
「……終わった、のか?」
「外は静かだし、たぶん……?」
蒲牢が撃ち落とされた後、フェルニゲシュがどうなったのか、この診療所の中の者は誰も知らない。霜や氷は蒲牢の意識が落ちて間も無く溶け出し、今はすっかり元通りで所々に小さな水溜りが残っている程度だ。
「ほら、もう蒲牢は休んでてよ。僕はその間しっかり働いておくから」
「働いてるのか? 扱き使われてないか?」
「薬の調合をしてるだけだよ。ちょっと楽しくなってきた所」
「楽しいならいいけど」
傷に障らないよう獏はドアを閉め、調合へと戻る。カトブレパスが机上に様々な形状のナイフを並べ、蒲牢の角を睨んでいた。どうやらナイフでは切れないらしい。
蒲牢は以前抜けた角を輪切りにしていたが、一体どうやって切ったのか後で聞いてみようと思いながら獏は席に着く。
「……獏。そこに出しておいた眼球と骨、乾燥蛇も潰しておいてくれ」
「眼球……? 楽しくなくなってきたかも……」
「――カトブレパス! 拘束するわよ!」
机上に集中していた獣達は、外れて風通しの良いドアを踏んで現れた女に一斉に訝しげな顔を向けた。女は三つの目を同時に横へ逸らした。
「どうして両目を解放してるの!?」
「両目を塞いだままパズルはできないからな」
「パズル? 何を遊んでるのかしら……?」
「杖は出さないから、木に話し掛けるのは止めたらどうだ?」
出入口の脇に生える木に向かって話していたヴイーヴルは、恐る恐るカトブレパスの方を向き、彼の眉間に焦点を当てた。
「あら? 獏もいたの?」
「蒲牢の治療をしてもらってたからね。ズラトロクもいるよ」
「え? ロクも!? よ、良かったわ……私一人でもうどうしたらいいかと……」
「今は寝てるよ。内臓パズルで疲れ果ててる」
「な、内臓パズル……? パズルってそれ!? ロクもそんな恐ろしいことになってたのね……。でも良かった。生きてるなら安心だわ」
「元気なのは君だけみたいだね。フェルはどうなったの?」
診療所の中の者達はそれが最も聞きたい。暴走していたフェルニゲシュがどうなったのか、外から来た彼女なら知っているはずだ。
「フェルは首輪が正常になって、意識が無いから城で寝かせてるわよ。アイトも捕まえて閉じ込めたから、後はカトブレパスだけよ! 観念なさい!」
「今は蒲牢とズラトロクの様子見をしてるから、もう少し待ってほしいんだけど……。二人とも損傷が酷くて、蒲牢の傷口が開かないか僕も心配なんだよね」
「う……そんなことを言われたら、私もロクが心配……。わかったわ……でも、おかしな真似をしたらすぐに連行よ!」
「ヴイーヴル。この角を切れるか?」
「全然話を聞いてないわねカトブレパス」
差し出された一本の白珊瑚の角に杖を翳し、何だかわからないがヴイーヴルはついと杖を振る。炎で焼き切ろうかと考えたが、この診療所は燃える物が多いので水圧で真っ二つに切断した。
「成程。獣の能力で切れるのか」
「私の話を聞きなさいよ」
「聞こえている。アイトワラスが捕まったんだろう? いい気味だ。それで僕はいつアルペンローゼを解剖させてもらえるんだ?」
「聞いてないわよね……」
自分は捕まらないと確信しているようだ。神経の図太さにヴイーヴルも言葉に詰まる。交渉した相手が捕まったのだから、代価として差し出されたアルペンローゼの話も無かったことになるだろうに、カトブレパスはアルペンローゼの解剖を諦めない。
「貴方の処分は、ロクが目を覚ましたら相談して決めるわ。はあ……アイトは死刑だし、スコルとハティも戻って来ない……全然鐘が鳴らせないわ……」
弱音を吐きながら泣きそうになる。ズラトロクが生きていたことだけが救いだ。花街はもう滅茶苦茶だ。
項垂れる彼女の背後から視線を感じ、獏は全開になっている出入口に目を遣る。見覚えのある二種類の角が様子を窺っていた。
「……窮奇に……饕餮?」
見つかってしまったと羊角は慌てて引っ込むが、牛角は動かない。羊角はもう一度角を覗かせた。
「目を覚ましたの? 饕餮」
「……おはよう」
「おはよ」
敗北が悔しかった饕餮はやや剥れながら顔を出した。窮奇に支えられながら立ち上がる。意識は戻っても、まだ体中が痛い。
「おい獏、こんな所で暇そうだな」
「暇そうに見える? 薬を作ってるんだよ」
「こっちはこの女に引き摺り回されてんだよ!」
ヴイーヴルを指差し、窮奇は顔を顰めて毒突いた。生きの良いアイトワラスを捕らえて水の縄で縛り上げて担いだヴイーヴルが、窮奇と饕餮の居場所へ飛んで来たのだ。別行動をする前に居た場所に留まっていたので、窮奇達はすぐに見つかった。手を貸してほしいと懇願された。
「へえ。素直に言うことを聞いてるの?」
「あの暴走してる獣を取り抑えられるのは今しかないとか言われたら、さすがに断れねーだろが! また暴れたら面倒臭いだろ!」
「君が言うことを聞くなんて珍しいと思っただけだよ。饕餮はもう大丈夫なの? こっちは蒲牢が休んでるけど命に別状は無いよ」
「蒲牢兄生きてるの!? いないから死んだと思った……」
「生きてるよ」
元気が無かった饕餮の顔がぱっと明るくなった。蒲牢の姿が見えずに心配していたようだ。
「あとこいつ、氷に滑って転び過ぎて擦り傷だらけだ。持って行け」
背後に待機していた無色の黒い青年を抓み出し、窮奇は彼の背を押した。共に壊れた城下町を走り回ったベラドンナだ。慣れない氷上で苦労したらしい。
「すみません……氷があんなに滑るとは知らなくて」
昨年変転人になったばかりの彼は全てに対して経験が乏しい。氷に触れたことも、凍結した地面を見たことすらなかった。雪なら経験はあるが、氷の滑り方は異常だ。
「私も疲れたから、少し休むわ……」
自分が何とかしなければと気丈に振る舞っていたヴイーヴルは、ズラトロクが生きていると知って強張っていた肩の力が抜けた。壊れてしまった花街を復興させるのはもう自分しかいないと不安で一杯だった彼女は、安堵してフラフラと椅子に腰を落とした。
「ここは休憩所じゃない。集まるな」
「いいじゃない! 少しくらい休んでも! 今の城は休める雰囲気じゃないのよ! 凍って死んだ虫がたくさん転がってるし!」
「僕を罪人扱いしておきながら……ふん、僕の身は当分安泰だな」
カトブレパスは他人事のように呟き、手元の角へ興味を戻す。花街の罪人は皆等しく死刑に処されアイトワラスも例外ではないが、協力相手が死刑だと言われても彼は興味が無いようだった。
* * *
エーデルワイスが人間の街の廃墟に戻った時、彼はベッドの上で目を開けて、遠目に妖精達に見詰められていた。
「……ワイス」
部屋に入ってきた彼女に、彼――アルペンローゼはすぐに気付く。彼女は疲れ切り、暗い顔をしていた。
呆然とドアの前に立ち尽くし、崩れるようにベッドへ駆け寄り膝を突く。予め書いておいた紙切れを枕元に落とし、エーデルワイスは埃っぽいベッドに顔を埋めた。
『アナが死んだ』
アルペンローゼは痛む体に鞭打ち、ゆっくりと体を起こす。暫く眠って、ある程度は回復した。
「……止めた方がいいと思ったんだが、止められなかった。フェル様の所へ行くと言ったアナの目が嬉しそうだったから」
「!?」
エーデルワイスは目を見開いて顔を上げる。贄となる自分の運命を知り、最初はあんなに暗い顔をして不安そうだった彼女が何故嬉しそうな顔をするのか。理解できなかった。
「アナは何度か僕に相談したことがある。自分は無能なんだと。何年経っても武器を出せない、仕事も手際が悪い、と悩んでいた。人によって得意なことは違うと言っても、僕と比べてしまうようで……。そのアナが、自分の使命を知って……迷っていたようだが、吹っ切れたようだった。自分にしかできないことがあると、不安の奥に嬉しそうな光を輝かせて。説得も考えたが……できなかった」
エーデルワイスは呆然とアルペンローゼを見上げ、震える手で文字を書き殴る。不安定なベッドの上で、ペンが紙に穴を空けた。
『何で止めなかったの!? 止めてほしかった! アナの命は獣のためにあるんじゃない!』
「ああ。アナの命は獣のためにあるんじゃない。僕のためでも、ワイスのためでもない。アナの命はアナのために、だからアナが決めたことを否定できなかった」
「…………」
「アナはフェル様に殺されたのか? フェル様はどうなった?」
『何でそんなに冷静なの!? アルは悲しくないの!?』
「悲しくないわけがない……でも泣くと、後悔が襲う」
普段は仕事に必要が無いため表情が乏しいアルペンローゼも、充分に感情が育っている年齢だ。目には薄く悲しみの膜が覆い、零れないよう耐えている。
「もっと時間があれば、もっと考えることができたと思う。皆、時間が無かったんだ。今も……もう少し、整理する時間が欲しい」
「…………」
ゲンチアナが死んだことをまだ事実として受け止められない。ふわふわと漂う水面の泡のようだ。
悲劇を知っていたエーデルワイスがもっと早くに伝えれば良かったのかもしれない。だがフェルニゲシュの首輪が綻び始めるのは五十年前後置きだと刷り込まれていた。こんなに早く綻ぶなんて想像していなかった。時間はまだあると思っていたのに、あっと言う間に無くなってしまった。
エーデルワイスには何度目の喪失感だろう。ぼんやりとする頭は、もう何も考えたくないと言っている。
暫し呆然と妖精に見られながら、エーデルワイスはアルペンローゼの袖を引いた。
『アル、私の声が出るようになったら、どう思う?』
唐突な問いだったが、アルペンローゼは素直に気持ちを述べた。
「ワイスが話せるようになったら、暗闇の中でも会話ができる。咄嗟の時に服を引くだけじゃなく、声で伝えることができる」
『詰まらない答えね。声を取り戻す手術を受けるか、ズラトロクに訊かれた。あいつが潰した喉なのに、本当に自分勝手』
「じゃあ話せるようになったら、ロク様に謝れと言えるようになるな」
エーデルワイスは瞳を丸くし、睫毛を伏せる。それは中々魅力的な提案だった。紙に書く文字には感情を乗せ難く、伝わり難いと常々思っていた。感情を乗せるには様々な言葉で飾る必要があり、言葉が増えると読ませるのが遅くなる。気持ちを伝えるために、声ほど早いものはない。
『アルは言葉が上手い。そんなの、声が欲しくなる』
「少し元気になった?」
『今のアルは名前を呼んだこともない。名前を呼んで、振り返ってくれるのを楽しみにしてる。アナの名前も呼びたかったけど』
「僕も……忙しくて、あまり話す時間は無かったな」
残された二人は、これから忙しくなる。城下町や城の被害の詳細を二人はまだ知らない。ゆっくりと悲しむ時間は、もう少し先になるだろう。
* * *
診療所で安静にするズラトロクと蒲牢はカトブレパスに任せ、ヴイーヴルは今度は獏を引き摺って古城へ向かった。窮奇と饕餮は診療所に置いて行くことにした。カトブレパスが逃げないように見張りだ。
「……何で僕が連れ出されるのかわからないんだけど」
「他に付いて来てくれる人がいないし、宵街も巻き込んじゃったから、顛末を聞きたいでしょ? わざわざ宵街に行くのも面倒……今は立て込んでて大変だし、獏が伝えてくれればいいわ」
「面倒が本音だよね? 僕も怪我人なんだけど。まあ話を聞くくらいならいいけど」
すっかり氷が溶けて元通りになった野原を歩いて古城へ向かうが、振り向くと寂しくなった城下町が見える。壊滅してしまった城下町は瓦礫の山だ。
「城下町の人ってまだ避難してるの?」
「さっきベラドンナに、もう大丈夫って言って来てって頼んだから、外に出て来てるんじゃない? 後でミモザも行かせるわ。生き残ってたらだけど……」
古城に辿り着き、城壁を見上げる。あちこち穴だらけだ。絶望的だ。
大きな城門を潜ると広がるはずの美しい庭は荒れ果て、花は無惨に踏み潰されていた。降って来た瓦礫や虫の下敷きになった花は完全に茎や枝が折れている。
「獏はどれからしたい? アイトから話を聞くか、生きてるミモザを捜すか、大掃除か」
「聞き覚えのない作業が一つ増えてる気がするんだけど。二人で大掃除なんて、何日掛かるんだか。やっぱり人命優先でしょ」
「人手を得てから掃除ってことね」
「掃除はするとは言ってないんだけど。……君に宵街は振り回されっぱなしだからね。手伝う気も出ないなぁ」
「ぅ……どれのことを言ってるの……? 振り回したつもりはないんだけど」
「最初に科刑所で殺気を放ったこととか、人間の街も滅茶苦茶に吹き飛ばしたでしょ」
「あれは……舐められないように、遣るしかなかったのよ」
「変転人なんて皆、舐めてこないでしょ?」
「ぐ……」
その通りである。変転人は獣に逆らわない。ヴイーヴルは花街の中で怯える時間が長く、何もかもに警戒してしまった。今では少し、遣り過ぎたかもしれないと思わないでもない。
庭に生者の気配は無く、瓦礫に殆ど埋まった城の出入口の隙間から中に入る。全てが終わってしまったが、漸く獏は再び城の中を調査することができた。人差し指と親指で輪を作る。
城に入った瞬間からヴイーヴルは身を縮こまらせたが、もう癖になっているのだろう。今は獣と擦れ違うことなど無いと言うのに。
フェルニゲシュの攻撃で体が吹き飛ばされたり瓦礫で潰れたミモザは転がっているが、生きている個体は見つからない。立ち入り禁止の塔の方向もしんと静まっていた。
「本当に皆同じ顔をしてるんだね、ミモザは。何でなの?」
「ミモザは働き者の駒なのよ。働き蜂みたいなもの。チェスで言うと、たくさん居る歩兵。個性を持つと余計なことを気にするから、個性が出ないよう、人の姿にする時に特殊な薬を投与してるの。容姿や能力が均等になるように」
「均等? アルさんはミモザにも得意なことと慣れないことがあるとか言ってたけど」
「え!? 容姿だけ均等だったってこと? ミモザ専用に新しく作ってもらった薬なんだけど……先生に後で文句を言わないと」
その特殊な薬もカトブレパスが拵えた物のようだ。彼は随分と城に関わっていたらしい。
「あ……アルも迎えに行かないといけないわね。手が足りないわ……」
「アルさんの所にはワイスさんが行ったよ。……あ、ちょっと待って」
人差し指と親指で作った輪を覗いていた獏は、廊下に並ぶドアの一つの前でぴたりと止まる。ドアの向こうに潜む気配が感じられた。
驚かさないようゆっくりとドアを開け、薄暗い部屋を見渡す。
「もう怖いのは去ったから大丈夫だよー。誰かいるかな?」
そこは空き部屋で、棚やソファなど家具が端に寄せられていた。
「僕よりヴイーヴルが前に出た方がいいんじゃない? 知らない獣に大丈夫だって言われても信じられないよ」
「そ、そう?」
「何で君が怖がるの……」
遣り取りを聞いていたからか、家具の向こうから衣擦れの音が聞こえた。家具の隙間から二人を覗き、恐る恐る黄色い頭を出す。
「良かった。生きてる子がいる。怪我はない? こっちにおいで」
「ヴイーヴル様……?」
同じ顔の二人のミモザが手を握り合い、家具を乗り越えて姿を現す。何処も欠損しておらず、支えも無く一人で歩けている。
「怪我は……擦り傷くらいですが」
「他の皆は……」
「二人も人手が見つかって良かったわ。早速掃除を」
仕事を言い付けようとしたヴイーヴルは、唐突に腕を引かれて後方へ蹈鞴を踏んだ。
「もう……何よ獏……」
「ミモザの死体の掃除を同じ顔のミモザに遣らせる気? 人の心が無さ過ぎるよ」
「人じゃなくて獣だもの……」
「君は獣でも、ミモザは変転人だよ」
「じゃあ誰が死体を片付けるの?」
「そんなこと言われても……掃除屋とかいないの?」
「死体処理はアルが遣ってるわ。ワイスも遣ってると思うけど。人間の街での掃除は、城の管轄じゃないから知らない」
「うーん……二人はまだそっとしておいてあげたいよ。掃除より先にアイトワラスから話を聞くよ」
「別にいいわよ」
こそこそと話す二人を不安そうに見詰めていたミモザ達は、人形のような整った顔の知らない獣に微笑み掛けられてびくりと跳ねた。
双子のような二人のミモザは壊れていない小さな休憩室に連れて待機させ、獏とヴイーヴルは城の残りも歩き回った。
大方見て回ったが、ミモザの生存者はたった三人しか見つけられなかった。
「立ち入り禁止の塔の最上階の部屋は見た?」
立ち入り禁止の塔の地下牢へ行く道すがら、獏はふと思い出した。立ち入り禁止の塔の最上階ではミモザの死体が折り重なり、虫が蠢いていた。あの部屋は一体何だったのか。
「えっ? そ、それは……見た? って何?」
「虫がいたんだけど」
「え!?」
「その反応は見てないってことかな。ミモザだと思うんだけど、死体がたくさんあったよ。お城を案内してもらったけど君はそこには連れて行ってくれなかったから、どうしてかな?」
「……。もしかして、虫の発生源ってそこ……? そこは……」
言うか言うまいかヴイーヴルは悩むが、ここまで来て隠すものは無いだろう。もう何もかも知られてしまった。フェルニゲシュとゲンチアナの関係を知られ、それでも隠す意味などもう無い。
「……その部屋は、フェルの首輪を維持するための……儀式を行う場所へ転送する部屋なのよ。フェルはほら……獏も見たでしょ? 滅茶苦茶な攻撃をするから、被害が出ないよう別の空間に放り込まないといけなくて。間違って他の関係無い人が転送しないように、あの部屋だけを出入口にしたの。儀式の時しか行かないから、虫の温床になってたなんて知らなかったわ……」
首輪の維持のためにフェルニゲシュがゲンチアナを殺すことを『儀式』と呼んでいる。狂気をその一言で覆い隠そうとしている。
「殺虫剤を撒かなくちゃ……先生に強力なのを作ってもらわないと」
「その先生も罪人だよね?」
「そうだったわ……医者の後継者がいないと死刑にできない……」
花街は岐路に立たされているようだ。ヴイーヴルの心労を察して少しばかり同情しながら、獏は彼女に続いて地下牢への細く暗い階段を下りた。
左右に六つずつ鉄扉が並んでいた短い通路へ到着する。フェルニゲシュが暴走し、今は奥の扉は吹き飛んで失われていた。ヴイーヴルは一番手前の扉を軽く叩く。
「アイト、起きてる?」
「起きてるよ」
扉を隔てた向こう側から聞き覚えのある声が返ってくる。
「気分はどう?」
「上手くいってたのに……最悪の気分」
「獏を連れて来たから、宵街にもわかるようにもう一度話してくれる?」
「獏……ああ、あいつか」
アイトワラスの声は少し沈んでいたが、冷静だった。あれこれと画策し、漸くフェルニゲシュを解放できたのに、計画の成功は長くは続かなかった。
「獏、何でも訊いていいわよ。死んだら何も答えられないし、生きてる内に訊いておいて」
「死刑は確定なの?」
「色々遣ることがあるからすぐにってわけじゃないけど、私は鐘を鳴らすわよ」
既に答えが決まっているヴイーヴルは扉に向かって死刑を宣告するが、アイトワラスは沈黙しか返さなかった。
突然質問権を得ても、まだ状況を整理できていない。だが彼女の言う通り、死刑が執行されればもう何も聞き出すことができない。重要なことを聞き漏らせば、後で狴犴に何を言われるかわからない。
「それじゃあ……えっと……あの大きな虫を作ったのはカトブレパスなんだよね? 何で宵街も巻き込んだの?」
「宵街が聞きたいのはやっぱりそこか……」
静かだが聞き取れる程の声量でアイトワラスははっきりと答えてくれた。計画が水泡に帰してしまった今、黙っている必要が無くなってしまった。
「宵街を巻き込むつもりはなかった、なんて言ったら信じるか?」
「話を聞いてから考える」
「ハハ。それはいい。……カトが全部計画して管理してれば宵街は巻き込まなかったと思う。城の中でとにかく騒ぎを起こして邪魔な大公を全員城から出て行かせること、これがオレの計画だ。獣に毒を盛ったって効かないのはわかってるから、ミモザを標的にしただけ。直接虫を放り込んだらすぐに足が付くから、ミモザが変な行動をする、もしくはミモザから何か変な物が出て来る、ってことにした。もし体調を心配されて診療所に連れて行かれても、先生はこっちの味方だから。バレることはない」
「…………」
「……けど、ミモザは買物に行くから。城下町で他の変転人に接触する機会がある。城でもアルに移った。アルに虫が移ったことは先生にも怒られたよ。それでどんどん制御できなくなっていって……結果的に大公は出て行ってくれたんだから良かったんだけど、想定より犠牲が多かったな」
「つまり、君の読みが甘かったってこと?」
「何手も先を読めるのは才能じゃないか? オレはそこまで考えられなかった」
諦めたように言葉を吐くが、被害者はそれで納得できるはずがない。宵街は完全にただ巻き込まれただけだ。只の読みの甘さでだ。
「立ち入り禁止の塔の上で、ミモザに虫を寄生させてたの?」
「ん……? わざわざそんな所に連れ込まなくても、食べ物に混ぜておくとかで寄生させられるけど」
「じゃあ塔の上にミモザの死体が折り重なってたのは? 僕は姿を見てないけど、廊下を引き摺ってたよね? 血の痕はすぐに消えてたけど」
「何だそれ? すぐに消えたんなら、幻覚とか幻聴……」
怪訝な返事を投げるが、話しながらふと可能性を思い付く。幻視と幻聴を操る獣は城にいるではないか。
「スコルとハティちゃんか? 何をしてたんだ……?」
「手を組んでたわけじゃないの? アルさんが知らない間に、新しいミモザに入れ替えてたんじゃないの?」
「いやいや、知らないって。入れ替える? オレはそんなことしてない。もしかして……スコルとハティちゃんはミモザが何かに寄生されてるって気付いたのか? それで始末して入れ替えて? 寄生者が減る時があるとは思ってたけど……自力で虫を屠る免疫でもあるのかと。それで先生が虫を強化して……」
「強化したから騒ぎが広がったんじゃないの? 宵街にまでね。聞いてると頭が痛くなってくるよ……」
全て妙な噛み方をして悪い方へ流れてしまった。全ての出来事が一人の思惑ではなかったために犯人が浮上しなかった。
「後は何かある? 虫関係で」
「勝手に答えろって? 虫関係って言ってもな……宵街に関係あることなんて他にあったか? スコルとハティちゃんが宵街に行って粗相をしたのは二人が勝手にしたことだし」
「……あ、そうだ、ユニコーンは? 花街で襲われたって聞いたんだけど」
「あれ? 知り合いだったのか? 襲ったのはオレだけど」
「…………」
「虫騒ぎが大きくなったからな。罪を被って死んでもらっただけだ。宵街の獣じゃないし、関係ないだろ?」
「ユニコーンはね……宵街の寄生者から虫を駆除してくれた恩人なんだよ」
「えっ……恩人?」
「恩人を殺されて、宵街と関係ないってことはないよ」
「…………」
アイトワラスは口を噤んでしまった。恩人という言葉は彼にとってとても重い言葉だ。人間に殺されそうになっていた彼を救ってくれたフェルニゲシュを恩人だと慕っていた彼にとって、その言葉が一番胸に刺さった。
「……何か疲れたな。何百年も画策して、それもあっと言う間だった。一番わからないのはアナちゃんが自らフェルに殺されに行ったことだけど……でも、オレも、フェルが死刑してくれるって言われたら、嬉しいかもな……」
ぽつりと呟くアイトワラスの言葉は、獏とヴイーヴルには理解できないことだった。二人は顔を見合わせ眉を顰める。
「……少し、休ませる?」
「まだ現状を理解できてないのかもしれないわ……」
獏も整理する時間が欲しかったため、一旦休憩を取ることにする。質問をする獏の方が疲れてしまった。
「死刑までもう少し時間はあるけど、一旦最後に聞いておくわね。忘れそうだから。――アイトワラス。最後に何か、言うことはある?」
「へえ。情けを掛けてもらえるとは思わなかったな。最後か……じゃあ、アルの作ったオムレツが食べたいな。アルは生きてるだろ?」
「相変わらず好きねぇ」
ヴイーヴルは獏の耳元へ「アイトはオムレツと焼菓子が大好きなのよ。あげると百八十度、意見を曲げるくらい」と囁く。黒猫に変身したアイトワラスがクッキーを与えただけで去って行ったことを思い出し、獏は成程と合点が行く。
「死刑の朝に食べさせてあげるわ」
それからアイトワラスはけろりと、アルペンローゼが作る料理の美味さを、死刑囚とは思えないほど饒舌に語った。現実逃避なのか、本当に彼の料理はどれも美味なのだろう。
独りだったアイトワラスはフェルニゲシュに執着していたが、城に棲んでいた数百年でこうして対等に話せる獣に出会えていたことに、彼は気付いていなかった。




