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透明街の人喰い獏 (第二幕)  作者: 葉里ノイ


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201-喪失


「……ねぇアル……私、花街(はなまち)に行こうと思うの」

 鬱蒼と茂る木々の中に忘れられた人間の街の廃墟の一室で、白い少女は独り言を呟いた。その視線の先には少し埃を払っただけの古いベッドがあり、左の目元に黒子(ほくろ)がある整った顔立ちの黒い少年が眠っている。少年は治療を受けたが、まだ目を覚まさない。

 眠っている方が都合が良いかもしれない。纏まらない胸の内を吐露するにはぴったりだ。誰もいない壁に向かって話すより、意識が無かろうが人の前で話す方が、誰かに言った気分になる。自己満足だ。

「やっぱり使命って言葉が魅力的なのかな。空っぽだった私を満たせるものがある。何でもできるアルと、得意なことがあるワイスにはわからないよ。……でもこれも、使命を受け入れるために作られた感情だったりするのかな」

 少女は一度口を閉じ、眠っているか確認するように少年の前髪を払う。長い睫毛はぴくりとも震えない。

「フェル様と居た時間は私が一番長いと思うの。フェル様は玩具が好きみたいで、私にも遊んでほしいみたいだった。でも断ったら、それからは何も言わなくなった。フェル様が玩具で遊んでる所も見たことない。もしかしたら拒絶って、凄く悪いことなのかも。私は悪いことをした。だから今度は受け入れたいのかな。今のフェル様は怖いけど、いつもの緩い感じのフェル様をたくさん見てきたから、私が助けてあげなくちゃ、とも思うんだよね。すぐ脱走するし、世話の焼ける王様だから……ね、そうだよね、アル?」

 無意識に口元に笑みが漏れる。返事が無いことに安堵する。

「世話が焼けると言うなら……全ての獣がそうだな」

「!?」

 返事など無い、眠っていると思っていた少年の口から言葉が漏れた。少女は驚いて後退り、勢い余って壁に肩をぶつけた。

「お、起きてる……!?」

「少し前から」

 少年は閉ざしていた目をゆっくりと疲れたように開ける。全身に錘を付けたように重く、何処が痛いのかもわからないくらい全身が痛い。

「言ってよ! もしかして私の独り言、全部聞いてた……?」

「それはわからない。最初がどの言葉だったのか」

 獣の攻撃を受けて何故生きているのか、ここは何処なのか、何故ゲンチアナしかいないのか、他の皆は何処へ行ったのか――少年は様々な疑問が浮かんだが、尋ねた瞬間に彼女の独り言が誤魔化されそうで、疑問を全て呑み込んだ。

「花街に行こうと思う……って言った所」

「行くのか?」

「しまった……言わされた……」

 同い年だと言うのに、彼の方が上手(うわて)だ。そういう所も悔しい。アルペンローゼは眩しいくらいに何でもできる。

「フェル様に殺されに行くのか?」

 直接的な言葉で言ったのは、彼女が何をするのか理解しているか問うためだ。ふわふわと使命などと言う綿で包んだ言葉ではなく、剥き出しの現実を理解させる。

 否定をするのは簡単だ。だが今必要なのは否定ではなく、話すことだ。否定してしまえば彼女の顔は曇る。彼女が死にに行くことを否定はしない。

「怖いけど……私にしかできないことがあるのはやっぱり嬉しいよ。それが死ぬことでも。生き物は皆、何れ死ぬ。だったらただ自然に朽ち果てるより、使命って言う意味のある死の方がいいんじゃないかって思う。皆が庇ってくれて、私はたくさん考えた。考えた結果が……皆を裏切ることになった。他の皆には言えないかもしれないから……アルにだけは謝る。本当にごめんなさい」

 少女はベッドの前に立ち、少年に深々と頭を下げた。少年は目を丸くし、眠っている間に彼女の覚悟は決まってしまったのだと悟った。

 顔を上げた少女は少し困ったように、だが嬉しそうに笑っていた。彼女にとってその残酷な使命は、救いになってしまった。それはおそらく、彼女とは違う少年には理解できないことだろう。

「止めたら……」

「あ、駄目! アルに引き止められたら未練ができるかも。この未練は死ぬことを躊躇するんじゃなくて、皆に謝れなかったこと、だから……」

 もう変えられない。少年の重くて痛む体は動かない。彼女の腕を掴むことができない。何より、彼女の笑顔を曇らせることはできなかった。共に城に棲む獣に仕える同い年の同僚に対して、それ以上の接し方が思い付かなかった。アルペンローゼのできることは多いが、完璧ではなかった。

「フェル様を助けるね。首輪を掛ける方法を探す間、フェル様はずっと苦しむ……それをもう見てられない。怖いけど……行ってくるね」

 彼女が白い傘を取り出して転送するのを、何もせず見送ることしかできなかった。

 彼女に考える時間を与え、情報を共有する時間を割かなかった。それが悪い結果に転がってしまった。


     * * *


 フェルニゲシュの咆哮は凍った城下町の中にいる(ばく)蒲牢(ほろう)にも、町の外にいた窮奇(きゅうき)やエーデルワイス達、古城で途方に暮れていたヴイーヴルの耳にも届いた。

 ヴイーヴルは血の気が引き、凍った墓地を一瞥して城壁を飛び越えた。おそらく、草はもう必要ない。

(そんな……)

 エーデルワイスは窮奇の脚に捕まりながら、丸めた紙切れを凍った地面に落とす。紙はもう凍り付かない。それを確認して飛び降りた。足を氷に付けても彼女は凍結しない。窮奇も高度を落とし、自由になった片足でベラドンナを蹴った。彼もはっとして飛び降り、氷に立とうとして滑って転んだ。氷の上でも転ばず城下町に駆けて行くエーデルワイスの後を追おうとしたが、立ち上がることができなかった。彼が氷上に放り出されたのは初めてだった。

 獏は降って来た蒲牢の体を抱き起こしながら上空へ眉を顰める。王の首輪を維持する白い少女――ゲンチアナは蒲牢を護り、フェルニゲシュを護った。

「……げほっ!」

「蒲牢! 生きてて良かった……」

「……辛うじて……って感じだけど……」

 薄く目を開け、声はか細く掠れているが、喋る余裕はある。傷だらけだが、腕以外は欠けていない。自身も負傷している獏は自分の傷を棚に上げ、一先ず胸を撫で下ろす。

「結局……俺は誰も護れてない……」

「蒲牢は護ったよ。片腕で……怪我もして、被害が広がらないように誰よりも頑張った」

「両腕があったら、誰も死なず、獏も怪我しなかったと思うか?」

「それは……」

 あれこれと後悔しても、結果を見たからこそ悔しいだけだ。後に悔いるから後悔なのである。未来がわからないままで、皆手探りで最善を尽くそうとした。誰も、ゲンチアナを死なせたいなんて思っていなかった。なのに結果はこうなった。

 蒲牢から立ち上っていた黒い陽炎は薄れ、焦げ臭さと濃い鉄の臭いが漂う。残った腕も酷い火傷だ。

「すぐ病院に連れて行ってあげるからね。城下町は凍ってるから、外に出て……」

 獏はまだ凍結が城下町の外に及んでいると知らない。

「獏も怪我してるから、無理するな……」

 獏は花街の病院の場所を知らない。先に駆け込んだカトブレパスの診療所には誰もいなかった。大きな病院は無いと以前アルペンローゼが言っていたが、他の病院の場所を聞いておけば良かった。

「!」

 杖を翳して止血を行っていると、大きな影が地面を通過する。びくりと見上げ、その端を目に捉えた。

「ヴイーヴル……? フェルの所に行ったのかな。あっちは任せよう……」

 龍属には龍属でないと太刀打ちできない。蒲牢との戦闘で嫌と言うほど見せ付けられた。

 蒲牢は撃ち落とされたが、龍属相手に片腕であれだけ粘った。並の獣だと一分も持つかわからない、戦慄するほどの攻撃の応酬だった。悪夢を喰うだけの獏には、暴走するフェルニゲシュは手に負えない。



 エーデルワイスは氷上を駆けながらメイスを生成する。上空で咆哮を上げていた影を一瞬捉えた。それは糸を切られたかのようにぷつりと城下町に落ちた。

(嫌な予感がする……)

 白い息を吐き最短距離で、落下したであろう地点に辿り着く。

 家々の間に、横たわる黒い鰐の尾を生やした青年と、襤褸切れのように千切れた白い少女の上半身が転がっていた。

「……!!」

 そんなものを見て冷静になんてなれなかった。

(護れなかった……また護れなかった!)

 唇を噛み、息のある黒い頭へメイスを振り下ろした。

 殺すなら意識の無い今しかない。

 もっと早くに、殺したかった。

(アル……わたし、また駄目だった……)

 だが鉄球は頭を砕くことができなかった。大きなバケツを引っ繰り返したような水の塊が突如彼女を襲い、足を取られた。

「っ……!」

 氷に手を突き頭から落ちることは免れたが、氷と水で滑って体勢が大きく崩れてしまった。

「待って、ワイス」

 エーデルワイスはメイスから手を離さなかったが、空から飛び降りたヴイーヴルに柄を思い切り踏み付けられた。無色の変転人の武器は傷付くと、自身の体にも傷が付く。武器は頑丈だが、折れそうなほど強く踏まれれば体が軋む。

「状況がわからないけど……誰かが無理矢理アナをここへ放り込んだわけじゃない気がする。放り込もうとする人なんていない。自らこうなることを覚悟して飛び込んだのよ。アナは自分がフェルに殺されることで暴走を鎮められると知ってた。フェルを止めるためにこの選択をしたのよ」

 徐々に声が震え、双眸から涙が零れる。額の瞳も涙を溜め堪えている。こんな結果になって、悔しいのはエーデルワイスだけではない。今まで墓地を作ってきたヴイーヴルも辛かった。

「置いてこなければ良かった……。先生の、所為だけど……」

 助けられる方法があったのに、ゲンチアナに伝えられなかった。酷い擦れ違いだ。

 ヴイーヴルが早く墓地から草を採取できていれば、彼女はこんな目に遭わなかった。

「アナの決意を無駄にしないで……」

「…………」

 エーデルワイスは血が滲むほど唇を噛み、ヴイーヴルを睨み上げた。自由な手の袖から仕込みナイフを抜き、メイスを踏み付ける足へ切り付ける。

 肌を掠る前にヴイーヴルは後方へ跳び退き、その隙にエーデルワイスは飛び出した。

 冷たい氷の上に転がる腹から下が無いゲンチアナを拾い上げ、そのまま抱き締めて走り去る。

「えっ!? ワイス? 何処に行くの!?」

 フェルニゲシュには目もくれず、エーデルワイスの姿はすぐに建物の陰へ入り見えなくなってしまった。

 フェルニゲシュを殺そうとしないなら、呼び止めない方が良いのだろう。

 ヴイーヴルは先王として、始末をつける義務があった。



 走る灰色の少女が視界に入った獏は彼女を呼び止めようとしたが、その腕に抱く赤く汚れた白い頭部を見て潜めるように息が止まってしまった。すぐに我に返り、その手に抱く物よりも先に言わなければならないことを叫ぶ。

「ワイスさん! 病院の場所を教えて!」

「…………」

 エーデルワイスは声に気付いて獏を一瞥し、小さく口を動かして足は止めなかった。

「行く、って言ったよね……? 蒲牢、後もう少し、辛抱して!」

 ぐったりと動かない蒲牢を抱き上げ、獏はエーデルワイスを追って地面を蹴ろうとし――

「わっ」

 危うく転びそうになった。氷上を走る経験なんて無い。蒲牢に駆け寄った時は無我夢中で、どうやって氷上を走ったか覚えていない。雪上なら歩けるが、氷は別物だ。

「だ、大丈夫……落とさないからね!」

 重心を整え、走れないなら滑れば良いと慣れない滑走をする。自身の傷が痛んで歯を喰い縛る。触れるものを少し軽くすることができるとは言え、重量を零にできるわけではない。加算された重さ分、よく滑る。

「ワイスさん凄いな……氷の上を滑らず走れるなんて……。蒲牢も凄いよ。何処まで凍ってるの?」

 蒲牢からはもう返事は無かった。城下町を抜けても氷は途切れず、広い野原は時が止まってしまったかのように静かに凍り付いていた。位置を確認するため背の高い古城を一瞥し、見る角度が変わると城の壁面が光る。城まで凍っている。

 木々が凍り付いた森に入り、花街全てが凍っているのではないかと戦慄を抱き始めた時、前方を走るエーデルワイスが速度を落として止まった。

 彼女がズラトロクとキャンプをしていた場所とは距離があり、不気味なほど鬱蒼としている。

 蔦の絡み付いた御伽話のような小さな家が現れるが、これも凍り付いていた。先に訪れたカトブレパスの診療所だ。あの時は誰もいなかった。エーデルワイスはあの時のように誰もいなくても薬を借りるつもりだ。

 あの時と同じように、彼女は凍ったドアを勢いを付けて蹴破る。ドアは氷が割れる音と共に豪快に外れ、床に叩き付けられた。

 部屋の中には大きな瓶や植物が生えた鉢が彼方此方に置かれており、それらも含め壁も天井も霜で白くなっていた。


「騒々しい」


 奥の部屋から、先程はいなかった少女が忽然と現れる。カトブレパスと共にいた少女だ。

 少女は乱暴に侵入した者達を凝視し、二言目は発さずに踵を返して植物の陰に消えた。

 次に植物の間を潜って現れたのは、目を黒い包帯で覆っていないカトブレパスだった。目を晒していることに緊張感が走るが、彼は杖を持っていない。左右で色の違う印象的な双眸で侵入者を観察し、救える方に視線を固定する。

「そっちの角の獣なら助けてやれるが」

「! 本当に!?」

「嘘を言ってどうする。だが順序がある。失った腕は後回しだ」

「う、うん……僕には何もできないから、君に任せるよ」

「アリス、そいつを奥へ運べ。……黒い君も怪我をしているが、歩けるなら後だ」

 呼ばれた少女は植物の間を潜り、獏から蒲牢を受け取りさっさと奥へ運ぶ。蒲牢は何の抵抗も無く、意識が無くなっていることに獏は漸く気付いた。

 そのことにエーデルワイスは不満を示した。どう見てもゲンチアナの方が重傷だ。だがゲンチアナを抱えていては文字が書けない。険しい顔で睨むしかできなかった。

 何か言いたげな彼女に、すぐに奥へ戻ろうとしていたカトブレパスは気紛れに声を掛けた。

「失敗したか」

 手の物を置いて良いと、くいと床を指差す。

 離さなければ話すことができない。エーデルワイスはテーブルクロスを引き、それを床に敷いてからゲンチアナを下ろした。机に載っていた鉢が落ちて割れた。

「それをどうしろと?」

 鉢が割れても土を零しても、茎が折れていなければ植え替えれば良いだけだ。カトブレパスはそれには触れず、エーデルワイスが大事そうに抱えていた物を一瞥する。腹から下が無い死体だ。

『体を生やして! 腕が生やせるなら体もできるでしょ!』

「その理論で間違いは無いが、死者は蘇らない」

『医者は何でも治すものでしょ! 藪医者!』

「技師なら機械を何でも直せるかもしれないが、医師は死者を治せない。もし魂を喪った生物を動かせたとしても、それは只の人形だ。君は人形遊びがしたいのか?」

 エーデルワイスはカトブレパスを殺さんばかりに睨み付ける。

「君の知る彼女はもういない。受け入れろ」

 本当は、それがわかっていないわけではなかった。受け入れたくないのだ。

 獏は唇を噛むエーデルワイスを一瞥し、掛ける言葉も無くゲンチアナへ視線を落とす。誰が見ても助かるとは思えない。それでもカトブレパスなら何とかできると期待していたのに、呆気無く希望が砕かれた。

「いつまでも死に顔を晒していなくてはならない彼女の身になったらどうだ? 誰かがドアを壊して室内は霜だらけだが、その湿ったテーブルクロスを使っても構わない」

 今度こそ踵を返し、カトブレパスは奥へと植物の間に消えた。

 その途端にエーデルワイスは崩れるように蹲み込み、膝を抱えて顔を埋めた。殺し方は知っていても、彼女は弔い方を知らない。

「……ワイスさん、ちょっと冷たいかもしれないけど、椅子に座ろ。……わ、冷た」

 室内の霜が少しずつ溶けていく。天井から冷たい水滴が降ってきた。

 顔を上げないエーデルワイスの様子を窺いながら、獏は床に敷いたテーブルクロスでゲンチアナをゆっくりと包んだ。当然だが、彼女は瞼を上げることも声を出すことも無かった。



 ――結局、エーデルワイスは蒲牢の治療が終わっても顔を上げなかった。

 奥の部屋から最初に出て来たのはアリスと呼ばれている少女だった。

「そこの黒い方」

「……僕? 僕は獏だよ」

「獣の角が抜けた。勝手に抜けたから私の所為じゃない」

「蒲牢の角は勝手に取れるらしいから、気にしないで。僕が預かっておくよ」

「二本抜けた。一本欲しい」

「え? それは蒲牢に訊いてみないと……何で欲しいの?」

「新しい薬になるかもしれない。治療の代金はこれでいい」

「うーん……でもやっぱり蒲牢に訊かないと」

「あいつは暫く目を覚まさない。麻酔が効いてるから」

「ずっと目を覚まさない……なんてことはないよね……?」

「薬塗れだけど、死んでないから目覚める。今、ミイラ男にしてる所。お前も巻いてやるから来て」

「包帯を巻いてるってことかな……? ……ありがと。安心したよ」

 安心はするが、エーデルワイスの前で手放しで喜ぶことはできなかった。

 珊瑚のような形で白翡翠のような半透明の角を一先ず二本とも机上へ置き、アリスは奥へ戻って行った。獏も付いて行く。小さな植物と硝子窓に囲まれた部屋には蒲牢の姿はなかった。部屋は幾つもあるようだ。

 一人残されたエーデルワイスは呆然と俯き、部屋の奥の葉が再び揺れる。

 アリスがまた何か言いに来たのだと思ったが、そうではなかった。

 彼は少し足を引き摺りながら、エーデルワイスの前で立ち止まる。顔を上げない灰色の頭に彼は少し躊躇いながらも触れ、壊れ物に触れるようにゆっくりと撫でた。

 許可無く頭に触れられ、エーデルワイスは苛立つ。頭を撫でる不快な大きな手を払い、顔を上げてそいつを睨み上げた。

「!?」

 彼女は目を瞠り、僅かに開いた唇が震える。まるで狐に抓まれたような気分だった。

 口を開けても彼女は声が出せない。代わりに開いた双眸から大粒の涙が零れた。


「泣かれるとは思わなかった」


 困ったように呟いたそいつは足を摺り、ゆっくりとエーデルワイスの前に蹲む。

『何で』と口を動かす彼女に、その男は少し考えるように彼女の細い腕輪を見た。

「行かないで……と、君は言わなかったか?」

 頭の角が一本折れた彼の体には包帯が巻かれ、大きな革と布で縛られている。ぽかりと空いた大きな傷口を塞ぐ物であるのは確かだが、もう心臓は止まってしまったはずだ。傷を塞いだ程度で動けるようになるとは思えない。だがどう見ても、彼は死んだはずのズラトロクだった。

 彼は軽く咳込み、顔を顰めた。痛みはあるようだ。

『死体の癖に……』

 紙に書くのももどかしく、エーデルワイスは口を動かして言葉を伝える。カトブレパスは死者を蘇らせられないと言った。なのに死体が動いて喋っている。

「ここに俺を置いて行ったんだろう? カトブレパスが治療待ちの患者だと思って治療してくれたらしい。獣じゃなかったら助からなかったそうだ。幸い心臓や肺が一つほぼ無傷で繋がっていたから……ゲホッ。腸は滅茶苦茶だから暫く飲食できないそうだ」

『獣だから……? アナは死んだのに……? お前の代わりにアナが生きていれば……お前なんか死ねば良かった!』

「……すまない。君にばかり辛いことを押し付けてしまった」

 角を一本無くした頭をぎこちなく下げ、ズラトロクはエーデルワイスの涙を指で拭った。その手は微かに震えていた。体を動かし喋っているが、完治したわけではない。彼女のために鞭打って無理に動かしている。

 行き場の無い感情と怒りで、エーデルワイスはズラトロクの胸を殴った。その振動が全身に伝わりズラトロクは眉を寄せたが、彼女の頭を抱き寄せて赤子をあやすように髪を撫でた。声を上げられないエーデルワイスは、静かに子供のように涙を零し続けた。押し当てられた耳に心臓の動く音が聞こえる。

 その静かな再会は長くは続けさせてもらえなかった。水を差すように奥の植物が揺れ、手が空いたカトブレパスが眉を顰めて姿を現す。

「おい。まだ仮留めなんだから勝手に動くな。麻酔が切れかけているのに。僕の言うことを聞かないと今度こそ死ぬよ」

「……ああ。カトブレパス、一つ相談なんだが」

「城の連中と関わると碌なことがないんだが」

「エーデルワイスの喉を治すことはできるか?」

「…………」

 エーデルワイスは涙に濡れた顔を上げる。今更何を言っているのかと眉を寄せた。彼女の喉を潰したのはズラトロクだ。なのに治してほしいとは、妙なことを言う。

「こんな有様で、もう隠すことはないだろ。フェルニゲシュとゲンチアナの関係はもう知られた。ワイスの声が戻るなら、戻してやりたい」

「…………」

「俺はいつも選択を誤る。引き返せない悪い選択ばかり……後悔ばかりだ」

 黙って聞いていたカトブレパスは怪訝に見上げるエーデルワイスを一瞥する。溜息が出そうだ。

「……治せるが、変転人は時間が掛かる。治療すれば暫く飲食禁止だ。食べたい物があるなら食べ納めておくことを勧める」

「男に言うのは反吐が出るが……感謝する」

 城と関わるのは面倒だが、恩を売ることでアルペンローゼが解剖できるかもしれない。これだけ派手にフェルニゲシュが暴走してしまったら、アイトワラスに頼るのはもう無理だ。カトブレパスは頭を抱えたくなる。アイトワラスはフェルニゲシュを首輪から解放し、浮かれてしまった。浮かれてペラペラと話した。詰めが甘い。

「その前に、外の様子が知りたいんだが。ここは安全なのか?」

「ああ……それは俺も知りたい」

「……黒い君は動いていい」

 植物の間からこっそりと様子を窺っている者には気付いていた。獏に二人の視線が刺さり、包帯を巻かれた獏はテーブルクロスに包まれたゲンチアナに視線を向ける。

「えっと……」

 エーデルワイスは呆然と視線を落としている。話せる状態ではない。獏が話すしかない。

「首輪の仕組みとか、僕はよく知らないんだけど……」

「ゲンチアナがフェルニゲシュに殺されたなら、首輪は正常に戻ったはずだ」

「じゃあ……正常になったと思う……」

 エーデルワイスの前でこんな話をしたくなかった。彼女の弱った心に追い討ちを掛けるようなものだ。

 だがズラトロクが生きていて良かった。獏はこっそりと見ていたが、獣を憎んでいるはずの彼女の瞳が、ズラトロクを見つけた瞬間、朝陽を受けたように光を帯びていた。

 声を奪ったことを後悔しながらも、ズラトロクはきっと彼女を大切に何十年を過ごしたのだろう。


     * * *


 凍った地面に倒れたフェルニゲシュを担ぎ上げようとしたヴイーヴルは、ふと視線を感じた。

「フェルを連れて行くな!」

 屋根の上から声が降る。今から人を殺しそうな剣幕で、アイトワラスが飛び降りた。フェルニゲシュを取り戻そうと駆け寄るが、足元に炎が爆ぜる。ヴイーヴルが杖を召喚していた。

「連れて行くな? ……どういうつもりなの? アイト」

「フェルに首輪なんか付けるなってことだ! 何でフェルがあんた達に飼われないといけないんだ!」

 ヴイーヴルは思わず溜息を吐いた。今までは城の獣に対して怯えていたが、彼をもう仲間だとは思えなかった。城を滅茶苦茶にし、城下町もこの有様だ。ヴイーヴルはもうすっかり冷めてしまった。

「最初から首輪を外すのが目的だったの?」

 いつも怯えてばかりだったヴイーヴルは冷静に詰問する。アイトワラスは目を閉ざすフェルニゲシュを一瞥し、少し話に付き合うことにした。全てが明るみに出てしまった今、フェルニゲシュの首輪に物申したかった。

「最初……最初はフェルに御礼を言いたかっただけだ。でも、首輪のことを聞かされてから、解放することを考え始めた。何百年も掛かった……どうすればフェルを助けられるのか! 城の獣は邪魔だ! 首輪を封じるゲンチアナも! 変転人を作る役を放棄しようとも考えた……けど、カトブレパスも……邪魔だった。皆邪魔で……」

「カトブレパスも……? 仲間だったんじゃないの?」

「あいつは! ……確かに協力してくれた……けど、城の変転人には特殊な栄養剤を打ってほしいとかで……その所為で何か異常に身体能力が高くて、邪魔で……」

「私も容姿とかに個性が出ないミモザの薬を先生から貰ってるけど、それとは違うの?」

「フェルの首輪を維持するには並の変転人よりも高い能力が要求されるんだと。何か……能力を引き出すとか……。それでも首輪が維持されるのはたった五十年だ。オレは何度その五十年を待ったと思う? フェルを解放するために、何も思い付かない度にまた五十年! だからもう待つのは止めた! オレが壊してやるって決めたんだ! なのに……!」

「煩い!」

「!?」

「気に入らないことがあるなら言えば良かったのよ! 皆を悪者にして……アナが死ななくていい方法があるならもっと早く知りたかった!」

「それはカトが……」

「話は後でゆっくりと聞くわ。カトブレパスもね。……先にフェルをベッドに運ばないと」

「! させるもんか……!」

 アイトワラスは飛び掛かろうとし、呆気無く水の塊に足を取られて地面に張り付く。水は生き物のようにうねり、彼の四肢を拘束した。

「これからどうなるか、城に何百年も居たんだから、わかるわよね?」

 怯えない無感動な彼女の三つの目は、アイトワラスには地面の氷以上に冷たく見えた。


     * * *


「…………」

 花街の古城の最も高い尖塔の上で、艶やかな金色の髪の異質な二人が無感動に街を見下ろしていた。頭には星の環を頂き、背には小さく畳んだ白い翼が生えている。その傍らにはもう一人、頭に花冠(かかん)を頂いた白い少女が両目と口を閉ざして控えていた。

「やはり獣は野蛮だね」

 肩までの髪の方が口を開く。そこには何の感情も籠らず、言葉以上の意味は無かった。

「うっかり手を出す所だった」

「城に仕える白い変転人は免除してくれと言われているが、それだけでも不愉快なのに街も壊滅させられては(はらわた)が引っ繰り返って跳ね回る」

 髪の長い方は毒付くが、表情に色は差さない。

「余り物の変転人の世話をする、こんな簡単な仕事もできないとは。次は無いからね」

「鎮静したなら帰ろう。獣を見ていると頭が痛くなる」

 三人は忽然と姿を消し、痕跡は残さない。

 花街を見下ろしていたことも、誰も気付かない。


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